第7部 敗戦危機


 依然として、劣勢は続く。


 長く続く緊迫した空気に、一般市民たちも疲弊しきっていた。前の大戦のような空襲はないけれど、沿岸部にいけば航空戦を目の当たりにする。それは徐々に本土に近づいていて……いつ本土上空が戦場になるのかと思うと気が気ではない。


 戦闘員募集の活動も随分と盛んになり、青年たちも黒紙によって次々と消えていく。マスメディアでは優勢だと報じられているが、状況が改善される様子は一向にない。寧ろ低くなる一方の生活水準と増加する犠牲者の人数から、かつて経験した敗北の臭いを敏感に感じとっていた。


 それは極東軍部も同じで、重大な危機を感じていた。やはり人員不足が大きく影響しており、万全を期した出撃はなかなか望めず勝ちを積み重ねることができずにいた。


 整備にイヅルが加わったことで少しはマシになったが、次の出撃までに間に合わず不備があるまま出なければならないことも多々あった。原因はそれだけではない。否応なく進行する「兵器化」の恐怖に加え、連日連戦からくる疲労の蓄積。それらは、戦意を沈滞させるのに十分な威力を持っていた。


 その中で唯一明るい話題といえば、アヤが復帰しつつあることだった。意識の回復だけでも奇跡的なことだったらしいが、今では日常生活程度なら支障なくこなせるようになった。まだ出撃するまでには回復しておらず調整が必要な状態だが、それでも落ち込んだ気持ちを僅かでも持ち上げるには十分な出来事だった。


 しかし戦局の劣勢に変わりはなく、敗戦に向いた航路が方向転換するには至らなかった。序盤と変わらず勝ち続けているのは煉と廉也くらいで、他の兵器たちは辛勝か、相討ちか、敗退か。極東軍全体を見ても苦戦を強いられているのは明らかだった。



「やべえ……やべえって……!」



 いつも笑顔で朗らかで、同時に冷静でもあった涼平だったが、彼の精神は、もう決壊直前の極限状態だった。涼平の心を大きく占めているのは、やはり『焦燥』だ。落ち込んだ空気をどうにかしてやろうなんて気持ちは、もう頭の片隅にもない。


 今まではギリギリで踏み止まって抑えこんでいたけれど、誰にも打ち明けないまま育て上げたそれは、もう彼一人の手に負えないくらいに肥大化していた。メンテ直後の精神不安も相まって、今の涼平には落ち着きがない。


 頭の中の回路がぐちゃぐちゃになって、もう自分でも何をしているのか把握できない。情報が勝手に飛び交って絡まり合う感覚がとても気持ち悪い。今直ぐにでもこの頭を叩き割ってしまいたい衝動に駆られながら、涼平は首の後ろ側を掻き毟った。彼がこんなにも荒れるには理由があった。彼はとうとう、最も恐れていた『敗北』を戦場から連れて帰ってきてしまったのだ。


 もともと期待されていない単なる予備品だった俺は、やはり予備品でしかなかった。俺は是石瑞星の予備。


 前にこっそり盗み見た資料にそう書かれていた。優秀な正規品の彼が成功していれば、こんな戦況になることもなかったかもしれない。平凡以下のくせしてしゃしゃった結果がこれか? 国に勝利を捧げられない俺なんて必要ない。必要ないものを飼い殺す余裕なんてないだろうから、きっと生きたままゴミ屑のように廃棄される。いやだ、そんなの。


 自分がもっと有能な……丁度目の前で俺を諌めようと鋭い目つきで睨んでいる煉のような、有能で強い男であればどんなに気が楽だっただろう。どうして有能な是石じゃなく、俺が生き残ってしまったのだ。



「少し落ち着け、涼平」


「落ち着いてられっかよ!」



 肩を掴もうと伸ばしてきた煉の腕をはたき落として、涼平は怒鳴った。やめろ、違う、俺はこんなことをしたいのではない。行動と感情と理性の意見が一致しなくて、なんだか自分の体なのに自分の体じゃないみたいだった。



「優秀な正規品のお前にはわかんねえよな、予備品の俺の気持ちなんて……!」



 やめろと叫ぶ理性に反して口を衝いて出るのは、普段から感じている煉への劣等感だった。昔からそうだ。平凡で平均的な自分に対して、彼は優秀で抜きん出ていた。いつからだったろう。大好きなはずの親友に、心から好きだと言えなくなったのは。


 きっとあのときからだ……と思い出したのは、新制極東帝国が建立したあたりの頃だった。戦後しばらくして再会した国防隊で、煉が「瑞星事変の立役者の一人」だと聞いた頃。やめておけばいいのに二人の人生を比較して、酷く惨めな思いになったのが始まりだった。


「戦争は終わったのだ」とのらくら呑気に新制高等学校に通い就職した自分と、戦争が終わってなお闘争を強いられ、自身が中枢となった革命を成功させた彼。資質も人脈も人徳も、全てにおいて雲泥の差がついていた。その道を選んだのは自分なのに。言われなければ気づきすらしなかったのに。それでも胸に燻るのは醜い嫉妬だった。



「敗けたんだ、俺は! お前と同じ旧式なのに! 俺だけが!」


「涼平、」



 もう、自分が怒っているのか泣いているのか笑っているのか、それすらも分からなかった。どれが表に出ているのかもわからない感情に従って、叫ぶように喋る。我ながら、気でも触れてるんじゃないかと思う行動だった。いや、気なんてとっくに触れている。人間兵器になったその日から、俺はすでに正気ではないのだ。


 煉は何も悪くない。悪くないのに辛く当たってしまう。あのときもそうだ。二年前、急に煉が他所他所しくなったときだって、心配よりも先に猜疑と不満が衝いて出た。


 親友だと思っているのは自分だけで、彼はなんとも思っていないのではないか。そんな気持ちで向き合ったせいか、彼との対話は上手く行かなかった。少年だった頃のように「なんか辛いこと、あったか?」って声を掛けたかったのに、キツい口調で詰め寄って、殴り合いまでして。全てを押し殺したような無感動な目に見下されたときには、「俺とお前は違う」と蔑視された気分になって勝手な激情もした。


 でも……本当はわかっていた。蔑視していたのではなくて、壊せない人種の壁に全てを諦め、全てを棄てようとしていたからこその無感動な目だった。そうだ、彼は極東人ではなかったんだった――。


 悪いのは俺だ。親友だなんて名乗っておきながら、再会までの間に彼が受けた仕打ちに目を向けようともしなかった。煉は悪くない。俺のせい。憧れてさえいるのに。妬ましい。俺なんて。頼りになるとことか好き。見下してる?  惨め……。色んな感情が紡ぎだす言葉が、断片的に脳内を飛び交う。


 情報量が多い上にあまりに雑然としすぎていて、処理落ちしてしまいそうだった。もう何がなんなのかわからない。掻き毟ったはずの首に痛みもない。あの変な薬のせいだ。あれの量が増えてから、俺はいよいよ可笑しくなった。痛覚と疲労感が鈍る代わりに、同時にたくさんの感情が湧いて出るようになったのだ。


 痛みなんて消さなくていい。体の痛みよりも、たくさんの感情が絡まる心の苦痛の方がずっと辛い。俺は今まで、どんなことを考えてきたんだっけ。どうやって感情を処理していた? わからない、なにも、怖い、おれは誰だ、いやだ、怖い、嘗ての自分が消えていく……



「なんでおれなんだ。おれみたいな平凡以下のやつがここにいたって意味ないのに!おれなんかあのとき駄目に――」


「やめろ……!」



 自己下卑しはじめた涼平を、煉は躊躇も手加減することもなく殴り飛ばした。煉の拳はしっかりと涼平の蟀谷をとらえ、彼は糸が切れた傀儡人形のように崩れ落ちた。脳の損壊とか、そんなことを考えている余裕はない。すっかり我を失ってしまった涼平には、体内に飼った兵器を展開させる予兆があった。


 ライフルスコープの照準器に似た皮膜が目に掛かり、割れた皮膚からは、兵器生成前に見られる血液の結晶が飛び出していた。こんなところで兵器を展開させられては全員が損傷を受けるし、自分たちみたく強化されていない職員たちも最悪死んでしまう。


 煉が涼平を殴り飛ばした理由は、それ以外にもう一つあった。ただ単純に、彼の口から直接「駄目になってしまえばよかった」なんて聞きたくなかった。違う。涼平、お前は平凡なんかじゃない。誰よりも気配りに特化していて、視野だって広かった。誰かが悩んでいれば、逸早く察知してさり気なく解決に誘導する。その場に湧いた不安や恐怖を機敏に感じ取っては、明るく振る舞ってそれを払拭する。


 確かに戦闘向きではないかもしれないが、誰にでもできるようなことではない。その特技で、お前がどれだけ多くの人間を救い出したと思っている。その内の一人は俺だ。そんなお前を……否定なんてさせてたまるか。



「こいつ、整備室に連れてくな」



 煉は床に転がっていた涼平を担ぎあげて、喧しく騒ぎ立てる奈津子の制止もお構いなしに待機室を立ち去ろうとする。そのドアをくぐる直前に見た部屋の中は、思った以上に穏やかでない。まあ……あんな様子を見せられては無理もないか。煉は苦笑して、今度こそ待機室を後にした。



「何が不満なんだ、その人は」



 右側から低めの声がして、煉はその方向に目を向けた。声の主は陽炎廉也で、腕を組んで廊下の壁に寄りかかっていた。不機嫌さを隠そうともしない琥珀色の目は、煉ではなく涼平を見ている。集団生活に向いていないが、この自分の感情に素直なところに好感が持てる。


 他の奴は「無愛想だし喋らないし何を考えているのかわからない」と敬遠気味だったが、そんなことはないと思う。無愛想なのは認めるが、口下手ながらによく喋るし、感情だって割りと剥き出しだ。今回も例に漏れず、目を見ただけで如何に釈然としないかがよくわかる。威嚇する猫みたいだ、と薄ら笑いながら、この虫襖色を見るのも久しぶりだとぼんやり思った。


 元々馴れ合うのが好きではないらしい彼は、あまり待機室に寄りつかない。その上出撃や演習以外では、自室に籠るか海辺まで散歩に行ったきり何時間も帰ってこないので、恐らく殆ど接点のないまま一年を経過した奴も少なくないだろう。煉はメンテを拒む廉也を引きずり出す役目があったから毎日顔は合わせていたけれど、互いに出撃し通しの日々が続いてからは見かけることが少なくなった。今日は実に、五日ぶりの再会だった。



「きっと俺たちにはわかんねえ悩みがあるんだよ、こいつにも」



 息を吐いて苦笑交じりに言うと、廉也は思い当たるところがあるのか、不満気な目をやめた。きっと彼も、本当は涼平の悩みを知っているのだと思う。知っているけれど納得はできない。そんな心境だろう。言葉の端々に平凡を望む節をにじませる廉也が、平凡を厭い特別を望む涼平の気持ちを汲むなんて、どだい無理な話だった。


 彼も恐らく、劣等人種に分類されるのだと思う。廉也はそれを明確にしないけれど、煉はそれを感じ取っていた。純正の極東人にしては色白すぎるし顔立ちもやや異なる。それに、対人態度が『劣等人種』そのものだった。


 本人は気付いていないかもしれないが、待機室に長居しないのも散歩から帰ってこないのも、同じ立場の煉やアヤにしか寄り付かないのもそうだ。――あいつは、極東人と思われる全員を恐れている。これが、廉也の態度をみた煉の印象だった。


 煉は自分を含む多種多様な『劣等人種』を観てきたが、彼らは極力、極東人に触れないように生活する傾向がある。それもそうだ、近づけば痛い目に遭う可能性が高いのに自ら近づくはずもない。自分が『それ』だと知られていれば、本来の人格を殺してでも当たり障りなく過ごす。知られていないなら、人を避けてボロが出ないようにする。それが彼らの常套手段だった。


 彼が本当に極東人ではないとすれば、きっと北方少数民族のウタリだろう。寒さの厳しい北の海辺で漁をしながら生活していたのだと、ぽつぽつと断片的にだが話してくれたことがある。それから、前回の大戦のこともよく知らず識字も苦手だ。そこから廉也が、ウタリ出身だという説を立てたのだった。


 ウタリは比較的判別しやすい民族だ。文化が大きく異なり言語も違っているし、なにより極東に住んでいながら前回の大戦を知らないのは、北の奥地へ追いやられて情報を断絶されたウタリくらいなのだ。



「……わかんねえなあ」



 はあ、とわざとらしく大きな溜息を吐き、首を掻きながら面倒臭そうに呟いた。それからは何をする訳でもなく、床に目を落としている。そのままじっと動かない彼は、何かを考えているようだった。


 この沈黙は、彼なりに言葉を探してくれているのかもしれない。そこに廉也の成長を感じた煉は、親のような気持ちで彼を見た。極東人を本能的に拒絶している廉也が、彼らのことを理解しようと思案する日が来るとは。感動で表情筋が緩んでだらしない顔をしているのを廉也に見られずに済んでよかった。


 この姿を誰かに見せたくて、肩に担いだ涼平を揺すった。しかし完全に落ちてしまった彼が覚醒することはない。涼平、どうしてお前はこんな時に寝てんだ……いや、そうさせたのは俺か。


 まあそれはともかくとして、『そうして少しでも理解しようと思う気持ちが大事』と説教じみたことを言おうとしたところで、口を挟むのは野暮かと思い立ってやめた。暫く見守っていると、廉也はぼそぼそと口を開いた。



「…………だろ」


「――何?」


「だから、強く殴りすぎだろ。何かあったらどうすんだ、ただでさえ少ない海戦型なんだぞ」



 聞き取れずに聞き返した言葉は、予想外のものだった。まさか彼の口から、涼平を心配する言葉が聞けるとは思わなかった。暫し呆然と見ていると、廉也は煉を睨みながら歯噛みした。


――もしかしてこいつ、照れてんのか?


 その反応に思わず口元が緩み、煉は声を出して笑った。それが気に入らなかったのか、廉也は踵を返して足早に去っていく。誂われている……と思ったのかも知れない。まあ、その気持ちは無きにしも非ずだが。


 勝手に選出されて、勝手に改造されて、戦争を強いられて。煉はこれが、誰にとっても『従うしかない不幸な運命』なのだろうと思っていた。でもそれは違ったのかもしれないと、最近になって思うのだ。涼平やアヤは別として、この兵器開発がなければ廉也に会うこともなかった。彼だけではなくて、ここにいる奴ら全員との邂逅もなかっただろう。


 この状態にあの事変のことを思い出して、煉は廉也の背中を見送りながらもう一度笑った。見ず知らずの他人同士が寄り集まって、苦楽を共有しあって打ち解けて前進する。煉は、その様を見るのが好きだった。


 だから、笑ったことに悪意はない。寧ろこんな時にこんな場所で、あんなに人間らしい反応が見られたことが嬉しかった。その人間らしさは、一体いつまで見ていられるのだろう。



          ※



 開体調査とメンテナンスを終えて、秋月紫燕はぼんやりとした頭のまま処置台の端に座る。この感覚は苦手だ、もう何十回と行われたことだが未だに慣れない。このまま歩き出したところで思わぬ方向に進んでしまいそうなので、大人しく覚醒を待つことにする。駐在していると言っても過言ではないほど居座っている整備室は、相変わらず不快な薬品くささが充満していた。


 ここのところは研究のための被験体になることが多く、それに伴う不調から出撃回数が減った。だからといって何もしないというわけにもいかないので、現在は整備の補助をしている。おかげで、SA-00型の仕組みについて詳しくなってしまった。言葉で言われて分からなくても、実際に見ればそれはよく分かる。そのうえイヅルの説明が無駄にわかりやすく、その知識はすっと頭に入ってくるのだ。いや、まあ作業する上ではとても助かっているけれど。


 自ら進んで研究の被験体になったのは、とても意外だったと大勢に言われた。これまではそっけない態度を取ることが多かったし、今回の依頼も「自分には関係のないこと」だと断るんだろうな、と整備室内で話題になっていたらしい。


 だが紫燕はその逆で、本人としての認識は「断るはずがない」だった。すっかり軍に飼い慣らされたか、と煉に冗談めかして笑われたがそれは違う。別に極東軍勝利のためではない。全てはアヤを復帰させるためだ。今やアヤの存在は紫燕の世界の中心で、彼女のためなら何でもできそうな思いだった。彼女が救われるなら自ら進んで死にに行ける自信もあって、だからこそ、開体調査なんていう人体実験に協力しているのだろうと紫燕は思っている。


 これが完全な依存だということは自覚している。本物の自分がどれなのかわからない不安を、恐らく同じ境遇だと思われる彼女の存在で隠し、その安心感に縋っているだけだ。例えそれが依存であれ逃避であれ、アヤのことは大事に思っている。紫燕はただ、誰にもそれだけは間違えないで欲しいと思っていた。


 アヤが倒れてからというもの、お前は変わったね、と言われることが多くなった。煉にけしかけられてからも、彼やアヤの前以外では相変わらずだったからだろう。まあそれは表に出す人格を「紫燕」から「紫苑」に切り替えたからなのだが、その弁明はせず曖昧に受け流した。一つの体に一つの人格が『普通』だと言って考えを曲げない彼らに、それを言っても理解してもらえないことなんて目に見えている。


 穢れを知らない純真無垢だった「紫苑」を出せば、対応が柔らかくなるのも当然といえば当然だったが、一部の例外として、廉也に対する態度は変えてやるつもりはなかった。あいつは……駄目だ。なんとなくだが凄く気に入らない。初日に睨んできたし。


 そういえば、「近頃は陽炎が自発的に整備室に来るようになった」と聞いている。確かに、以前見ていた光景とは裏腹に、よく整備室で見かけるな、とは思っていた。嫌なやつと顔を突き合わせなければならない不快さはあったが、それ以上のことはない。来ても彼は、脇目もふらずに最奥に進んでいくからだ。


 廉也は出撃し通しの日々を送るうち、自ら進んでメンテを受けるようになった。別に何にも興味はない、と言う顔をしていたくせして、勝利に貪欲になった。以前は自力で立てなくなるまでメンテを拒み、ただ事務的に出撃していたのに。


 一体どんな気変わりがあったか……と思ったが、そんなこと考えるまでもないのだろう。一番の要因はアヤだ。最奥の浴槽の一つに常駐していたアヤに、あいつは会いに来ていたのだ。


 それも気に入らなかったけれど、文句は言えなかった。いつもの仏頂面からは信じられないくらい、ひどく穏やかな表情で浴槽を覗きこむ姿を見てしまえば、邪魔をする気にもなれなかった。


 きっと彼も、自分と同じ気持ちでアヤに接しているのだろう。自分の意思と反してそれを察知してしまった紫燕は、以来彼と顔を合わせても敵意を持てなくなってしまった。いや、気に入らないのには変わりないし、嫌悪感もしっかり持っている。仲間であるはずの彼にそう思うのも、間違っているのかもしれないけれど。



「……アヤに会いに行こうかな」



 ちょっとだけ嫌な気分になったところで、それを払拭しようとアヤのことを考える。彼女はあまり自由に動けないのに動きたがるから、今は自室で軟禁状態になっている。無表情で淡白に見えるくせして、実はかなり好奇心旺盛な彼女のことだ。なんの変化も見えない空間に閉じ込められて、暇を持て余しているはずだった。


 無理のない程度になら出歩かせていいとイヅルも言っていたし、今日は少し、海辺あたりまで連れ出してやろう。最近は随分と調子良さそうだったし、きっと大丈夫だろう。もうだいぶ頭もすっきりしたし、そろそろ行くか。そう思った紫燕は立ち上がって出口へと向かった。ドアを開けたところで誰かと鉢合わせ、ぶつかる既に立ち止まる。



「お、紫燕。メンテ上がりか?」


「島風さん」



 鉢合わせたのは島風煉で、驚いた紫燕は一瞬だけ言葉がつまった。反応は遅れてしまったものの、テンパるなどの醜態を晒さなかったことに安堵しつつ、改めて眼前の煉を見る。その肩には、男が一人担がれていた。


 見たところ初春涼平らしいが、彼は煉の肩の上で少しも動かなかった。一体何があったのだろう。彼はとうとう、完全に兵器化してしまったのだろうか。ひび割れた皮膚から結晶化した血液が飛び出ているのを見て、紫燕はそう思った。


 実用化して、酷使されて一年余り。ここで漸く完全兵器化の機体が出てくるとは、わりと長持ちしたほうなのではないだろうか。持ち上がる様子がない涼平の後頭部を見ながら、紫燕は人事のように漠然と思った。


 近頃、初春涼平の様子は可笑しく調子も悪かったが、それに反して二号機《ワダツミ》の戦績は良くなっていた。それを判断する《初春涼平》が不調なので気づいていないようだったけれど。



「兵器化、ですか」


「まあな。完全に、ってわけじゃねえけど、ちょっとまずいかもな」



 待機室で展開しようとしてたし、と言った煉の言葉を聞いて、そんなに制御できなくなるものなのかと紫燕は思った。他の面子が苦痛に顔を歪めながら耐え忍び、時に抑えきれずに体内の兵器を展開してしまうのをよく見ているが、まだ兵器化の兆候が見られない紫燕にはよくわからない感覚だった。


 そういえば、煉にもその症状は出ているのだろうか。彼なら聞けば答えてくれるかもしれないが、果たしてそれは聞いていいことなのか……



「……どうした?」


「いえ、なんでも。メンテナンスの準備します」


「や、待て」



 再び奥へ戻ろうとした紫燕を、煉は制止した。



「お前、今日開体調査だったんだろ。そんな奴にメンテさせようなんて思わねえよ。今日はもう休め。明日、久々の出撃なんだろ?」



 他に整備員もいるみたいだし。そう言った煉の顔は、ひどく優しく柔らかだった。いつもの人を喰ったような不敵な笑みはどこへ行った。そう思うと同時に、彼自身の兵器化について聞くのをやめた。聞くまでもないことだと気づいてしまったからだ。


 この男は隠し事が苦手なのだと、この一年程度の共同生活で知った。平静を装えているようでそうでなくて、今のこの馬鹿みたいな柔らかさも、なにか特別な心境を隠すために作られたものだ。


 横暴な態度をとりつつ冷静に周囲を見回しているのが素の状態で、それ以外は感情を押し殺して処理しようとしている状態だと言っても過言ではないと思う。初めて正式に出撃した時も、戦局が悪化し始めた時も、アヤが倒れた時も、そして今も……どの瞬間も全て、死んだ魚みたいな生気のない目をしていた。そしてそれを見る頻度は日に日に増している。――となれば、答えは決まったようなものだ。


 そうか。彼もそうだったか。静かに納得し、一人小さく頷きながら整備室のドアをくぐる。本当は涼平のメンテナンスをしながら話をしたかったのだけれど、今はそっとしておいたほうが良さそうだ。


 去り際に振り返り、閉まる扉の隙間から見えた煉の顔からは柔らかさは消え去っていた。替わりに張り付いていたのは殺伐とした無表情で、自分の選択は正しかったのだろうと紫燕は思った。特別な情報を持っている初号機だからと、開発者と同等の目線で状況を観測しながら最前線で戦わなければならない責務の重さは、想像するに余りある。こんな時に俺の相手をさせるなんて、更に負担をかけてしまうだけだろう。



「あの人達がいなくなるのも時間の問題か……」



 そう呟いた紫燕は、胸の苦しさを感じていた。この気持ちは、もう随分と疎遠になっていた『不安』だ。寄せ集められて勝手に宛てがわれた「仲間」が、ひとりひとり徐々に、じわりと消えていく。


 それに感じる不安か? いや違うか。自問自答ではじき出された答えがあまりに稚拙で、紫燕は自分が情けなくなった。「人と違うから不安」だなんて、そんなの今更じゃないか。俺が人と同じだったことなんて一度もないのに……。肺の空気を全て排出する勢いで息を吐き、廊下の隅で頭を抱えて蹲った。


 人間だった頃とほぼかわらない状態で、兵器として存在している。決して悪いことではないはずなのに、自分だけ兵器化の症状が現れていないことに焦りを感じていた。『兵器化』がないということは、皆が感じている苦痛を共有できていないということ。それゆえに完全に溶け込めない異物となる。


 初めから自覚していた事だが、自分だけが浮いていた。そう思うと心臓を鷲掴まれたように息苦しくて、漠然とした不安に全身の肌が粟立った。その感覚は実に十四年ぶりで、澄華人だと思っていた自分が極東人だと発覚したときによく似ている。それを思い出した紫燕は、大声で叫びたい衝動に駆られていた。



「秋月?」



 拳で壁を殴って荒々しく立ち上がったところで、聞こえた声にゆっくり振り返った。その声は今や最愛のアヤのもので、その途端にささくれだった心が和やかになるのを感じていた。


 なんて単純なんだと思いながらも表情は容赦なく緩むもので、その姿を捉えて至福に浸――――いや待て、なぜ自室に隔離されているはずの彼女がここにいる? 近頃は調子が良いとはいえ、一人歩きなんて危険にも程がある。大変な事態に気付いたおかげで混乱しかけた脳内がスッと整理され、いつもの平静さを取り戻せた紫燕はアヤに駆け寄った。



「アヤ……!」



 ふらつきながら縋るドアは待機室の入り口で、開こうとするのをやんわり制止した。つい先程、涼平を担いできた煉に会ったばかりだ。彼は、「涼平が取り乱して、待機室で兵装を展開しようとした」と言っていた。だったらこの内部は、きっと混乱しているか殺伐としているかのどちらかだ。そんな空気、アヤに触れさせたくない。紫燕は、アヤを庇うように抱きしめた。


 それに大人しく従い、彼の腕に収まったアヤは「ひとり歩きだけはやめろ」などと小言を言う紫燕を見上げた。一年の半分以上の時間を共有したこの男は、過保護なまでに自分のことを心配する。あってもなくても同じような劣等人種を過保護にする意味がわからなくて戸惑いはしたが、今はもう慣れた。寧ろ満更でもなく、妙な心地良さを感じているように思え、アヤはなんとも言えない不思議な感覚を味わっていた。


 今までの自分なら、こんなことは僅かでも考えなかっただろう。そもそも無縁すぎて、感情の変化にすら気づかなかったと思う。それでもこうして暖かさを感じているのは、人体改造の影響なのだろうか。よくわからないけれど、脳の奥まで変わってしまった感じがすると皆言っていたし。


 脳が変化したから情動も変化したのか――と思ったところで、アヤは考えるのをやめた。彼との間に生じつつある特別な「何か」を、そんな機械的なもので片付けたくない。それではなんだか、余りに寂しくて冷め切っている。そんな無機質なものではないと思っていたが、その実、その正体がなんなのかは分からない。その内に頭の中がぐちゃぐちゃになって頭痛がし、紫燕にバレないように小さく息を吐いた。


 待機室に入ろうとしたのは、久々にあの白い部屋を見たくなったからだ。特に重要な理由はなかったし、この切迫した状況にも関わらず何もしていない自分が行くのは気が引けたから、隙間から覗くだけのつもりだった。


 どうにかドアのところまで辿り着いたところで見かけたのが壁を殴る紫燕で、それを目撃したアヤの心には、彼に何があったのかという心配と中で何があったのかという好奇心が同時に湧いていた。



『報告します、硫黄島上空付近にて三号機《ニニギ》をロスト!現在、回収班が捜索中です』


『相手はどこだ、どいつにやられた!』



 どう話しかけて聞き出すべきかを考えているうちに、壁の上部に設置されたスピーカーがけたたましく鳴く。音割れのノイズ音に混じって聞こえるのは、通信長の慶咲とイヅルの切羽詰った声だった。


 いくら緊急時とはいえ、これでは不安を煽るだけだ。こんな通信を筒抜けにさせるなんて、イヅルは一体何を考えているんだ……とアヤは少し冷めた思いで報告の続きを待った。案の定ざわめきだした周囲と、少し緊張した様子の紫燕を交互に確認したアヤは、やはり自分は可笑しいのだと思った。


 敗退を告げられ、現状を伝えあう声色は切迫していたにも関わらずアヤの心は僅かに踊っていた。その心を占めるのは間違いなく好奇心で、結果の善し悪し関係なく戦況を知りたがっている自分がいる。《ニニギ》を、みつきを墜としたのはどこのどいつだ。馴染みのやつか、新しいやつか。新しいのだったら、それはどんな性能の兵器なんだろう。想像すればするほど楽しくなり、自然と笑みが溢れる。その場にそぐわない行動だったとしても、それを止めることはできなかった。



『え? いやこれは……しかし……』


『どうした慶咲、なにがあった』



 途絶えていたイヅルと慶咲の遣り取りは再開したものの、しどろもどろで釈然としない。固唾を飲んで見守る所員たちに倣い、アヤもスピーカーを見上げた。状況を入念に調べているのだろう。


 慶咲が手早く返事をすることはなく、カタカタとキーボードを叩く音とノイズばかりが聞こえてくる。そして暫く経ってから、躊躇いがちな彼の声をスピーカー越しに聞いた。そこから読み取れる彼の感情は戸惑い一色で、自分にも訳がわからない、と言いたげだった。



『《ニニギ》と交戦したのは……十号機《アマテラス》です。電気信号の照合をしたのですが……何度やっても《アマテラス》がヒットするんです』



 その報告に所員全員が絶句した。紫燕もそのうちのひとりで、彼が何を言っているのか分からなかった。なぜ《アマテラス》が? 彼女は今、ここにいるのに。紫燕はその存在を確かめるように、腕の中のアヤを強く抱きしめた。


 スピーカーから、イヅルの応答は聞こえない。恐らく彼も、身近にいる所員同様に愕然としているのだろう。だってそうだ。同じ電気信号が検出されるということは、「朝潮アヤそのもの」がそこにいるということになるのだから。



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