第2部 嫌悪の根源
イレギュラーな、思い通りにならない人生もまた楽しいものだ。
どこかで誰かが言っていた気がするが、俺は全然楽しくない。秋月紫燕は笑顔で不快さを隠しながら、姿勢よく廊下を歩いていた。今までの名前とは違う、番号や識別名称で呼ばれるようになって数日が経つ。『SA-09、SA-10。君たちは最新型の兄弟機だ、大体は一緒に出撃してもらう』と聞いたのもつい最近で、正直に最悪だと思った。
SA-10は、朝潮アヤは、容姿と雰囲気が他と異なる。だから違うと思ったのだが、よくよく考えるとそんなものは理由にならない。結局は極東生まれ極東育ちの極東人だ。普段は嫌いではないのだけど、こうして気が立っていると、あれこれ考えてしまって嫌になる。自分自身がどうしたいのかもわからなくなって、紫燕はひとり、もどかしい思いをしていた。
紫燕は、極東人を心の底から嫌っていた。理由は、と聞かれれば思想や理念だと答えている。自国を神の国だと言ってみたり、気構えだけで立ち向かおうとしてみたり、そんな愚かなところが気に入らなくもあったから決して嘘ではない。
だが、詳細を求められてもうまく答えられる自信はなかった。正直にいえば、嫌悪感を示すようになった明確な時期もよく覚えていない。「反東感情の塊」だと線引きされ、周囲に壁を作られたのはいつからだっただろう。澄華国の義勇軍に志願したときには確実にそうだったのは分かる。だとしたら十二年以上も前のことか。紫燕は、気を紛らわすために、昔のことを思い出してみた。
そもそも紫燕が旧極東軍の捕虜になったのは、彼自身が大戦末期の澄華軍の少年兵士だったことに由来する。極東領の
『どうする、もう洲里の近くだぜ?』
『洲里はもうこっち側に落ちたも同然なんだろ? 俺たちで行くか?』
『馬鹿言え、いくら洲里でも俺たちだけじゃあ無理だ』
一緒に逸れた同期たちの馬鹿らしいやり取りを聞き流しながら、燕烽は一人、狂った方位磁石を見詰めていた。彼らの会話は、愚か過ぎて笑えるほどだ。身の丈に合わない傲慢さは不快を通り越して滑稽で、笑いたくもないのに口角は自然と釣り上がる。これを目撃されては後々面倒なので、燕烽は口元を手で覆い隠してやり過ごした。
秋の洲里は寒い。気温一桁の野外でじっとしているのは辛かった。精神的苦痛を伴いながら体力を消耗するより、少しでも動いて温まりながら消耗するほうがいいと思って進行していたのだが……今では少し後悔している。
薄暗闇を手探りで進んだせいで、現在地が不明確だった。地図で確かめようにも暗くてよく見えないし、見えたところで方位磁石が狂っているので確認なんてできなかった。目印も勿論ない。なんの特徴もない痩せた木が、疎らに生えているだけだ。
『なあ王、どう思う?』
『何が』
『あの極東人たちを仕留めようと思うんだけど。お前は?』
彼が指差す方には、日章旗を掲げた極東兵が数人屯していた。あいつらをいまから仕留めに行こうと言うのだろうが、燕烽は全くその気にはなれなかった。――機嫌が悪い俺に気安く話しかけんな馬鹿どもが。燕烽は、最高に気分が悪かった。
『捕虜になりたいか死にたいなら行って来いよ。お前たちだけで、な』
『な……何だよ!』
顔を上げた燕烽の顔は殺気立っていて、その眼光は鋭かった。愚鈍な同僚と、壊れて役に立たない方位磁石。本人さえも気づいていなかったが、その二つを見る目は類似していた。
その睨むような目に、彼らが怯んだのは言うまでもない。しかし馬鹿だ、本当に馬鹿だ。結果なんて誰が考えたって分かる。いくら総合的に見て連合側が優勢であったとしても、こんな餓鬼どもが数人寄りかたまっただけの集団が、武装した極東軍に敵う筈がない。なぜいけると思ったのか、燕烽には全く分からなかった。
『本当、馬鹿だよなぁ……お前ら』
『なんだと!』
燕烽の言葉に激情した同僚のひとりが、彼の胸ぐらに掴みかかりなぎ倒した。
『このっ……シャオリーベンめ……!』
彼は押し倒した燕烽を見下ろしながら、何の躊躇いもなく極東人への蔑称を吐き捨てた。彼の言うとおり、「王燕烽」は自身が大嫌いな極東の血で構築されていた。
血統で見れば極東人だが、列島にいた頃の記憶はない。だからといって澄華出身者というわけでもない。燕烽はまだ物心つく前の幼少期に、両親とともに洲里に渡った開拓民だった。ここで田畑を耕していれば衣食住に困らないと聞いたからこその移住だったのだが、実際は過酷を極め、一年経たないうちに父は病気を患い亡くなったらしい。
一家の大黒柱を失ったからといって、開拓は終わらない。内地へ帰る暇も金もなく、すべて整理して洲里に渡ったために、帰る家も頼る親族もなかった。極東よりも遥かに寒い土地で働き続け、母は常に内地に帰ることを夢見ていたが……それは終ぞ叶わなかった。過労の末に倒れた彼女は、幼い息子ひとりを遺して望まぬ場所へと旅立たなくてはならなかったからだ。
その後は澄華国で農場を営む夫婦に育てられたので、燕烽は自分を澄華人なのだと思っていた。けれどそうではないのだと、周囲の態度から知った。育ての親と義兄弟は、関係が悪化しつつある極東人の子だと知りながらも家族同然に愛してくれたが、その他は決してそうではなかった。
極東人だから「シャオリーベン」と罵られ、極東人だからハブられ、極東人だから暴力を受ける。なぜ俺は、俺だけが極東人なのだろう。そのせいでこんな目に遭うのだと思うと、極東の血が憎たらしくて仕方がなかった。
分かりあえない同年代の子らと立ち回りを演じ、自分と周りの違いをはっきり認識し始めた頃に自傷行為を繰り返したことで、次第に義家族との間にも距離ができた。まあ、そうだろう。左腕を憎々しげに睨みながら、深く刃を差し込んで自分の肉を削ぎ落とそうとしている奴になんて、誰も近づきたくないに決っている。自分の体に大嫌いな極東人の血肉がくっついているのだと思うと、堪らなく気持ち悪くて、全て除去したくて仕方なかった。
俺は義家族のことが好きだ。だからこれ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。そうして逃げるように義勇軍に志願した。自分自身が極東人の血で構成されていようが、極東を滅ぼすための組織に加わることに抵抗はなかった。
痛い思いをしなければならなかったのも、嫌な思いをしなければならなかったのも、全てを捨てなければならなかったのも、全部ぜんぶ極東のせいだ。恨む理由なんて、それだけあれば十分だ。燕烽は、仰向けに押し倒されたまま正面を見据えた。
顔の表情筋は働いていないくせに、その目は怒りと嫌悪感で溢れかえっていて、とても冷たく禍々しかった。周囲に群がる少年たちはやや怖気づいたものの、再び「シャオリーベン」と呟き、胸ぐらをつかむ力を強めてきた。『シャオリーベンの癖に睨むなんて生意気だ』。そういうことなのだろう。
『そっかぁ、そうだよなあ。自分と同じ極東人なんて殺せないよなあ?』
『ほら、お前の仲間がいるぞ。行ってこいよ、シオ――』
言い終わるのは待たなかった。湧き上がった怒りは抑えきれず、燕烽は拳を力任せに、彼の鳩尾へ叩き込んだ。堪らず吐き出された胃液がかからないように素早く起き上がり、倒れこんでくる彼の体は、蹴って軌道を逸らさせる。怒りと興奮で荒いだ呼吸は、肺に残った空気全てを吐き出して無理やり整えた。転がる彼を乱雑に掴んで起き上がらせ、容赦なく喉元に短剣を突きつける。
『その名前で呼ぶな。次に言ったら、必ず殺す』
散瞳した目に冷えた声で吐き捨て、苦痛にただ呻くだけの彼は投げ捨てた。一気にしんと静まり返った場の空気なんて気にしない。そもそも、こうなることすら予測できずに仕掛けてきた向こうが悪い。あんな奴らに寝返るなんて馬鹿はしない。俺は澄華人だ。血はさておいて、心も書類も、それを証明してくれているじゃないか。
ただからかっているだけだというのは解っている。解ってはいても、嫌なものは嫌なのだ。血の混じった吐瀉物を見て「少し強く殴りすぎたか」と思ったが……まあいいかと独りごち、気にしないことにした。自業自得だ。
燕烽は、背負っていた銃剣を出し抜けに下ろした。先程の暴行からの流れで体を強ばらせた同期たちには目もくれず、疎らな木の影から、極東人の背を狙う。
違う違う違う、俺は極東人なんかじゃない。「同じ」なんかじゃない。違う。だから、殺せる。
燕烽は再び自分の肉を削ぎ落としたい衝動に駆られたが、今はそれどころではない。大きく息を吸い込んで、ブレる心を落ち着かせた。銃口を真っ直ぐに、戦車の傍らにいる極東兵に向ける。慎重に狙いを定めて……引き金を引いた。すぐに火薬の匂いと破裂音がして、赤を吹き出しながら斃れる男を見た。向こう側から絶叫が響く。
やった。やったぞ俺は。そら見ろ、殺せないことなんかないだろう。だって違うんだ、俺は極東人なんかじゃない――。だらんと腕を下ろし、散瞳した目で笑う燕烽は半狂乱に見えた。報復に迫り来る極東兵から逃げる同僚を見送って、彼はただただ立ち竦んでいた。
俺はもう終わりだ。ここで死ぬ。少しも怖くなくて、寧ろ安堵感があった。極東人ではなく、澄華兵として死ねる。地道に削ぎ落とさなくても、肉体と魂は分離してくれるのだ。発砲してきても微動だにせず、燕烽はただ笑いながら終焉を待ち望んだ。
※
イレギュラーな、思い通りにならない人生もまた楽しいものだ……と誰かが言っていたような気がする。裸電球のぶら下がったコンクリート張りの部屋で縛られ、床に這わされているのもその範疇なのだろう。だが全く楽しくない。振り下ろされる竹刀を体に受けながら、燕烽は奥歯を噛み締めた。すんなり死なせて貰えなかったのが、堪らなく悔しかった。
極東人が駆けつけた先にいたのは負傷者と心神耗弱者で、この二人は実行犯ではないと踏んだのだろう。殺されはしなかったが、参考人として捕獲され、尋問を受けているところだった。
尋問、という名目でここにいるわけだが、これは本当に尋問なのだろうか。燕烽は、だんだんと何がなんだかわからなくなってきた。首謀者は誰かと問われたので、正直に自分だと答えた。だがそれに対しての返答は、「仲間だからと庇う必要はない、素直になれ」だ。
俺は素直だ。真実しか言っていない。けれど『俺がやった』とどれだけ真実を叫ぼうが、全く取り合ってくれなかった。嘘だ嘘じゃないのいたちごっこを繰り返すうち、そのもどかしさに耐えかねたのか暴力に訴えてくるようになった。今ではもう、尋問ではなく拷問と化している。軍服を剥かれた上半身の背中は、『俺がやった』と主張するたび竹刀で打たれ既に感覚はない。いつまでたっても折れる気配のない態度への仕置として、右手の生爪を剥がされたところだ。
絶えず訪れる痛み、意思疎通できないもどかしさ、自分や極東兵に感じる嫌悪感。色んな感覚や感情が混じりあって、燕烽は心身ともに疲労困憊だった。そのせいで眠気がひどく、今にも意識を手放してしまいそうになる。
その度、容赦なく冷水を浴びせられて起こされた。なぜだ。なぜどいつもこいつも、俺を死なせてはくれないのだ。さっさと終わらせてくれ。もう、この極東人の体と共に生きていたくなどない。
『……名前は。なんという』
『……』
こうして振り出しに戻り、名乗らせるところから始まる。もう何度繰り返したか分からない。数回程度かもしれないし、百回以上かもしれない。記憶は曖昧で、実際の数字は概算も分からなかった。
極東軍は、彼が同胞なのではないかと疑っていた。それは燕烽が、極東人によく見る顔立ちをしていたからだ。『首謀者はだれか』よりも、燕烽が裏切り者の極東人なのか、従軍を強いられている極東人なのかを知りたかった。名乗らせたいのは澄華人名ではなく、彼の極東人名だった。
もうなにも喋りたくない。何度目かわからなくなった問に気力を削がれた燕烽は、虚ろな目をして床を見ていた。名前なんて、軍服にでも縫い付けてあるだろう。聞かなくたって分かることだと、極東軍の真意が見えなかった彼は、何も言わず黙っていた。その直後、頭部に激痛が走る。きっと竹刀で殴られたのだろう。下へ流れていく新しい赤が、視界の端に見えた。
それと同時に見えたものに、燕烽は心臓が止まりそうになるほど動揺した。脱がされた上衣の胸ポケットを、ひとりの極東人が探っていたのだ。
『やめろぉ……っ!』
『貴様、大人しくしろ!』
けたたましく叫び、突然暴れだした燕烽にも構わず、所持品の確認は続く。どれだけ抵抗しようが、拘束されている上にかなり体力も消耗していたせいで、あっけなく取り押さえられてしまった。
床に強く押し付けられながら、二枚の紙片が取り出されるのを見た。絶望的な気分だった。全身に力が入らなくなって、「あぁ……」と小さく呻きながら、擡げていた首を急激に下げる。勢い良く床に頭を打ちつけたが、その痛みすらどうでも良かった。
探られたそこに仕舞ってあったのは、家を出るときに持ちだした写真だった。一枚は義家族の集合写真で、もう一枚は実家族の写真だ。――やめろ、やめてくれ。燕烽の願いは叶わず、極東兵は取り出した写真の裏面を見ている。
問題は実家族の写真だ、そこには極東人の名前が書かれていた。秋月
『やはり極東人だったか! なぜ澄華軍にいた? 誰かに強いられたのか?』
『違う! 俺は極東人じゃない、澄華人だ……っ!』
ちがうちがうちがうちがう。俺は極東人なんかじゃない。認めてなるものか、そんな写真一枚で、俺が極東人だと示せるはずがないだろう?それを持たせた養母は「それがお前の本当の両親だ」といっていたが、それだけだ。裏面の名前だって本当かどうか……でも確かに、今の俺の顔立ちは「秋月蓮充」に似ていて……知らないのに……会ったこともないのに……懐かしい……父さん……
『違う……違う……っ』
非国民が! と怒鳴る声を微かに聞きながら、燕烽は弱々しく泣きながら、否定し続けていた。非国民だなんて言われても知らない。俺は、極東という国がどんなところかさえ知らないのだ。
極東に非国民だと言われるのなら、完全な澄華人になってしまいたい。けれど、澄華国でも受け入れて貰えない。「同化する努力が足りない」と言われればそれまで。でも、努力したって遺伝子の組み合わせが変わるわけでもない。どうあがいても居場所なんてないのだから、もう構わず死なせてくれ。燕烽は、ただそれだけを切望した。
『非国民だ』と怒り狂って叫ぶのはひとりだけで、その他の兵士たちは、取り押さえながら呆然と燕烽を見ていた。敵国に育った極東人である彼が受け続けた苦痛は、察するに余りある。例え裏切り者だったとしても、もうこれで十分だ……。傷つき疲弊しきった十二歳の少年を、これ以上痛めつける気にはなれなかった。
やはり極東軍は、燕烽を死なせてはくれなかった。尋問も虐待もない生温い軟禁生活を三ヶ月ほど送り、収容所で捕虜として終戦を迎えた。そういえば後に聞いた話があって、あのとき燕烽が殴った彼は、捕獲して間もなく死亡したのだそうだ。
内臓の損傷も原因のひとつらしいが、主原因は医療実験の被験体となったことだった。伝え聞いただけなので信憑性は低いのだが、人として死ねない悲惨な最後だったとしても、それでも燕烽には羨ましいことだった。
放心状態で生気のない同胞の少年を哀れに思ったのだろうか。その間、極東兵は優しかった。遠い故郷の話をしてくれたり、勉強を教えてくれたり、遊んでくれようとしたりしたが、その優しさに触れても燕烽の心は動かなかった。
どうせ今だけだ。全ての極東人が受け入れてくれるはずがない。今までだってそうだった。義家族は受け入れてくれたけれど、その他はそうではなかった。結局、自分の身を守れるのは自分のみ。他を信じる必要はないのだ。
保護された燕烽は、極東で生きることが決まった。捕虜は連合軍に引き渡して、それから祖国に送り返してもらう方法もあったのだが、極東人に限りなく近い燕烽は、その方法だと処刑される可能性があったのだそうだ。別にそうなっても構わなかったが、あまり熱心に庇ってくれるものだから、そのまま大人しく極東に引き取られたのだ。
歯向かうだけの気力もなかったし、どうせ今までの自分も捨てるつもりだったから丁度いい機会だったのかもしれない。この日を堺に、『王燕烽』も『秋月紫苑』も消失した。
※
「どっちが本物なのかな……」
横から聞こえた声で、回顧から現実に呼び戻された紫燕は、その方向に目を向けた。声の主は隣を歩く朝潮アヤ一択なのだが、一体誰が喋ったのかと、紫燕は驚いてしまった。それだけ彼女は喋らなかった。
あの十人のなかで共に行動する時間が長いのは、間違いなくアヤだ。一日の半分以上の時間を共有していると言っても過言ではなく、一日中顔を突き合わせていたことだってある。
その中でも数えられるくらいしか言葉を発しないため、彼女の声質がどんなものかも正直まだ掴めていない。あまり接点のない初春涼平や橘みつきの声は把握しているのに、だ。まあ、あの二人は煩いから聞きたくなくても聞こえるのだけど。
それはともかく、アヤは喋らないし無表情だし、感情なんてないんじゃないかと思っていた。だが案外そうでもない。顔の筋肉は動かなくても、眼の色は変わる。声色も変わる。この数日間で、仕草や雰囲気を読めば彼女が何を思っているのか、なんとなく分かるようになってきた。
「本物? なんのこと?」
予想に反して真っ直ぐな視線に、紫燕は目を逸らしたくなった。カットされた宝石のような赤い目は、思ったよりも感情が読めず不気味さを感じる。微かにだがぞわりと肌を粟立ててしまい、その弱さを隠すように、苛立ったような声色になってしまった。
「……秋月のこと」
アヤの表情筋は相変わらず仕事をしなかったが、彼女が少し怯えているのは仕草から分かった。肩を跳ねさせ息を詰まらせ、目を逸らされてしまった。――悪いことをしてしまった。紫燕は申し訳なくなって、せめてもの詫びにと優しい表情に作り変えた。
朝潮アヤは、少しだけ特別だった。
その主な要因は、彼女の色が奇抜だからだろう。生まれも育ちも極東だと言っていたが、恐らくは混血かなにかなのだと思っている。はっきりと「極東人だ」といわなかったあたり、そうだと考えられた。
それだけで自分と同類な気がして、勝手に安心しているのだろう。彼女が隣にいると、少しだけ警戒心が薄れているような感じがした。「色が奇抜である」ことで言えば陽炎廉也も該当するが、あいつは駄目だ。なんかいけ好かない。
「秋月は、すごく綺麗に真逆の雰囲気を使い分けてる。中にふたり入ってるみたいだ。だから、ずっと気になってた。どっちが本物だろうって」
作り物でも安心したのか、アヤは言葉を続けてきた。その目だけは輝いていて、あどけない少女のようだ。その様子を「可愛らしい」と思ったのだが……それと同時に苛立ちを感じた。アヤにではない。自分自身にだ。
自分の中に二人いるという自覚は、前々からあった。自我を押し殺して、波風を立てず無難にやり過ごす自分と、自我を解放して攻撃的に自他を破壊する自分。一貫して記憶はあるから、多重人格ではないと思っている。けれど一方が表に出ているとき、もう一方は他人のような感覚だ。
どっちが主人格なのかは分からない。自我を押し殺す過程で攻撃的な部分が出来上がったのだから、前者が主人格な気がする。だが、押し殺す以前は攻撃的な餓鬼だった記憶もある。どちらも本物なのかもしれないし、どちらも偽物なのかもしれなかった。――どっちが本物かだって?そんなもの、俺が知りたいよ。
極東人なのか澄華人なのかはっきりしなかった過去、温厚か攻撃的かはっきりしない今。いくら考えても分からなくて、もどかしくて、苛々した。
「どっちが本物だって知って、どうするの?」
紫燕はアヤの肩を掴み、力任せに壁に叩きつけた。息がかかりそうなほどまでアヤに近づき、身動きできないように拘束する。こうすれば彼女は、俺に害を加える事はできない……そんな下らない安心感を得た彼は、アヤの赤い目を見た。澄んでいるようにも濁っているようにも見える正体不明のそれは、誰がどう見ても揺れていた。原因は解りきっている。たった今、俺が彼女に痛みを与えたからだ。
『こいつは敵だ』と攻撃的な部分が喚く一方で、『それは違う』と温厚な部分が叫ぶ。確かに嫌なことを思い出させてくれたが、彼女は別に差別的な態度を取ったわけじゃないじゃないか。――いや、それは甘い。そんなもん上辺だけに決まってる。奥底では他の奴らと変りないんだ、どうせ……。
どちらの主張も一歩も引かず、平行線の不毛な闘いは続く。表に出ている攻撃的な部分も引く気はないらしく、掴む力を強めていた。アヤは無抵抗のまま、揺れた瞳で至近距離にある紫燕の目を見ている。なぜだ。なぜお前は抵抗もせずに大人しく押さえつけられているんだ。なにか言ってみろ、「痛い」とか「やめろ」とか、そんなことで構わないから何か……なにか……
「分かんねえよ、そんなもん」
未だ黙ったままのアヤに、紫燕は吐き捨てるように言った。どっちが本物かだけではなくて、何もかもが分からない。『自分のことなのに分からないのはおかしい』と思うだろう。それでも分からないものは分からないのだ。「分からないから教えて下さい」なんて言える相手もいなかったから、放置し続けて今に至っている。
「どっちが本物なんだ……教えてくれよ……」
弱さを見せれば簡単に見縊られ、支配されると思っていた自分がいなければ、こんなに拗らせることはなかったのだろうか。過ぎたことを悔いたって仕方がないと思いながらも、紫燕は眼前のアヤの肩口に顔を埋め、縋った。
※
彼と私は、意外と近いのではないだろうか。アヤは全身の筋肉を強ばらせたまま思った。それを言ってしまえばまた怒られるのだろうか。まあどのみち、突然の痛みに対する驚きと恐怖で声が出なくなっているから言えないのだけれど。声が出るようになったなら、彼の逆鱗に触れたことを謝罪せねば。状況と症状に反して、アヤの精神状態は比較的穏やかだった。
アヤも、自分が何なのかが分からなくなることがある。自分は人間なのか消耗品なのか、それすら分からなかった。考えてもわからないことは、次第にどうでもよくなるものだ。こんなこと繰り返したって無駄だと早々に放棄した自分とは違い、彼は今の今まで真剣に考えていたのだろう。本人は苦しいのだろうが、不器用で図太いアヤにとって、彼の繊細さは羨ましいものだった。
彼は以前、「自分は澄華国の兵士だった」と言っていた。でも彼は、顔立ちが澄華人ではない。顔立ちだけで人種を決めつけてはいけないけれど、大抵の人はそこで判断するだろう。自分だってそうだった。いくら「生まれも育ちも極東だ」と言ったって、誰一人信じてくれなかった。
大勢に混じった少数の異端は異物でしかなく、排除されるものと決っている。それが嫌で、どうにか周囲と同化しなければと陛下のために! 御国のために! と叫んでいた時期もあったっけ。そうでもしなければ居場所を確保できなかったのだ。仮に彼が本当に澄華人だったとしても、同じように弾かれてきたのではないだろうか。勝手な想像に過ぎないけれど、そう思うと余計に他人ごとのようには思えなかった。
だがそれはそれとして、この状況をどうしたものか。ずっと押し付けられてばかりなのは痛いし、この状況を管理者に目撃されては弁解が面倒そうだ。同僚同士の揉め事は、内々に片付けるに限る……と考えたまではいいが、力では敵わず、また声も出ない。軽くテンパった末、アヤは自由な左手を紫燕の背に回し、軽く撫でてみた。自分だったら、こんなときどうされたら嬉しいだろう。そう考えた結果だった。
一方の紫燕は、予想外の動きに戸惑っていた。攻撃的な部分が「敵に情けをかけられた」と憤怒したのは一瞬で、今は驚くほど冷静だった。思い思いに焦燥していた二人分の感情が、ひとつに纏まったのを確かに感じている。
際限なく絡まり続けた糸が解けたようで、晴れやかな気分だった。アヤの肩口からようやく顔を上げ、赤い目を数十秒ぶりに見た。それは既に揺れておらず、確りと紫燕の鳶色した目を見ている。
「煉さん煉さん、あんたの娘はなにしてんだろねえ」
「……娘じゃねえよ」
二人同時に声がした方を見れば、しゃがみ込んで上目遣いでこちらを見る涼平と仁王立ちの煉がいた。紫燕が乱雑にアヤを押さえつけているのを遠目に見たから、揉め事かと思い駆けつけたのだが案外そうでもないらしい。煉は初日に見た紫燕の態度から最悪の事態を懸念していたが、思ったよりもずっと穏やかな雰囲気に安心していた。
だが涼平はそうでもないらしく、最悪の事態など微塵も気にせずこの状況を楽しんでいるようだった。至近距離で見つめ合う様は甘くもなんともなかったが、色恋沙汰と結び付けたいらしい。その目も声も、下世話な色を含んでいた。
その涼平の表情と声色から、心の底からこの状況を楽しんでいることがわかる。気持ち悪いくらいににやにやしながら煉の裾を引いているあたり、アヤのことを妹のように……どころではなくもはや娘のように可愛がっている彼が苛立ってくれることを期待しているのだ。――こいつはまた、そんなしょうもないことを……。直前の雰囲気が殺伐としていたことを考慮しない涼平に煉は呆れ、小さく溜息を吐いた。
確かに、アヤのことは妹のように思っている。だが、だからといって過保護なわけではない。余程困っているようなら手を貸すが、そんなことは本人が好きにすればいいことだ。涼平よ、残念だったな。俺は放任主義なんだ。お前の思い通りにはならないぞと思いながら見下ろし笑うと、それを察した涼平は、つまらなそうに立ち上がった。
しかし本当に、橘みつきがこの場にいなくて良かったと思っている。まだ二ヶ月程度と付き合いは短いがなんとなくわかった、彼女は女版初春涼平だ。この状況をみれば彼同様引っ掻き回したがるのは確実だろう。揃ってムードメーカーなのは構わないし有り難くもあるが、正直にいうと煩い。賑やかな上によく通る声をしているから、集中したいときに騒がれると、まとめて殴り飛ばしてやろうかと思うほどだ。
「残念だったな、涼平。これ、どう考えたってお前が望んでいる状況じゃねえよ。アヤにそんな高度な人付き合いができるわけねえだろ」
にやりと不敵な笑みを浮かべながらアヤを見る煉に、当の本人は不服そうな顔をしていた。
彼女にもこんな顔ができるのか。そう思い驚いている間に、アヤは自分の手をすり抜け、煉の元へと行ってしまう。行かないで。まだここに居て。腕を伸ばして懇願するにはまだ日が浅く、それを考えると体は動かなかった。
「……!」
「殴んな殴んな。っつかなんでお前、さっきから黙ってんだよ。喋れ馬鹿」
頭ひとつ分よりも背の高い煉の二の腕を繰り返し殴りながら無言で反抗するアヤは、「人付き合いくらいできる」とでも言いたげだった。軽くじゃれているだけのようにも見えるが、モーションの割にその音は重い。きっと痛みも衝撃もあるのだろうが、煉はそれを感じさせない。
声の出ないアヤに「喋れ馬鹿」は酷いのではないかと紫燕は思った。そんなことを言ったら、ますます萎縮してしまって発声できないのではないだろうか……という紫燕の思いに反して、雰囲気は和やかだった。
アヤに怯えた様子はなく、煉も涼平もにやにやしたままだ。この状況は一体なんなのか。他人と深く関わることをやめた紫燕には分からない。胸のあたりに靄がかかったような感覚がして、だだっ広い空間に独り取り残されたような気分になった。
手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、どんなに手を伸ばしても届かない。そのどうしようもない矛盾に再びもどかしくなって、せっかく一つにまとまった自分自身が分離していくのを感じていた。
そんな紫燕をいち早く察知したのは煉で、アヤの向こう側からにやりと不敵に笑う。それを見た紫燕はぞくりと肌を粟立たせ、分裂しかけた人格を無理やり統合させて警戒した。感じたのは「戦慄」。彼特有の威圧的で横暴な雰囲気に感じる恐れではない。直感で死の匂いを感じ取った。
これは、出会ったが最後の獰猛な獣を目の前にしている感覚に良く似ている。笑っているはずの切れ長の目には剣呑さが含まれていて、気を抜けば仕留められてしまいそうだ。近寄ってはいけない、触れてはいけないと本能が警告する。
紫燕が警戒しているのは無視して、煉は指だけで『こっちに来い』と彼に指図した。そのあまりに横柄な態度に、紫燕の中で何かが切れるのを感じる。「戦慄」も「警戒」も既にどうでも良くて、本当にもう、嫌な感じだ。
この男は、嫌いではないが苦手だ。人の中に土足で無遠慮に踏み込んでは、荒らすだけ荒らしては何もなかったかのように帰って行く。いつもそうだ。独りでいたい紫燕の気持ちなどまるで無視して、こうして突いて遊んで、輪の中に入れたがる。彼なりの狙いがあるのかないのか……なんてどうでもいい。動揺するこちらを見て楽しんでいる様子が気に入らなかった。
煉は未だ、にやにやしている。『お前、なにビビってんだ?』。そう言いたげ……というか口パクでそう言ってしまっている煉に、紫燕は心から苛立った。あいつ、いつか平伏させる。紫燕は殺したはずの「紫苑」を引きずり出して表に立たせた。「温厚」よりもずっと好戦的で、「攻撃的」よりもずっと冷静な彼ならあの煉にだって太刀打ちできるはずだ。
彼が獰猛な獣なら、襲われる前に撃ち殺せばいい。あいつなんかに負けてたまるか。紫燕は何もかもを見透かしたような空色と黄褐色の目に敢えて立ち向かおうと、三人の元へと足を向けた。
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