第5部 実験サンプル≒…


 最初の『SA』はSample、その他の『SA』はSpecialAtackを意味する。


 同じSA-00型にも二通りの意味があるということは、開発室と大記と煉以外、知り得ないことだった。サンプルになったのは、勿論自分の意志によるものではない。会ったこともない、名前もろくに知らなかった皇帝から直々に指名された。


国外出身の異民族であることを隠しもしなかった自分が名指しされたのは、別に死んだって構わない奴だと思われたのか、それとも《瑞星事変》でのことが評価されたか? と考えて、まあ前者だろうと煉は高を括っていた。


「評価された」といっても自分は大した事をしておらず、友人だった是石瑞星に頼まれたから、情報や協定の橋渡しをしただけに過ぎない。こんなの、誰にだってできることだ。俺である必要はない。煉はそう思っていた。



『島風二尉。貴様に特別任務を命ずる』



 急に呼び出されてこう命令されたのは、一昨年の秋のことだ。そんな面倒そうな任務はお断りだと即答したのだが、当然それは聞き入れて貰えなかった。情報収集や汚れ仕事を請け負う協力関係にあったとはいえ、この時の煉は入局して二年も経っていない新人だ。二尉なんて階級を与えられていることも、未だに腑に落ちていない。


 この警察組織である国防隊には、極東再建国時から散々入局要請を受けていたのだが今までそれを拒否し続けた。利用されるのも嫌だったし、歪みに歪んでねじ曲がってしまった自分が、警察組織に加わる資格を持っていると思えなかったからだ。いまこうして籍を置いているのは強制されているのと同じだったが、暴動を起こさず納得しているのは、直属の上司がこの男だったからだ。


 事変以降の協力関係の窓口を務めていたときからの付き合いで、全て……とはいかないがある程度の理解を示してくれるということを知っているから、まあ少しぐらい付き合ってやってもいいか、という気になれた。そんな彼に「二尉」と呼ばれる強烈な違和感は、いつになっても払拭出来ないけれど。



『……ああ、入局前の仕事みたいなもんか』



 命令拒否を拒否されて、苛立ってそいつの胸ぐらを掴んだところで「これも以前の汚れ仕事みたいなもんか」と思い、手を出すのをやめた。


 直属の上司である森脇もりわき孝司こうじは、胸ぐらを掴んだまま見下ろす煉の、瞬時に冷然となった目を見た。それと同じくらいに淡々とした口調を聞いた森脇の胸中は複雑だった。


 この青年はかっと熱くなりやすく、反骨精神旺盛なところがある。そのくせそれを外に出しきってしまわず、内に閉じ込めて殺す。今だってそうだ。自分の意見を拒否されて怒ったのはほんの一瞬で、すぐにそれを取り下げて納得してしまった。それは彼が……自身を軽んじているからだろう。


 島風煉という男は、身体能力が群を抜いて高い。それに冷静に周囲の状況を見ることができるし面倒見もいいし自分の意見もハッキリと言う。こんなにも恵まれた資質を持っていても極東人でなければそもそも評価してもらえないし、それに加えて彼は眼の色が人と違う。遺伝子欠陥による異色と外国籍により「劣等人種」のレッテルを貼られた彼の人生は、想像を絶するものだったのだろう。


 その屈辱と惨めさ、「自分が何を思ったところで世界は変わらない」という諦めから今の人格を形成する事になったかと思うと、胸が裂けそうなほどの罪悪感を覚えずにはいられなかった。彼のような青年を生み出したのは、間違いなく自分たち大人なのだ……



『すまないな、島風。この任務の内容は私も知らん。私は部外者らしくてな、教えて貰えなかった。本当は行かせたくないんだがな、こんな得体の知れない任務』



 お前は本当に役に立つからなあ……。目をそらして呟いた彼の声を、煉は黙って聞いていた。嘘を言っているとは思えないその声は心地よく、また信じられるものだった。大人が全て、彼みたいな人だったらよかったのに。そう思ってすぐにそれを打ち消した煉は、静かに森脇を解放した。


 勅命は絶対。必ず受けなければならない。だとしたら、俺が言うべき言葉は決っている。感情も体温も、自身の全てが冷えきっていくのを感じながら、煉は伏せた目を閉じた。



『森脇二佐。この特殊任務、謹んでお受けします』



 一切の光を絶った目で淡々と言う彼を、森脇は呆然と見上げていた。言葉を失った彼を見下ろした薄ら笑いの煉は、深い思案をやめた。どう思ったって、思われたって、劣等人種の自分が辿る末路は既に決っている。この『特殊任務』も、どうせ碌なことではないのだろう。


 だがそれもどうでもいいことだ。疎まれ忌まれるだけの俺がどうなろうが、誰も構いはしないのだから……。慈しむようでも憐れむようでもあった森脇の視線からは、逃げるように背を向けた。しっかり開かれた煉の目は、氷のように冷たかった。



          ※



 たったひとり護送車に押し込まれた煉は、窓も何もない薄暗い空間に座り込んでいた。これに乗るのは二度目だ。国防隊に強制入局させられたときもこれに乗せられたことを思い出した煉は、やはり碌な任務ではないと、改めて思った。


 任命されて連行されるまでのおよそ二週間は、任務の概要説明や各種手続きに費やされた。聞かされる内容や転属手続をさせられたことから、もう二度とここへ戻ってくることはないのだということは想像に易い。そこに《死》を感じ取っても、煉の心は揺らがなかった。


 これまでと同じ。事変以来――いや、以前の大戦以来から変わらず、極東人がやりたがらないようなハイリスクノーリターンの業務を遂行すればいい。奴らにとって大変なことかもしれないが、俺にとって「死ぬかもしれない」は当たり前なのだ。


 同じ部署に配属され、共同での作業の多かった涼平との接触も極端に減り、彼には散々怪しまれたし探られた。何を隠しているんだ、正直に言え。お前は一体、何をさせられようとしている。涼平は人目も憚らずに大声で詰めよって来たが、なにも言うつもりはなかった。


 言おうにも不明確な部分が多く憶測でしか話せないし、上司の森脇でさえ教えられなかったことを、一介の下級士官に話していいはずもなかった。心を閉ざして拒む煉と、それでも引かずに詰め寄る涼平で殴り合いの喧嘩にまで発展したが、それでも彼は何も言わなかった。どうして何も言わない。俺とお前は親友じゃなかったのか――。慣れない殴り合いにへばり、床に膝をついた涼平は、苛立ちと寂しさが入り混じった表情で煉を見上げていた。それを無感動な目で見下ろしていたのは煉だった。


 彼は、きっと親友なのだろう。異民族の自分を蔑むこともなく、身よりも何もなくなった自分を気にかけてくれた彼には大変に感謝しているし好きだ。しかし涼平、お前がどう思おうが、やはり人種の壁は厚い。純極東人のお前と和寧人の俺とでは、やらされることも許されることも大きく異なるのだ……。



 涼平と仲違いしたまま到着したのは、都内ではなく横須賀の軍事研究施設だった。概要にもならない簡略的な説明から予想していたことは、どうやら的中しているらしい。いま目の前にある機器を見て、煉は確信した。この特殊任務とは、公にするのも憚られるような人体実験だ……。



『君が島風煉だな?』



 突然声をかけてきたのは、正装で身を固めた青年だった。年は自分と同じくらいで、もしかしたら年下かもしれない。後ろ手に組んで悠然と歩く彼は、この殺伐とした実験室に全く合わず浮いていた。


 彼が現れた途端に全員が畏まり、直立不動となったことから彼が皇帝なのだろう。そう考えた煉は、少しがっかりしたような気分になった。彼は声も顔つきも幼く、体格もひょろくて頼りない。お世辞にも威厳があるとは言えず、こんな奴がこの国のトップなのかと思うと、情けなさと屈辱で無性に腹が立った。


 周りがみな畏まる中、煉はただ独り、振り返ったままの姿勢でふてぶてしく皇帝を見ていた。彼に自分を紹介されるのを聞きながら、思うのはやはり「皇帝らしくない」という失礼な感想だった。煉には彼が、ただの傀儡にしか見えなかった。


 奴は自分の意志ではなく、洗脳されてただ周りの思うままに皇帝を演じているのではないか。全ての決定権を持つ奴がただの傀儡だなんて笑えない冗談だ。そればかりが気になり、ただひとり思案しながら、肩越しに皇帝を見続けた。周囲から白眼視されようが気にも留めない。体ごと振り返って彼の正面に立ち、問うた。



『どうしてあんたは、人間兵器の開発なんてしようと思ったんだ?』



 煉は、真っ直ぐに皇帝の目を見て言った。大事なことをぼやかすいい加減な説明会でも「新型兵器開発の支援」としか言われていないが、この眼前に揃えられた設備と独自に集めた情報から、これが人間兵器開発の「支援」ではなく「実験」行う《特殊任務》なのだと特定した。


 純極東人の頂点に立つ皇帝には、最大限の敬意を払わなければならない。そう言われてきたけれど、それは煉にとって、有って無いような規則だった。別に地位とか人種とか、そんなものはどうでも良かった。それは元来の性格のせいか、それとも「どうせ死ぬから」と諦めているからか。両方か、とひとり納得し自己解決したところで、彼の側近に厳しく非難されたがそれは無視した。皇帝の目から視線を逸らさず、煉は彼の答えを待った。


 その目を見た皇帝――雁ノかりのや太一たいち は、ただ呆然と立ち尽くしていた。その気持は、戸惑い半分、嬉しさ半分。こうして「普通」に接してもらえたのは何時ぶりだろう。父が初代皇帝になって以来、家族以外の人たちからは畏まられるというか、腫れ物に触るような扱いをされていた。


 それが気に入らなかったことを、更にはまともに話をしてくれる相手もおらず寂しい思いをしていたことを思い出した太一は、口角が上がりそうになるのを感じていた。まだ自分を人間扱いしてくれる奴がいたか。やはり彼は違う。彼を指名してよかった。そう思うと当初感じていた戸惑いはすっかり消え失せ、喜びばかりが胸に残った。


 だがそう思うのは一瞬でやめて、太一は急いでそれを打ち消した。駄目だ駄目だ、皇帝がこんな人間臭さを出してはいけない。『国家を統べるためには、神性を保っていなければならない。一億以上を束ねるには、人を凌駕する神でなければならないのだ』と、生前の父は言っていた。


 本当はそんなものになりたくはなかったけれど、周りに推されるまま、こんな所まで来てしまった。もう後戻りなんてできない。父さん、どうして皇帝なんかになってしまったの。もう誰にも届くことない泣き言を飲み込んで、薄く笑んだ太一は煉の瞳を見返した。



『過去の雪辱』



 全ての感情を消したかのような目で笑いながら言った太一は、煉の眉間に皺が寄るのを見た。それが怪訝のせいか怒りのせいかは、太一にはわからない。どちらにせよ好意的ではないそれを見て胸が痛んだが、その感覚は無理やり消して言葉を続ける。



『全ては雪辱を果たすためだ。あの忌まわしき敗戦も、あの屈辱的な分割統治も、君だって今でも覚えているだろう? それらは全て晴らしてやる必要がある。それには新型人間兵器が――【高天原計画】が必須となる』



 こつ、こつと軽快に鳴る靴音はこの場に不釣合いで、むかつくほどに耳に残る。後ろ手に組んだまま歩き近寄ってくる皇帝様の姿勢は思いの外よく、そのご尊顔もよく見える。改めて見下ろした顔はやはり幼い。


 悠然たる態度をとっているつもりらしいその表情も強張っていて、平然さを装っていても焦燥さえ隠しきれていない。筋書き通りに事を進めるその姿は、滑稽を通り越して憐れだと煉は思った。彼は、思った通りただの「傀儡」だ……。



『島風煉。君にはその計画の進展に関わる業務に就いてもらう。そして、全ての国民が望んだ雪辱戦に、』


『俺は望んでねえけどな』



 煉は太一を見下ろしながら、冷たく吐き捨てた。雪辱戦など望んでいない。それは自分だけではないはずだ。あの終戦の日に安堵した人だっていたし、分割統治だって過去のことだ。忘れたわけではない。今でもよく覚えている。以前の大戦で家が焼かれたことも、親しかった人たちが大勢死んでしまったことも、分割統治からの解放を求めて奔走したことだって、昨日のことのように覚えている。


 しかしだからといって、その時の出来事や受けた仕打ちの酷さを逐一気にしていたらきりがない。過去は過去。今は今。過ぎたことをどれだけ悲観しようとその事実は変わらない。「やられたらやり返せ」の心理は解るが、実行するならリアルタイムでなければ意味がないのではないかと煉は思う。もう十二年も前の報復戦を今になってしようという気持ちが、煉にはわからなかった。



『それに、俺は《皇帝》に聞いてるんじゃない。お前に聞いてるんだ』



 大げさに差し出されたその手は取らず、代わりに出し抜けに手首を掴んで強く引き寄せた。否定されたことで息を詰まらせていた皇帝の顔は、突然の出来事のせいか、薄気味悪い傀儡から歳相応の青年のものに変わっている。


 十センチほどに縮まった距離の先にある瞳は、戸惑っていた。そうだ、俺は皇帝なんかに聞いているんじゃない。そんな見栄と世間体に固められた理由なんか聞いたって意味が無い。知りたかったのは彼本人の意見。どんな気持ちで計画実行を決定したのか、それが知りたかった。


 気取った表情よりも、その優しく気弱そうな表情の方がしっくりくる。本人は不本意かもしれないが、きっとそれが彼本来の顔なのだろう。煉はひとり納得し、揺れる瞳を見下ろし続けた。



『貴様、皇帝様になんと無礼な!』


『島風、お前という奴は……!』



 両陣営から非難を浴びせられ、皇帝側の側近には抜刀さえされたが、それでも煉は止めなかった。――というか、俺を呼んだ時点でこうなることくらい予想できていただろうに何を今更。煉は一切反省することも怯むこともなく、力づくで抑えこまれて引き剥がされるまで返答を待ち続けた。


 その気持ちを察知してくれたのか、太一は口角を上げて笑む形をつくった唇を噛み、今までにない真っ直ぐな瞳でこちらを見ている。『こちらの立場を察してくれ』。そう言いたげな表情だと勝手に解釈することにした煉は、しょうがねえな、と笑んで目を閉じた。


 流されるままに決めたことではなく、奴には奴の別の意志がある。それが解っただけで十分だった。これで何も考えていないようなら徹底抗戦してやるつもりだったが、そうではなかったのである程度は従ってやろうと思っている。意志のない奴の一声で死ななければならない事ほど、嫌なことはない。首に押し付けられた軍刀に少し肌を切られていたが、それは不問にしておいてやろう。



『やはり、君を選んでよかった。どうだ、この任務が終わったら近衛兵団に加わらないか?』


『お断りだな』


 不敵な笑みを浮かべて見下ろす煉を見上げた太一は、緊迫した場の空気を少しでも和らげようと、煉に対して友好的な態度を取ってみた……が、彼から返ってきたのは反抗の意で、結果として空気は良くならなかった。しかしこの方が彼らしい。接点はほとんどないけれどきっとそうだと思った太一は、心から笑んで目を伏せた。



『必ず生き残ってくれ、極東帝国の勝利のために』


『そんなもののために生き残るつもりはねえよ』 



 そう吐き捨てると、煉は太一に背を向けて研究室へ歩いて行った。抵抗するでもなく、道を尋ねながら自ら進んで行く彼に一同は驚いているようで、動揺しながら慌てて彼を追っている。


「反骨精神旺盛でやや暴力的」だという前情報に弄ばれているのだろうが、そもそも抵抗する気があるならここにはいない。情報通りの人間だったのは、この国が再建される前のことだ。もしかしたら俺は、事変のときに死んでしまっているのかもしれない……あっさり劣等人種の枠内に組み込まれ、それを受け入れてしまっている自分を客観視した煉は、堪らなく情けない思いになった。


 あの人達は、深田ふかださんと石田いしださんは、これに似たものを抱えて自決したのかもしれない。戦後間もなくの頃には全く見えなかった彼らの気持ちがわかった気がして、この実験で死ぬのもいいかも知れない、と煉は苦笑した。



          ※



「実際にどんなことをされた……っていうのは、被験者の俺たちには分からねえ。寝て起きたら兵器になっていた、くらいの感覚で、解るのは何らかの外科手術が施されたんだろうってことくらいか。最新型のアヤと秋月にもそう聞いたから、恐らく他の奴もそうだと思う」



 長めの回顧を断ち切って、煉は知りうる限りのことを全てイヅルに話した。大記と鈴世が頷くのを確認して、煉は再びイヅルを見た。ついでに言うと『メンテナンス』が不可欠な体になったが、それ以外は以前と何ら変わりなく日常生活を送れている。まあ飽くまでも、今のところの話なのだけれど。


 ぼんやりとした目をしていたイヅルの目は伏せられていて、正面の煉や大記には見えなかった。が、その心は焦り考えあぐねていた。


 これは取り返しの付かないことになった。机上で組んでいた手の力を無意識に強め、肌に爪が突き刺さる。その白い肌に血を滲ませていたが、イヅルはそれに気づかない。彼はじっと、施されたらしい外科手術について考えていた。


 そもそもこの計画は、人の筋肉の運動は脳からの電気信号によるものだということを利用している。脊髄に接触させるように設置した発信機を通して、筋肉と脳の信号のやり取りをより素早く円滑にさせるものだった。『体がいやに軽い』と聞いたし、きっと彼らの場合、脳に送る電気信号を極端に強くしているのだろう。もしそうだったなら、問題はもとに戻す方法だ。強い電気信号に慣れてしまった体は、本来の信号の強度では思い通りに動いてくれないだろう。



 彼らを人間に戻すにはどうすれば。

 イヅルはただそれだけを考えていた。


 元に戻せなくても、現状維持させる方法は必ず見つけ出さなければならない。取り敢えず今のところは、平常時は普通の人間と変わりなさそうだから、完全に『兵器化』してしまうことだけでも防がなければ。そう考えながら思い出したのは、提示された宮下の企画書だった。


 気が触れたかのように雄弁に語っていたそれは、現代の技術ではとても実行できそうにない代物だった。例え強化できたとして、その後はどうするのだ。彼らは今までと変わりなく生きていけるのか。宮下にはそう尋ねた記憶がある。すると彼は『君は兵器の生活を気にする男なのか。噂には聞いていたが、随分と可笑しなやつだな』なんて言ってきたんだっけ。


 可笑しいのはお前だろう、という言葉と苛立ちを飲み込んで平静さを装ったところで、不必要なまでに近寄ってきたあの男は、狂気の沙汰の笑みを浮かべて言うのだった。



『死んだモルモットが生き返らないことくらい、君も知っているだろう?』



 耳元で囁かれたかと思うほど鮮明に思い出した言葉に、イヅルはびくりと跳ねて顔を上げた。俯いたまま動かないイヅルを案じて伸ばされた大記の手を跳ね除けて立ち上がり、部屋の奥に見えた宮下の幻影を睨みつけた。



「あいつ……!」



 吠えるように唸り、憤怒にギラついた青い目を暗闇に向けるイヅルに倣ってそちらを見たが、誰にも何も見えない。だがイヅルには、気狂えたように嗤う宮下が見えていた。あの時はなんのことか分かっていなかったが、今になってようやく分かった。あいつが提示したものは、企画書であって企画書ではない。あんなもの、思いついたことや試したいこと全てを実行するという宣言書だ。


【高天原計画】だなんて崇高そうな名前をしておきながら、その中身は生きた人間を玩具にした、行き当たりばったりな人体実験でしかない。彼にとって、兵器開発なんてどうでもいいのかもしれない。自身の知的好奇心を満たせればそれでいい。だから、もとに戻すつもりも端からない……。



「こんなことなら、あの設計図も燃やしておけば良かった……!」



 首筋をがりがりとひっかきながら、イヅルは大記に全ての図面か実験記録を出せと催促していた。ぼんやりしていたかと思えば、急に立ち上がって取り乱したあたり、彼にはなにか思うことがあるのだろう。年長者三人が慌ただしく動き出したのを、アヤは少し後方でぼんやり見ていた。


 どうやらなにか大変なことになっているらしいが、その危機感が自分には伝わらない。こんなに切迫している環境の中で何の感情も察知していないのは、自分が『兵器化』してしまったことを示しているのか、それとも元からそういう人間だったのか。アヤにはそれすら分からないでいた。



「あの、」



 重苦しく張り詰めた室内に響いたのは、吹雪鈴世の声だった。この場に似合わない、幼さの残るか細い声は微かに震えている。



「ご、ごめんなさい……あの、話が全然読めなくて。差し支えなければ教えて頂きたいな……と……」



 個人的に興味深い話だったけれど、完全に置いてけぼりを喰らってしまっていたので思い切って声をかけた。しかし、これはあまりに空気の読めない行動だったのかもしれない。切羽詰まった様子で向けられた目はギラついていて、それが恐ろしくて足が竦む。意を決して発声した割に体は萎縮してしまって、しどろもどろで尻すぼみになってしまった。


 私はどうしてこんなにも気が弱いのだろう。自己嫌悪に陥って伏せた目を、いや、弱気ではいけないと自身を奮い立たせて持ち上げたところで、鈴世の大きな黒い目は、イヅルの青い切れ長の目をしっかりと捉えた。



「……この計画が貴方たちの描いたものが原案になったこと、兵器への改造方法は外科手術的なものだということ、被験者の選定理由はなんとなくわかりました。でも、それでどうしてそんなに取り乱すのか、その理由がわからないんです。……教えて頂けませんか?」



 今度こそしっかりと正面を見据えて、鈴世はイヅルに問うた。彼は、『外科手術』の話を聞いてから乱れ始めた。そこに何か理由があるのかもしれない。本当は開発に関する会議に呼ばれてもいたのだけれど、なんだか怖かったから断った。


 だが……参加しておけばよかったと、今更になって後悔している。参加していればこの流れにもついていけて、何かしらの協力だってできていたかもしれない。なにもかも、この臆病さがネックとなって円滑に進んでくれない。こんなもの、消えてなくなってしまえばいいのに。薬の影響でなくなってしまった痛覚のかわりに、こっちが消えてしまえばどれだけよかったか……。


 気弱な娘から一転して、急に気丈で悧巧な娘に様変わりするのを目の当たりにしたイヅルは、呆然として沈黙してしまった。それを拒絶と受け取ったのか、またも彼女は目を伏せてしまった。そこに重ねたのは旧友の東坂百合恵で、彼女も昔はよくこんな目をしていた。


 投影してしまったのは、この子と彼女の雰囲気が似ていたからか。暗い顔をさせてしまったことに自責の念を感じ、そのことで冷静さを取り戻しつつあるのを感じていた。



「……この計画は、外科手術による人体強化が基盤だ。脊髄に接触させるように電気信号の発信機を取り付けて、運動神経を増強させてる。体が軽いって感じるのもそのせいだろう。それだけなら良かったんだが……」



 あっという間に資料で埋め尽くされた机上を見下ろし、イヅルは小さく息を吐いた。記録をざっと読んだが、思った通りに施術内容は皆バラバラだった。臨機応変、というよりも手当たり次第にやったという印象が強く胸糞悪い気分になる。歩留まりが悪いのなんて当然だ。寧ろ十の成功例があることの方が、イヅルには信じられなかった。



「死んだモルモットは生き返らない。宮下はそう言っていた」



 そう言って顔を上げたイヅルが見たのは、煉や鈴世と同じく、愕然として二の句が継げずにいる峯風大記だった。――お前は何を驚いている。お前だってあの場にいたし、彼の口から直接聞いてるじゃないか……。ただ忘れているだけなのかもしれないが、それだけで彼が別の何かになってしまったようで怖かった。


 成る程、あの違和感の正体はこれか。自分が知っている嘗ての大記はもういない。そう思うと少しだけ気は晴れたが、同時に絶大な喪失感も覚えていた。



「今のお前たちは、一部を除いては今までどおりに生活できているように見える。人格も自我も今のところ変わっていないようだが……いつか、もしかしたら近いうちにそれも全部なくなって、完全な兵器になってしまうのだと思う」



 力なく、呟くように言うイヅルの声を、アヤは無感動に聞いていた。何を聞いても感心を持てず、絶望感も焦燥感もない。イヅルの言葉通りになるのなら、自分はもう、完全な兵器になっているのだと思う。この体ももう自分のものではない気がするというか、さっきから体と精神が切り離されているような感覚だ。


 浮いているような感覚を味わっているくせして、体は重く思うように操作できない。これは兵器化か、単なる故障かと考えて、どちらでもいいという結論に至った。「お前たちは護国の兵器」だと宣告された時点で、人格や自我がなくなってしまうのは想定の範囲内。それに、劣等人種の私がなくなってしまったって、別に誰も困りはしないのだ……。そう思いながら、次第に視界が暗く、音が遠ざかっていくのをアヤは感じていた。強い油臭さと鉄臭さに苛まれるなか、アヤの意識はぷっつりと切れた。



          ※



 異様な空気になった室内を、秋月紫燕は傍観していた。少し離れた隣にいる慶咲は引き攣った顔で固唾を呑んでいたが、それに対して彼は涼しい顔をしている。人事だと思っているわけではなくて、はじめからそうなることを前提に活動していたからだ。人体を兵器化されたという時点で、以前の自分はもういない。それが当たり前の感覚だと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。


 ここに来た当初は「そんなことにも気づけない、愚鈍な連中の集まり」だと思っていたが、それは間違いだとすぐに分かった。気づかない、というよりも気付けないようにされていると言った方が正しく、自覚症状がないぶん、今までと何も変わっていないと思い込んでいるようだった。


 だが、客観的に見れば症状は出ている。兵器になった奴は皆、感情の制御が下手だ。抑えきれずに藻掻いたり叫びだしたりはよくあることなのだが、処方されている薬剤の所為でその記憶も残っていないのかもしれない。整備員たちの話を信じるなら、その症状が出ていないのは自分だけらしい。


 煉や廉也、鈴世にもないように見えるが、彼らはうまく抑えているそうだ。近いうちに煉にこのことを聞いておこうと思っていたのだが、連日の出撃のせいでそれは叶わなかった。だから、今日のこれは良い機会だ。後でどうにか捕まえて聞いてみよう。



「……?」



 じっと正面を向いていた視線を、彼らのいるミーティングテーブルの方へと向ける。ここから見えるのは廉也とアヤの後ろ姿で、まあ、廉也のことはどうでもいいとしよう。それよりアヤの姿に違和感があると紫燕は感じていた。


 アヤはこういう、任務に関係のある話はきっちり真面目に聞く子だ。だが今日の彼女は、退屈そうに上体を揺らしている。何か気になることがあるのか、それとも調子が悪いのか。とにかく本人の様子を確認しようと一歩踏み出したところで、紫燕はアヤの体が大きく傾ぐのを見た。



          ※



「アヤ!」


 ほとんど絶叫に近い紫燕の声を聞いて、皆俯けていた顔を上げた。そこに見たのはぐったりと項垂れる朝潮アヤで、紫燕の声に逸早く反応した廉也に抱きとめられていた。そのおかげで床に頭を叩きつけられることは回避できたが、その体の一部は、黒に近い赤で汚れていた。



「……!」



 仰向けにされたアヤは、口から液体を吐き出していた。それがオイルだったか血液だったか、それともそれらが混じったものだったかは、開発に直接関与していない煉には判別できない。急いで駆け寄った大記とイヅルが、彼女を床に寝かせて応急処置をしているのを、彼は黙って見下ろしていた。


 周囲が慌てふためく中、島風煉ただ一人が冷静だった。煉の一番の問題は、アヤが倒れたことではなく「大記はどこまで覚えているのか」だった。開発の仕様の都合で、大記の方が遥かに兵器化は進行している。


 兵器の開発開始当初の状況を説明できるし、こうして技術的なサポートもできているあたり、今のところは活動に影響はないのだろうと思う。しかし記憶の混乱があるようで、知っているはずのことを知らないと言ったり、ありもしないことをあったということが時々ある。故障か、メンテ不足かとイヅルと言い合っているあたり、アヤのことも記憶にないのだろう。


 覚えていたなら、彼女が倒れたってこんなにも驚いたりしなかったはずだ。大記、どうしてお前まで被験体に志願してしまったんだ……。重要な技術者が緩やかに消えていくのを感じた煉は、虚しさを感じていた。


 やはり、俺が言わなければならないのか。煉は小さく息を吐いて、再び慌ただしい空気になった室内を傍観した。そんな中に、ひとり冷静――というか冷めた気持ちでいるのは、違う世界に切り離されたような感覚だった。この浮遊感と疎外感はあまり気持ちのいいものではないが……まあ、立場上仕方のないことなのだろう。無理やり納得した煉は、虚無な瞳のまま静かに口を開いた。



「岐山さん」



 アヤを抱きかかえ、軽く息を切らしたイヅルの目は散瞳し、大きく揺れていた。それを見るのはとても久しぶりで、昔はよくこんな目をしていたな……と懐かしい気持ちになる。だが今は、そうして呑気に懐古している場合ではない。口や目から赤黒い液体を流すアヤを一瞥した後、煉は真っ直ぐにその青い目を見る。そして自分だけが知っているらしい秘密を、淡々と彼に打ち明けた。



「あんたの義妹、不良品なんだ」



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