第3部 不浄の立場は

 

 果たして何が変化し、何が保持されたのか。なにもわからないまま三ヶ月が過ぎた。分からないからといって焦ることも深慮することもなく、時折ぼんやり思い出すだけだ。兵器になろうが俺は俺だと、陽炎廉也は窓の外を見た。


 現状をはっきり把握していないのは廉也だけではなく、煉と大記以外の全員がそうだった。『君たちはヒトではなくなった』と不可解な宣告を受けたものの、望まず兵器になった彼らには落胆も戸惑いもない。正確に言えば戸惑いはあったのだけれど、それは最初のたった一日だけだった。


 あの一度で、諦めがついた。あんなことになってしまえば、自分たちが人間ではないと認めざるを得ない。日々生身の人間には不可能な変形を繰り返しているし、メンテナンスなしでは体調を維持できないので、そこで自分が「普通」ではないことを認識している。


 戦闘中の彼らの姿は軍用兵器そのものだった。各用途によって形状は異なっていて、陸は四ツ足の獣のような戦車、海は海生獣のような潜水艇、空は猛禽類に似た戦闘機だ。見た目は機械のようでも生物のようでもあり、正直気味が悪い。この正体が人間だと、ぱっと見で分かる者は恐らくいないだろう。


 それは極東陣営も同じで、この人間兵器の存在はごく一部にしか認知されていない。知っているのは本人たちと開発担当者、そして軍本部所属のお偉方くらいだ。


 この新型兵器の登場には、敵である連合軍は大いに困惑しているそうだ。なにしろ操縦席が見当たらず、当然パイロットの姿もない。生物的なせいか異様な禍々しさを放っていて、神話や伝承の中に出てくる「化け物」のようだと、各国を恐れ慄かせていた。


 体内に仕組まれた兵器の展開方法は教えられなかったが、本能的に知っていた。少しどろっとした青緑色の液に浸かり、首筋につくられた窪みにコードを差し込む。そうすれば、自分の意志に反して皮膚が着々と裂けてゆくのだ。


 痛みはないがあまりに非現実的でえぐい光景だった。その「地獄の初日」に絶叫が響いた出来事は、本人は勿論、整備員たちにも根深い恐怖を植え付けていた。だがその恐怖も慣れてしまえば麻痺するもので、現在は平常通りに過ごしている。


 こんな経験をしていながら、これがどんなに残酷な計画で、抜擢されてしまったことがどれだけ不運なことかは理解していないようだった。彼らの落ち着いた態度は、前向きというよりも暢気だと言った方が良く合っている。もしかしたらそうなるよう、体だけではなく脳味噌まで弄られているのかもしれない。




「やっぱり私、貴女が嫌いだわ……!」



 ぼんやりと海を眺めていた廉也は、唐突に聞こえてきた怒声に「またか」と溜め息をついた。もしかしたら聞いていなかっただけで、決して唐突ではなかったのかもしれないのだけれど。


 これは空軍所属時代に頻繁に見られていた光景で、ただただ、綾波奈津子が朝潮アヤを頭ごなしに怒鳴っているだけだ。理由を確認したことがないので正確には分からないが、多分アヤが混血児だからだろう。


 その様をみた廉也は、毎度不愉快に思っていた。その嫌悪感は、主に奈津子へ。任務中に度々アヤに命を救われているくせして、なぜこんな悪態をつくのだろう。血統だけで態度を変えるとはいけ好かないやつだ。廉也は奈津子を、横目で睨んだ。


 その血統という観点からみれば、廉也も『一応は』奈津子と同じ立ち位置に居る。アヤは「蔑んで然るべき異端の血統」だと言われていたが、廉也はそう思ったことがない。寧ろ、アヤのことは好きだった。無害だし煩くないし聡明だし、鋭い外見に反してその内面は意外と穏やかだ。


 いつまでも見ていたいし何かを共有したいと思っているこの気持ちは、単なる好意ではなく恋心かもしれないと思い始めているのだが、昔からその類の話に疎かった廉也が、気持ちの種類を断定するなんてできるはずがなかった。


 この気持ちのせいで自分の目に幾分かフィルターがかかっていたとしても、彼女に人を惹きつけるなにかがあるのは間違いないと思っている。空軍時代といい今といい、なんだかんだで彼女が一人きりでいるのをあまり見かけない。つい最近入ってきたあの無駄に姿勢の良い男だって、やたらとアヤにひっついている。奴が何を考えているのかは知らないが、朝潮に手を出すとは許せん。


 まあそれはそれとして置いておいて――いや、個人的には置いておけないのだが――、アヤと奈津子について考えてみようと思う。アヤは中尉、奈津子は二等兵曹であることを考えれば、本来なら彼女の行動は咎められ処罰を下されても可笑しくはない。


 けれど咎められた記憶はなく、誰かが注意する様子も見たことがない。曲りなりにも軍隊なので規律と上下関係は厳しかったが、何せ相手は色が奇抜な不浄の子だ。『他民族の血が混じった不純物』であり『懲らしめるべき悪党』でもある彼らは蔑み見下すものだと教えこまれているらしく、誰もが疑問すら持っていなかった。当たり前のことだった。多数大勢とごく少数……精神的優位に立てるのは、いつだって多数大勢に決まっているのだ。


 漏れなくそう教育されてきた奈津子も、大抵の場合アヤのことを無視するようにしていた。アヤもアヤで自発的に接触することがないので、互いに無視し合っているようなものだから特に問題はないのだが、奈津子の方は癇癪持ちなのか、こうして時折アヤを怒鳴るのだ。


 そんな彼女は、見方によっては滑稽に思えるだろう。奈津子は特に才能に恵まれている訳ではなく、かといって体格にも家柄にも恵まれている訳でもない。謂わば凡才で、これまでの評価は努力のみで勝ち取ってきた。


 それに対して、どんなことでも軽々淡々とこなすアヤは、血筋こそ最悪とされていても傍から見れば天才だった。正反対とも言える彼女らの関係は、第三者から見れば奈津子がやっかんで噛み付いているようにしか見えないのだ。


 アヤは、何に対しても無関心な態度しか示さなかった。にも関わらず事柄を深く理解し、ほぼ完璧にやり切る姿を見れば、やはり彼女は天才なのだと思うのは当然だと奈津子は思う。自分がどんなに頑張っても追いつけない才覚を持っているという羨望とやり切れなさ。それを身に余るほどに感じていて、それは奈津子のなかで嫌悪感に繋がっていた。


 それに、彼の件もある。彼とは同じ所属の班長だった陽炎廉也のことだ。彼も同じくあまり物や出来事に興味を示さなかったが、あの朝潮アヤには興味を示し、好意を抱いていた。それも、誰が見てもわかるくらい、はっきりと……


 廉也は奈津子の憧れだった。寡黙に任務をこなす姿が、どんな時でも涼やかな目がたまらなく格好良くて、彼女はその背中を追ってきた。同じものを見、同じものを護りたくて、血の滲むような努力でエリート集団である第一航空部隊の所属権も勝ち取った。


 彼は先輩後輩関係なく、あらゆる他人に無関心だった。奈津子も散々冷たくあしらわれてきたが、実力をつけて、認めてもらえればこちらを見てくれるはず。そう信じていた奈津子には、廉也の態度も苦ではなかった。けれどどんなに努力を重ね、昇級して距離を縮めても、廉也が奈津子を見ることはなかった。


 見ているのはいつも空か海か……朝潮アヤか。その事実が、奈津子には堪らなく辛かった。こんな私情を職場に、況してや戦場に持ち込むべきではないと解っている。そして自分が彼女を深く嫉妬し、理不尽を強いているということも理解はしているつもりだ。


 しかし奈津子がアヤに辛く当たる一番の理由は、醜い嫉妬からではない。そもそもアヤでなければならない必要もない。ただただアヤがその部類に括られる、最も身近な人物だからそうしてしまっているだけだ。彼女と知り合うより以前の、もっと深い……幼少の頃に心を痛めた記憶が、奈津子の脳裏に急激に蘇った。



『おいで、なっちゃん。一緒に遊ぼ?』


『ほら見てあの船、凄く大きいでしょ?』


『聞いて! 今日素敵な人に会ったのよ。……本当に、素敵だったわ』


『ごめんねなっちゃん。私、あの人に会いに行くわ』



 思い出したのは、誰よりも大好きだった、たった一人の姉。父の思想のせいで一家は離散し、父についていった姉とは離れ離れになってしまったけれど……その後も変わらず可愛がり、面倒を見てくれる姉が、奈津子は本当に好きだった。


 その姉は、吾妻あづま榛名はるなは前回の世界大戦で死んだ。空襲で焼かれたわけでも、病魔に倒れたわけでも、飢餓で衰弱したわけでもない。戦線に立って死んだのだ。人より少し背は高かったけど、それでもか弱い少女だったのに。戦場に赴く必要なんてなかったのに。様々な危険を顧みず、自ら希望して戦死した。一目惚れしてしまった男が、特攻隊の基地にいたばかりに。


 姉が惚れた相手は、岐山イヅルというカメリアの混血児だった。天才設計士と呼ばれ、戦時中に多くの戦艦や航空機の開発に携わってきたと聞く。そんな彼がなぜ特攻隊の基地にいたかといえば、当初は設計士ではなく、航空隊員として軍に身を置いていたからだそうだ。


 軍艦が大好きな、変わった女子だった姉のことだ。おそらくは船をきっかけに知り合ったのだろう。姉はただ彼の近くにいたいからという理由だけで、ありとあらゆる手段を用いて鹿屋の特攻隊に入隊したそうだ。どんなことをしたのかは……奈津子には全く想像できない。だが苛酷な日々を送っていたことに違いはないだろうと思っている。


 初恋。そんな些細なきっかけから、あの人は平凡な女学生から命がけで戦う兵士へ転身した。そして十七の誕生日に出撃して、敵艦を沈めることなく戦死して、生家へ帰って来ることは二度となかった。


 骨さえ残らなかった。これを知ったのは終戦から暫く経ってからで、最愛の姉が半年も前に亡くなっていたことを知った奈津子は、一年近くも泣きはらしたものだ。それだけ榛名の死は悲しく、衝撃的なものだった。以来混血を恨み、毛嫌いしている。


 これは完全な逆恨みだと、そんなことは解っている。お門違いも甚だしいということだって、重々承知しているつもりだ。しかし無力で幼い奈津子が、最愛の姉を失った悲しみを少しでも和らげるためには、誰かに責任を押し付けるしかできなかった。


 あいつさえ、岐山イヅルさえいなければ姉が死ぬことはなかった。そうして気を紛らわすたび、彼へ対する憎しみが募る。榛名と彼の間でなにがあったかも知らないくせに、一方的な憎悪は足を止めない。憎い憎い、あいつが憎い。あいつさえ居なければ、お姉ちゃんは死ななかったのに。自らすすんで死ににいくことなんてなかったのに……!


 榛名の死を知った瞬間を思い出した奈津子は、自分の中であの時感じた感情が膨れ上がるのを感じていた。嫌だ、やめて、もう無意味にアヤを攻撃したくない。そう思っても気持ちを制御することはできず、奈津子は激情していた。



「どうしたんだよ、綾波……」



 驚いた涼平は、肩を震わす奈津子を覗きこむように声をかけた。心配そう、且つ怪訝な表情ではあったけれど、極力柔らかに出された彼の声によって、最大限に張りつめた空気は和らいだ。だがそれは「僅かに」であって、険悪な雰囲気を払拭するには不十分だった。昂った奈津子の気持ちは、それだけでは消沈しない。


 この光景をよく見、たびたび中断させていたのは廉也だが、ここでは進んで請け負ってくれている初春涼平に押し付けることにしよう。中断させると言ったって、ただアヤを庇って奈津子を牽制するだけだ。


 蔑むような目で見れば奈津子は黙ったが、それでこの衝突がなくなったことはない。結局なにもできないなら、なにもしないほうがいいのだ。廉也は溜息を吐き、何も言わずに部屋を出た。



「私、混血は嫌いなのよ……」


「綾波……!」



 差別的な言葉を聞いた煉は、発信者の奈津子を諌めた。あまり酷く怒鳴らないよう務めたが、それができているかどうかの判断は、今の自分にはできない。心拍数が跳ね上がる。裂けそうなほどに胸が痛く息苦しい。


 落ち着け、落ち着くんだ島風煉。これしきのことで取り乱すなんて情けないことをするな。そんなことでは、「まだまだ未熟だな」なんて、あのひとたちに嘲笑われてしまう。煉は気づかれないように小さく息を吐き、今後の策を練るのに努めた。


 とにかく、続くかもしれない彼女の発言を阻止しなければならない。彼女は知っているのだ、ここに『禁忌』がいるということを。この先は、何があっても言わせてはいけない。再び異民族を差別するようになったこの国で、純粋な極東人ではないと知られるのはまずい……



「いつも涼しい顔してるのもそうだけど! なによりあいつと同じ混血なのが気に食わないのよ……!」



 正直、奈津子自身にも何を言っているのか解からなかった。自分が彼女に食ってかかるのは、ただの羨望と醜い嫉妬、それだけで充分だ。人種なんて関係ない、優れている人は優れているし人望がある人には自然と人は寄り付くものだ。誰にでも持てるものではないものを二つも持っているのに、それを持て余して周りに一切関心を持とうとしない。そのことに腹が立って、相手にされないことが悔しくて……ただそれだけのことだった筈だ。


 いつも冷静で取り乱すことなど殆どない煉が、顔を顰めて頭を抱えている。それを見なくても、言ってはいけないことを言ってしまったのだということくらい良く解かっている。そんなに常識がないわけではないつもりだ、多分。


 非常に居た堪れない気持ちだが、ここまで来たらもう後には引けない。奈津子は無駄に凛とした視線をアヤに向け、逸らすことはしなかった。相変わらずアヤは無表情で、それが余計に辛かった。『雑兵ごときが調子に乗るな』と一喝してくれれば、この関係も少しは改善できたかもしれない。


 ブレーキの効かない自分と、ブレーキをかけないアヤ。誰にも止められることなく進行した劣悪な関係は減速を知らず、速度を増して暴走する。このままでは、どちらか一方が壊れてしまう……その前に何とかしなければ。奈津子は、この状況に焦りを感じていた。



「え、嘘……よね?」



 驚いたような声を出したのは橘みつきで、冗談でしょう?とでも言いたげな笑みを浮かべていた。「混血の人は嫌いじゃないけど、そういう人がここにいる訳ないものね」と、みつきは言う。しかし煉も奈津子も、それが本当に混血を受け入れている人の言葉でないことを知っている。


 みつきが言っているのは、劣等な混血もしくは他民族が、栄誉ある軍職になどつけるわけがないと言っているのと同じことだった。


 しかし、元一般人である彼女らがそう思うのは無理もなかった。それが世間に浸透した、極東帝国における一般常識だったからだ。


 他国の手を借りた復興期間を経て、再び軍事国家になった新制極東帝国内では再び異民族排斥運動が活発になっていた。その度合いは地方によって格差があって、全く差別のない所もあれば見つけ次第殺す所もある。嘗てのゲルマニアや旧制極東帝国がそうしたように、主となる人種以外は徹底して省く。それを実施する理由は簡単だった。戦争の際に躊躇なく敵を斃せるよう、彼らを『人間以下の何か』だと思い込ませるのが目的だった。


 煉もアヤも省かれる部類に含まれていたが、幸か不幸か、国の所有物扱いなので排斥されることはなかった。その代わりに人間扱いされることもほぼなかったが、それでも排斥されてしまうよりかはましだったのかもしれない。どんなに辛く苦しくても、生きているに越したことはない。生きてさえいれば、この先転機が訪れるかもしれないのだ。


――極東人以外の異民族および混血児は、蔑んで然るべき劣等人種であり国家を穢す不純物である――。


 そう言われているけれど、軍職最高位にあたる近衛兵の一人は和寧わねい人だし、軍の最高傑作と呼ばれるまでに育成された兵士も、ゲルマニアとの混血児だ。実のところ人間兵器のほぼ半数が人々の言う『不純物』なのだが、誰もそれを表明していないので、誰が極東人で誰が不純物かは曖昧だった。明かすはずがない。知られてしまえば、これまで仲の良かった友人でさえ、冷ややかな目で蔑視してくるようになるのだ。


 数秒間、無言のまま奈津子の視線を受け止めたアヤは、ゆっくりと目だけを動かし部屋を見渡した。奈津子の発言にざわつき始めてはいたものの、幸いにも自身は注目されていない。でも、いつその視線がこちらに向けられるか解らない……そう思うと、脳の奥まで冷えていくのを感じた。


 甦るのは過去の記憶。これは使えるかもしれないと勝手に買い取ったくせして、鬼畜米英だと侮蔑して己の苛立ちをぶつけてくる大人たち。抵抗しようものなら容赦なく殴られたし、口答えも当然許されなかった。


 恐怖で取り乱せば「心が弱い」と再教育される。この再教育も、勿論暴力だ。


 殴られるのは痛い。痛いのは嫌だ。かつて感じた痛みと恐怖を思い出したアヤは、無意識にざわつく雰囲気の中、静かに立ち上がり、他の誰にも見つからないように立ち去った。


 自分が奈津子に間違いなく嫌われているというのは変えられない事実だ。罵倒してきたり睨んできたり無視したりと冷遇されているが、それは飽く迄、「朝潮アヤ」にだけだ。他の混血や異民族に対して理解があるかどうかははっきり分からないけれど、あからさまな差別をしているのを見たことがない。


 それに彼女は、真面目で真っ直ぐな子だ。好き嫌いは別として、嘘は吐かないので一方的にだが信頼している。だからこそ安心して、彼女に背を向けられるのだ。背中に奈津子の視線を受けながら、アヤはドアの向こう側へと消えていった。それを見落とさなかった紫燕は、そっと後を追った。



          ※



「……ねえ島風、本当のところ、朝潮って何なの?無口だし無表情だしふわふわしてるし、なんか話に聞いてたのとだいぶ違うんだよね。それに混血とか言ってたけど」



 不穏になった空気の中、清代は煉に耳打ちした。

 混血だとかそういうことはどうでもよかったが、清代にとってアヤは気になる存在だった。「極東軍の最高傑作」と祀られていた彼女は、当然のように軍国主義的で皇帝を崇拝しているのだと思っていた。だが想像と実際は大きく違っていて、何事にも無関心で無気力なように見える。そのギャップが、清代の興味を大いにそそるのだった。


 問われた煉は、何も答えなかった。そんな気にもなれなかったし、自分が勝手に語っていいことなど何一つなかったからだ。確かに付き合いは誰より長いが、幼いころの彼女を実際に見てきたわけではない。聞く話といえば十歳の頃から自在に戦闘機を乗りこなしていたとか、国家の思想に心酔した、軍令部に忠実な犬だったとか、嘘か本当かよくわからないような話ばかりだ。好き勝手に言われたのだろう話が余りに多くて、煉は考えるのを放棄したのだけれど。


 アヤの心は、割りと限界が近いのかもしれない。煉はそう思っていた。抵抗など一切せずに従順なふりをしておけば、無駄に害を被らなくて済む。誰よりも優れた能力を見せ付ければ痛い思いをせずに済む。ただひたすらにそれだけを信じて耐えてきたし、自身を守るためだけに敬虔な軍国少女を演じたこともあった。けれどそれは報われず、いいように利用されるだけに終わった。でも、これは「仕方のないこと」だ。なんせ朝潮アヤは、幼少期に金で買われた所有物なのだ。



「……もういいだろ。混血だろうが極東人だろうが何だろうが、ここにいる以上俺たちの立場は同じなんだ。ここは軍の施設であっても非公式な裏の組織さ。今は全員が不純物であることを忘れるな」



 声を荒らげて話を中断させたのは大記で、彼は苛立っていた。思い出すのは親友の岐山イヅルで、彼も混血だからというだけでひどい扱いを受けていた。優れていたのに、いいやつだったのに、その外見だけで無碍にされ、心身ともに痛めつけられていたのかと思うと心底腹が立った。それと同時に、自分の言ったことの酷さに戦慄している。


『ここにいる全員が不純物』。酷いことだけれど、これは紛れもない事実だった。彼らは完全な兵器でもなければ純粋な人間でもない、とても不自然な存在だ。そうなってしまった責任は彼らにない。全ての責任は……間違いなくこの俺にある。


 それを唐突に思い出した大記は、酷い寒気と息苦しさを感じていた。兵器のくせにこんな人間臭い苦痛を感じるなんて、なんて中途半端で残酷なのだろう。大記は吸いかけの煙草を握り締め、逃げるように部屋を出た。


 寡黙な彼が珍しく雄弁なことに誰もが驚き、動揺したような挙動が気がかりだった。慌ただしく出て行く大記を横目に見ていた煉は、彼の青ざめた顔を見た。彼の口から、全員の不安を煽るような言葉が吐いて出るとは思いもしなかった。


 自分と同じように普段から口は悪いが、普段は一歩後ろから常に自分たちを見守れるだけの冷静さと暖かさがある。そんな彼が動揺して言葉で斬りつけるなんて、相当追い詰められているのだろう。それを証明するかのように、煙草の本数は日に日に増えていた。


 少しだけ外部からつついてやれば、この十人の関係はそれなりに円滑なまま事は進む。煉はそう思っていたけれど、案外そうでもないらしい。問題は山積み。ここで生き残るためには十人の協調は必要不可欠で、良好な関係を保つためにやるべきことは死ぬほどありそうだ……。未だざわつき騒然としている室内に、盛大に溜息を吐く。思ったよりも遥かに人間臭い自分たちに、煉は少しだけ嫌気が差した。



          ※



 人種の壁は、必要以上に分厚く堅牢だ。その壁は数年程度では簡単には壊れないのだと感じたアヤは、自分の髪を一房つかみ、透かしてみた。その色は紫陽花の色に似ていて少し白い。建物の外に積まれた廃材の上に座りながらそれを見たアヤは、なんとなく憂鬱な気分になった。


 正直、小さい頃は自分の容姿を気にしたことがなかった。一番身近だった兄も目が青かったし、売られて以来はそんなことを考える余裕もなかったからかもしれない。


 特別訓練場の敷地内から一切出ることなく、本当に死ぬんじゃないかと思うほど厳しい訓練を重ねてきたし、徹底した皇民化教育も受けた。全教育課程が終了したあとも、実際の戦場に送り込まれて酷使されてきた。当時のアヤの選択肢としては生きるか死ぬかしかなく、それ以外を考える必要もなかったのだ。自分が圧倒的に他と違うと気づいたのは、戦後の事だった。


 戦争がなくなって、軍隊がなくなって、閉鎖された組織から一般社会に放り出されて、騒がれてから気がついた。特に赤い瞳が悍ましいらしくて、鬼だ物の怪だと排斥されてきた。皆は目も髪も黒いのに、私は全然違う色をしている。その原因も排斥される理由も、一般社会に触れたばかりのアヤには分からない。



 どうして極東人以外が認められないのか、どうして色が違うといけないのか、何が悪で何が正義なのか。幾ら考えても答えは出ない。分からなくても仕分けは続き、「正常」の外にある「異物」たちは弾圧されていく――。



「どうしたの、朝潮?」



 俯き考えこむアヤを見つけた紫燕は、小高い位置にいる彼女を見上げた。静かに失踪したアヤを探すのは結構大変だった。直ぐに追ったというのに彼女の姿は既に見えず、追跡ではなく捜索になった。行きそうな場所、行けるところ、更には彼女の自室まで行ってみたのだけれど、終ぞ見当たらなかった。まさか陽炎廉也の自室に転がり込んだのではないかと疑い苛ついたが、確かめるためにわざわざ彼の部屋を訪ねるなんてしたくない。


 彼女を見つけられたのは、本当に偶然だった。何気なく見た窓から見える廃材置き場に、アヤがいるのが見えたのだ。彼女の髪の色は非常に目立つ。本人は気にしているのかもしれないが、確実に本人だとわかるので今の紫燕にとっては非常に助かるものだった。


 積まれた廃材に軽々登った紫燕は、塵との一体化を望むかのようにじっと座っているアヤの隣に腰掛けた。こちらには気づいているらしいが、彼女が顔をあげる気配はない。



「……やっぱり君はそうだったんだね」



 紫燕が静かに問うと、アヤの体が僅かに揺れた。それを見た紫燕は、またまずいことを言ってしまったのではないかと思う。そう思ったのならそこでやめておけばいいのに、更に「どことの混血?」だなんて聞いてしまった。無遠慮で無神経すぎる自身を呪ってみても、やってしまったことは変わらない。続く沈黙に激しく後悔しながら紡ぐ言葉を考えていると、か細い声で「わからない」とアヤは言った。



「……どこの血が混じってるなんて分からない。そんなの知らなかった。混血っていうのを知ったのも最近だし……気にする余裕もなかったし……」



 俯いたまま囁いた、消え入るような声は少しだけ震えていた。


 やはり彼女と自分は同じなのだと、紫燕は思った。アヤもまた、自分が何者なのかが分からなかった。考えたってわからないからと思考を放棄しがちだけれど、こうして時折思い出しては憂鬱な気分になる。落ち込むのも最大二時間までと決めているので引きずりすぎることはないのだが、沈んだ気持ちを無理やり断ち切って浮上しているので、この問題とは随分と長い付き合いになってしまった。



「秋月。私のことは気にしないで。心配しなくても任務は問題なく遂行するよ」



 演習だってミーティングだってシミュレーションだって、しっかり全力で取り組む。そうすれば強くなれる。強くなれば国に貢献できるし、貢献できれば認めてもらえる。そして力を手に入れれば……怖い思いをしなくて済むはずだ。


 力が欲しい。全てを打ち負かせるほどの強大な力が欲しい。「不純物」で「異物」の自分が強くなれば、排斥される運命にある同類だって救い出せるかもしれない。酷い自己満足なのかもしれないけれど、そう思えば……もう少しくらいは強く生きていけそうな気がする。アヤは膝の上で強く両手を握りしめて、こみ上げてくる何かに必死に耐えた。


 言葉と行動が一致しないアヤを隣に見ながら、紫燕はなにもできないでいた。心配しているのは「兵器として使い物になるかどうか」ではないのだけれど、それをうまく彼女に伝えられる気がしなかった。


 落ち込んでいる様子のアヤに寄り添い支えたいと思ってはいるものの、先程のように地雷を踏んでしまう自信だけは無駄にある。掌をぐっと強く握りすぎて微かに震えているアヤの背を撫でて宥めるくらいしかできず、紫燕はその無力さに絶望した。まだまだ俺は、彼女を支えるに至らない。朝潮アヤという人間をあまりに知らなさすぎるのだ……

 

 

 ぎこちなく寄り添う二人の様子を、施設三階の廊下から陽炎廉也が見ていた。自室を出てすぐの窓から見えるので、見たくなくても目に入るのだ。積まれた廃材の上に座り込む二人……ではなく秋月紫燕を冷えた目で睨む。やはりあいつは気に食わない。その場所は、その役目は、俺のものだったはずだ。少し前に空軍にいたころはそうだった。


 大事な空間に勝手に土足で上がり込まれた気分になって、廉也は酷い不快感に苛まれていた。紫燕に対する感情は、敵意を通り越して殺意になりかけている。けれど結局は出遅れた自分が悪いのだと、廉也はその気持ちを無理やり殺した。


 ここであいつと争ったって、なにもいいことはない。争ってどちらかがぶっ壊れたところで、頭数が減って誰かの負担が増えるだけだ。俺たち新型兵器は圧倒的に数が少ない。使い物にならなくなったのが一体だけだったとしても、その被害は甚大なのだ。


 しょうがないから、今回はお前に譲ってやる。廉也はもう一度だけ窓の外を見て、すぐに自室へ戻った。月明かりにのみ照らされた彼らの姿は、腹が立つほど幻想的で綺麗だと思う。その情景を思い出して、折角殺した殺意が蘇生しかけているのを感じた廉也は、乱暴に寝台に倒れこんで目を閉じた。


 落ち着け、今はその時ではない。この苛立ちは、明日の出撃で発散すればいいのだ……。そう自身に言い聞かせ、荒くなった呼吸を整える。それでもこの沸きかけた脳味噌は静まってくれなくて、廉也は固く握って祈るように繋ぎ合わせた手を、ごつごつと何度も、強く額にぶつけた。


 この体になってから、自分の感情をうまくコントロールできなくなった気がする。以前よりもずっと感情的になったというか、憎悪や敵意を抑えるのが難しくなった。そういえば、普段から飲まされている薬剤の中には脳に影響を及ぼすものもあると言っていたっけ。きっとそいつのせいだ、そうにきまっている……全く面倒な体になってしまったものだ。廉也は今日はじめて、兵器に改造された事実を呪った。



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