オーバードライヴ
志槻 黎
第1部 火蓋を切る
国内は平和。とりあえず平和。海の外へ出なければ死ぬことはない。
約二十年前に勃発し、世界を混沌に陥れた世界大戦は、東の島国――
嘗て敵だった国の手を借りたおかげで荒んだ国土は復興し、明るさも取り戻されたのは事実だ。だがその代償として名前を差し出し、耳慣れない横文字の名前を宛てがわれる屈辱と喪失感は計り知れない。
それを良しとしなかった者たちだって勿論いる。他の何を失っても名前だけは決して手放さなかった青年を中心に抗戦が続き、彼の名を取って《
独立したことで復興支援の大半が停止したが、名前と国と同時に誇りも取り戻したらしい国民たちの活力は凄まじく、結果的に街は栄えた。技術も発展した。今までになかったような豊かな暮らしに人々は満足し、活気が国中に溢れ暖かかった。
これでようやく、争いのない平和な生活になる。誰もがそう思っていたのだけれど、それはいとも簡単に覆った。平穏なんて束の間のことで、つい最近になって再び、世界を相手取った大規模な戦争が始まった。【ある極秘計画】と名づけて開発を進めていた新型兵器が、発達した工業技術によって実現可能となってしまったのが事の発端だった。
民主制の市民国家として再生したはずの極東国は、建国から僅か一年で極東帝国と改め、君主制の軍事国家と成り代わった。「もう完全に独り立ちできるだろう」と全ての支援を打ち切った直後の行為だったから、これまで散々援助してきた欧米諸国の反感を買うのは当然のことだった。
しかもその君主が件のズイセイではなく、彼とは全く異なる独裁者気質だったのもまた問題だった。懸念されるのは前回の大戦。軍事国家に独裁者という以前同様の図式が出来上がっており、またあの時のような惨劇になることが目に見えた。極東には反省の色が一切見えないと、国交関係は瞬く間に険悪になっていった。
互いに牽制しあう睨み合いが七年間続いた末、極東帝国が欧米諸国に戦争を仕掛けたことで新たな世界大戦は勃発した。屈辱的な大敗を喫した前回の世界大戦終結から、僅か十二年後のことだった。
この国はどうにも戦争が好きらしい。ここまで来ると病的でさえあると
『黒紙』と呼ばれる、禍々しさを放つ召集令状を強制的に受理させられたのは二ヶ月前のこと――だと期間を聞かされても、いまいちピンと来なかった。連行から今日までの記憶は不思議となく、黒紙を受け取ったのも昨日のような気もするし随分と前のことのような気もする。久しぶりの青空を見上げてみても、思い出す兆候は見られなかった。
思い出せなくても、知っていることはひとつある。それは黒紙が、【ある極秘計画】に参加できる特別な切符であるということだ。そしてそれを受け取った人には二度と会えないのだということも、アヤはよく知っていた。
合間のことは覚えていないが、連行された時のことは少しだけだが覚えていた。輸送車に乗せられ、降ろされた先は工場のようなところで、きっとこの二ヶ月間はずっとそこにいたのだろう。詳しい内容は全く説明されなかった。ただ「国の役に立つことだから」とばかり言われ、問答する間さえも与えられなかった。
今まで所属していた空軍第一部隊から軍令部特別部隊への転属を言い渡されたアヤは、状況を飲み込めないまま鹿屋へ移送されていた。今日から同期の同僚となるらしい
やはり一切の説明もなく、ただただ一方的に言い付けられるだけだ。どこへ行っても『じきに分かる』の一点張りで、こうなってはもう、大人たちが何かを語ってくれることなどないのだ。下々の者は黙って従うしか道はない、十年近い軍人経験でそれを学んだ。「じきに」ではなく今知りたいんだ。そう主張したところで、こちらの声は大人たちには届かない。
アヤと紫燕は、何もない田舎道をゆったりと歩く。説明もない、迎えもない、時間の指定もないのだからじっくり時間をかけて行ってやろうと二人で決めた。少し背が高くて無駄に姿勢の良い紫燕は、アヤの隣で、歩幅を合わせて歩いている。
鹿屋の町は静かだった。都心のような喧騒はなく、葉擦れの音や鳥の声がよく聞こえる。今が戦争中だなんて思わせないような長閑さで、ぼんやりと、うろ覚えでしかない故郷のことを思い出した。確かあの辺りも静かで、鳥や動物が沢山いたはずだ。そう回顧したせいか、郷愁感が胸に宿る。
ずっとここにいたい。ここでぼんやりしていたい。戦いたくなんかない。そんな気持ちがアヤの心中に次々湧いては、ひとつ残らず撃ち殺す。そんな我儘が通るものか。私はこの先もずっと、軍人でいなければならないのだ。まだ七歳だった頃に連れ去られ、傭兵として売りに出され、極東軍に買い取られたときからそう決まっている。
紫陽花色の髪と深紅の目なんていう奇抜な色のせいで長年の苦行を強いられてきた彼女にとって、平穏とは、どれだけ手を伸ばしても手に入らない遥か遠い存在でしかない。『異色=劣等人種』とされている極東では、黒髪黒目でない時点で、誰かに隷属しなければならない人生を確約されていた。持って生まれた色は変えられない。だから、差別も区別も避けられない。全部ぜんぶ、仕方のないことなのだ。
種違いの兄もそうだった。西洋人の血を引くあの人も色白で、蒼眼で茶髪で……所謂『異色』だった。天才だなんだと持て囃されてはいたけれど、色のせいで好奇の目を向けられ避けられ、半分が敵国の血で構成されているというだけで蔑まれてきたのだという。兄のこととはいえ、詳しいことは知らない。端々に彼の話を聞くものの、十七年のあいだ一度も会うことはなかった。今は極東にいないそうだが、一体どこへ行ったのだろう――
「朝潮……朝潮!」
いつの間にか深くなっていた思案から呼び戻される声を聞いた。声質から隣を歩く紫燕のものだと判断したが、それは前方から聞こえている。無意識のうちに俯けていた顔を上げると、右隣にいた筈の彼は遥か前方にいる。
「どうした? 気分悪い?」
「……ん、なんでもない」
あまりに深く考えすぎて、歩く足を止めてしまったようだ。心配そうに問いかける紫燕に申し訳なくなり、アヤは「ごめん」と軽く謝罪して再び歩き出した。この一見好青年に見えるにこやかな彼もまた、望まれずに【ある極秘計画】に参加させられた者の一人だった。
施設を出たときに少しだけ話したのだが、彼はアヤと同い年の二十四歳で、本当は
のんびり歩いてきた二人が本部に着いたときには、既に日が落ち始めていた。輸送機を降りてから数時間、およそ三十キロメートルの距離を歩いてきたからそうなった。どこかの滑走路から鹿屋の本部まで、詳しい説明や送迎がなかったのは本部の存在を知られないようにするためだそうだ。
ささやかな反抗とはいえ、時間や規律に厳しい軍部相手にこんなにのんびりしていては処罰を受けるのは確実だった。だから二人して身構えていたのだが……予想に反して軽く注意を受けるだけで済んでしまい、アヤは複雑な思いだった。
別に怒られるのが好きなわけではないし、不快そうな顔を見るのが好きなわけでもない。ただ彼らの目から、こちらへの哀れみを感じたからだ。罰するべきだが、この可哀想な連中は見逃してやろう。そんな思いが感じ取れる目をしていた。
紫燕はどう思っているのだろう。なんとなくそう思って横を見てみたが、そこには普段湛えている微笑はなかった。どちらかと言えば冷淡な嘲笑で……それを見たアヤの脳裏には、あの濁った目が蘇る。この男は一体何者だ? どっちが本物なのだろう、両方が本物なのだろうか。思案しながら凝視するこちらの視線に気付くと、紫燕はパッと目の濁りを消し、ふわりとした柔らかい笑みに作り変えた。それを見たアヤは面食らってしまった。あまりに鮮やかな変わり身だった。
出迎えてくれた官僚と思われる職員たちは、単なる雑兵にすぎない自分たちを丁重に扱った。その様を不振に思いながらも、案内された「待機室」と表示された部屋に入る。そこは白を基調とした、五十畳はあるのではないかと思う広い部屋だった。
入ってすぐに見えるのは大きな窓ガラスで、そこからは錦江湾を一望できて無駄に見晴らしがいい。部屋の端に置かれたソファに座って思い思いに過ごしているのは、自分たちと同年代と思われる八人の青年たちだった。
開いた扉に彼らの目は一斉にこちらを見、反射的に体が強張るアヤに職員の男は囁いた。――安心しろ、彼らは君たちの同業者だ――。だがよく知らない男にそう言われても、アヤの警戒や緊張が解けることはない。
「これで全員揃った。この後指令から挨拶がある。それまで待機しておくように」
それだけを言い残し、男は足早に立ち去った。アヤの体は強張ったままだった。
……さあ、どうしようか。再び戦争が始まった今、この容姿はまた蔑んで然るべきものになった。また昔のように、理不尽に怒鳴られたり叩かれたりするのだろうか。何の後盾のない状態で、知らない人たちの中に放り込まれるのは怖い。
「……アヤなのか?」
覚えのある声が聞こえた途端、張っていた気が緩み、随分と楽になった。その声の方に目を向けると、見覚えのある顔があった。気のせいではなく、確実にそこにいるのだと思うと心強い。戦後すぐに知り合ったのでもう十二年の付き合いになるこの青年の名は、
彼は前回の大戦で航空機整備員を務めたのち、羽陽曲折して国防官になったはずだ。長身の黒髪に、アジア系にしては珍しい空色と黄褐色のオッドアイであることから、どこか欧米の血でも混じっているのだろうと思っていた。だが彼は、それが先天的な遺伝子欠陥だと譲らなかった。別にアヤにとっては、どちらでも構わないことだったけれど。
第一印象は最悪だったが、十二年も付き合えているのだからよほど相性が良いか縁が有るのだろう。出逢いは戦後間もない頃の闇市で、人波に流されるままに辿り着き、独りぽつんと立っていたこちらの身を案じて声を掛けてくれたのが煉だった。色のせいで酷く弾圧されたせいか対人恐怖の気があったアヤは、ただ声をかけてきただけの煉が恐ろしくて仕方がなかった。
差し出された手に本気で殺されると錯覚して、必死に逃げたことを良く覚えている。体格差であっけなく捕まって、両者ぼろぼろになるまで交戦したことも。アヤにとって初対面の煉など敵でしかなかったわけだが、それでもあれこれ世話を焼いてくれる彼を少しでも信じてみようと思ったのが交流の始まりだった。
「本当だ、アヤちゃんだ」
煉よりも遥かに人当たりのいい柔らかな雰囲気で、実年齢よりも幼く見える彼にも覚えがある。煉の同僚であり親友でもある彼は、
「アヤちゃん空軍にいたんだろ? じゃあ、あいつらと知り合いだったりは……しない?」
涼平の指差す方に目を向けると、そこには二人の青年がいた。彼らにも見覚えがある……というか同僚たちだ、見覚えがないはずがない。しかし今日は良く知人に会う日だ。
「陽炎……綾波まで……」
「あ、やっぱり知ってる人だったんだ」
特にあの
廉也は口数も少ないが、感情表現も意思表示もあまりしない無愛想者だった。その上興味のないことには全く目を向けないマイペースな性格で、団体行動の適性が少しもない男だった。他の同僚たちからは敬遠されていたが、同じく寡黙で意志表示が下手で苦手なアヤにとっては気が楽だった。彼と行動を共にするのは
嫌いではない。
「……」
もう一方の生真面目そうな娘は
五期遅れの彼女は、アヤと反りが合わないらしく事あるごとに噛み付いてくるが、廉也の前では優秀で、彼に従順な子だった。初対面の頃から両極端な娘だと認識していたが、この態度の差はここまで来ればいっそ清々しい。ほんのり赤みがかった黒い前髪から覗く錆色の目が、時折アヤを憎憎し気に睨んでいる。アヤには憎まれるようなことをした心当たりが一つもなかったが、これもまあ色のせいだろう。
「あ、そうだ。
涼平に呼ばれた大記という青年は、部屋の隅で気だるそうに紫煙を燻らせていた。呼ばれてもなお動く気配のない黒髪黒目の青年は、若干強引な涼平に引っ張られ、凄く面倒そうな顔をした。
「なんだよ……お前に絡まれるとろくなことがねえ」
「大丈夫、大丈夫! ちょっと顔貸してくれるだけでいいから」
「結局お前の都合じゃねえか……」
文句を言いながら煙草を灰皿に押し付けて、大記はアヤの前に立った。この
だがそれも一瞬で、すぐに先程と同じ気怠そうな顔に戻っていた。頭ひとつ分低いアヤを、じっと見下ろす。
「こいつ、峯風大記な。前に俺たちの先輩のはなし、しただろ? 大記はその先輩の弟子なんだってさ!」
目を輝かせてまるで自分の自慢話をするかのように話す涼平とは対照的に、大記の目は濁っていた。『やっぱ碌なことじゃねえ』と呟き、濁ったままの冷えた視線を、涼平の後頭部に突き刺していた。だが、それにも動じないのが涼平だ。相変わらず輝いた目で、その先輩との思い出を語りだしていた。
涼平の先輩であり、涼平が「大記の師匠」だと主張する男は、
その天才の唯一にして重大な欠点といえば、敵国の血が流れる混血児だということだ。色素の薄い茶色い髪に青い目をしていたその男こそ、アヤの種違いの兄だった。
同じ軍部にはいたのだけれど、アヤは兵士として戦場へ送り出されて酷使されていたし、イヅルも半ば軟禁されていたので会う機会は一切なかった。十七年のあいだ、彼が兄であることを忘れていた時期もあった。だから誰にも言っていないし、誰もしらない。仮に兄妹だと主張しても、きっと誰も信じてはくれないだろう。それだけアヤとイヅルは、似ていなかった。
涼平の先輩話はいつの間にか峯風大記の経歴紹介へと転換しており、大記は眉間に皺を寄せて目を閉じている。あれこれべらべら喋る涼平とは対照的に無口な人だ。
アヤは、大記のことを少しだが知っていた。イヅルと同じく端々に聞く程度だったので対面するのは初めてだが、優秀な技術者なのだそうだ。「発想の岐山、構成の峯風」とも言われていて、極東の繁栄は彼らに掛かっているのだと誰かが言っていた。
大記はこの……【ある極秘計画】の進展に一枚噛んでいるのだろう。「実行不可能を可能にした」ことを考えると、彼が計画実行に加担していた可能性が非常に高かった。
涼平は自分が知っている大記の生まれと功績、涼平自身のイヅルとの思い出を思う存分吐き散らかした末に、『ね、岐山さんの弟子って感じでしょ』と満足げに言う。アヤが涼平を半ば呆れながらぼんやり見ている間、大記はアヤを見ていた。紫陽花のような薄紫の髪に赤い瞳。それは以前イヅルに聞いた「見捨ててしまった種違いの妹」の特徴そのものだった。こんな色をした娘はそうそういないし、きっと彼女自身がその妹だ。
色だけでなくても分かる。あのぼんやりした感じも、常に警戒心のある野良猫みたいな雰囲気もイヅルによく似ている。似ていないのは色と顔立ちだけだ。そういえばイヅルは、『連れ去られる現場を目の当たりにしながら、ただそれを見送るしかしなかった』と罪の意識に苛まれていた。今度会ったら、お前の妹は意外と元気そうだと教えてやろう――と思ったところで、大記は肩に置かれた涼平の手を払いのけた。お前は、本当に、いい加減にしろ……!
「弟子じゃねえって何度言えば分かんだお前は……!」
強いて言うなら親友だ、と大記は涼平の頭頂部に片手を乗せてぐっと締め付けた。涼平は「ギャっ」と小さく悲鳴をあげて呻き出す。痛がっているのは演技ではなく本気らしい。
なおも締め付けられ悶える彼をすぐにでも救済するべきなのだろうか? 煉に目だけで問うてみたが、彼は「放っておけ」と同じく目で伝えてきた。煉がそう言うならそうしよう。アヤは、涼平を助けるのをやめた。
「はいはーい、私、
アヤは突然の乱入に驚き、警戒しながら差し出されたみつきの手を取った。女版涼平、という第一印象を受けたみつきは明るく気さくで、軍隊なんていう生堅い響きが一切似合わない女性だった。色素の薄い煉瓦色の髪に大きな鳶色の目は、彼女の性格によく合っているように思えた。彼女はアヤたちよりも二つ年下の二十二歳なのだそうだが、十代の少女と言っても異論はないのではないかと思うほどに幼く見え、更には可愛らしかった。
みつきが指していた方を見ると、そこには二人の女性がいた。一人は白露清代という従軍看護師で、みつきとは対照的に男前だった。思わず「姐さん」と呼びたくなるような雰囲気を持っていて、僅かに肩に触れる黒髪は艶やかで美しい。こちらと目が合ったのを確認すると、不敵な笑みを寄越してきた。
その隣にいる吹雪鈴世は、大人しいというよりも気が弱いと言った方が当て嵌まる気がする。みつきよりも更に軍隊という響きが似合わない。学生服を着ているが、ここに来るにあたり学校は当然中退させられているのだろう。よほど不安なのかガチガチに固まっていて、少しもこちらを見ようとはしなかった。
「そういえば、そっちの彼は?」
煉はアヤの後ろに目を向け、問うた。そこにいたのは秋月紫燕で、相変わらず愛想の良い笑みを浮かべていた。だが柔らかさも暖かみもない。きっとつい先程まで、あの濁った冷たい目をしていたのだろう。表情切り替えの基準は、まだ良くわからない。
「ああ、彼は……」
「秋月紫燕です」
名前だけをにこやかに言うと、紫燕は皆のやり取りを眺める傍観者に戻った。素早く会話を切られた煉は、紫燕の表情に留意した。その目も薄っぺらい笑顔も見覚えがある。かつて散々見てきた、人との間に壁を作りたがっている奴らがしているものによく似ていた。
――こいつ、ここに馴染む気ねえな。
本能的にそう直感した煉は、助けを求めて手を伸ばす涼平を押し返しながら溜息を吐いた。これは面倒な事になりそうだ……。
「……ねえ煉、これって何?」
少しだけピリピリしだした空気をどうにかしないと、と思いつめたアヤは、話を変えようと煉に問を切り出した。「これ」とは頬に刻み込まれたナンバーのことだ。
体調は特に異常なく、二ヵ月前と比べて何かが変わった感覚がない。だがこの『異常なし』の状態がかえって気味悪かった。覚醒したときの、無数の管に繋がれガーゼや包帯を当てられていた状況を考えれば確実に外科手術を施されている筈だ。しかし「体がいやに軽い」以外、特に感覚に差異はない。
明確に変わったことがあるとするなら、右頬に製品ナンバーを彷彿とさせる記号が刻まれたことくらいだ。アヤは『SA-10』、煉は『SA-01』。他の人たちにも、漏れ無く刻まれていた。
煉はここを仕切っているように見え、真相を知っているようにも見えた。それに分からないことは、自分よりも遥かに知識がある煉に聞けば間違いないのだという謎の思い込みもあった。どんなに質問攻めても、大抵の事なら応えてくれていたという実績もあるのだ。
「さ……あな」
彼の曖昧な対応から、「真実を知っている」と判断した。煉はアヤから目を背け何もない宙を見ていて、明らかに挙動不審だった。煉は嘘が下手だ。ただ単に嫌いなだけかもしれないが、本当に嘘をつくことだけは誰よりも下手なのだ、それ以外は並以上の能力を持っているくせに。
そんな彼が嘘を吐いてまで隠したがるなんて、そんなに酷い真実なのだろうか。何となく心細くなり、アヤは少し俯いた。隣の紫燕は彼女の胸中を察したのか、優しい笑顔を浮かべてアヤの頭を撫でた。自分には作り出せない完璧な笑顔だが所詮は作り物……なのだが、気持ちが落ち着くのは確かだった。私も単純なやつだと小さく溜息を吐きながらも、されるがままに撫でられておく。
しかしこの秋月紫燕も、なかなかに鋭い男なのかもしれないとアヤは思った。アヤは表情が薄い。今も本人は不安がっている顔をしているつもりなのだが、傍から見れば無表情だ。自覚はある。他人に気持ちを察知されない自信も、無駄にあるのだ。……なにやら頭上で殺意の遣り取りをされているような感覚があるが、それももう気にしないでおきたい。
「指令からのご挨拶がある。失礼のないよう、確りと聞きなさい」
何の予告もなしに開いた扉から、案内役の官僚二人が慌ただしく入室して唐突に言う。その後ろには、胸に沢山の勲章をつけた中年男が立っている。丸みを帯びた肉厚な指令長官殿は、とても上機嫌で笑顔を絶やさない。
「良く生き残ってくれた。まさか十機も残るとは予想していなかったよ。この計画は成功だ、感謝するよ、峯風くん」
彼は大記の手を取り、力強く揺さぶり握った。半ば興奮状態なのか、大記が愛想笑いもせず暗い目をして静止していても、特に気に留めていないようだ。
生き残る? 他にも大勢いたということ?
十機? それは人間を数える単位ではないだろうに。
彼の言っている意味はよくわからなかったが、深く考える必要はないのだとアヤは気付いた。いままで通り軍に酷使される存在であればいい。
意外と単純なことなんじゃないかと高を括るアヤの傍で、大記は未だ浮かない表情で俯いていた。表には出さないものの、その胸中では自責の念で溢れかえり苦悶していた。大記は、アヤが予想したとおりに【ある極秘計画】進展の鍵となった重要人物だった。計画の発端は、天才設計士と呼ばれた岐山イヅルが描き残した一枚の設計図だ。
彼が描いた設計図は軒並み処分対象となり、十二年前の大戦終結直後に彼自身の手で全て焼却された。大記と意見を出しあいながら描いたその設計図も、連合軍に指定された要処分書類だった。だが捨てきれず、大記と共に埋めて隠した。
紙面に詰め込んだ技術が惜しかったわけではなくて、二人で夢想しながら希望を描き込んだそれを燃やしてしまうことに大きな抵抗があったのだ。イヅルは初めて共同制作した図面を、大記は彼が心から楽しんで描いた図面を手放したくなかった。ほかの設計図は、何の迷いもなく火の中に放り込めたというのに。
だが……それは間違っていたのかもしれない。この設計図こそが【ある極秘計画】の基盤。復興のために土地の掘削をしている最中に発見され、国家機関の手に渡ってしまったのだった。
飽く迄「理想と希望」で描かれたものだったので技術的に実行不可能だったのだが、現在は実現可能だ。「発想の岐山、構成の峯風」――その括りが浸透していたばかりに、大記は拉致されるように軍事開発技術者となった。復興の過程で向上した工業技術で独立を果たした極東帝国は、高度経済成長期に突入している。今の極東には、不可能を可能にするだけの技術も金もあるのだ。
「この計画は岐山氏の設計図に基づいて開発を進めた『人体兵器化計画』だ。今は何の実感もないだろうが、君たちは光栄にも護国の兵器になったのだよ。早くても明日には出撃して貰う。それまではゆっくりしておきなさい……以上」
永久に続きそうな勢いで吐き出し続けた言葉をようやく締め、三人の男たちは去っていった。満足気なのは彼らのみで、残された青年たちはこの内容についていけていないのだろう、過半数が呆然としていた。
紫燕と廉也は特に興味なさ気な態度で、この全貌を知っているらしい大記と煉は、苦々しい表情をしていた。早い話が『人間としてではなく兵器として戦え』ということなのだが、アヤは別になんとも思わなかった。紫燕や廉也同様、興味がないだけなのかもしれない。
とても残念だ。これに選ばれたのが数年前の私だったなら、きっと泣いて大喜びしていただろう。人間以外の何かに、痛みも心もない機械になることを切望していた幼い私なら……とても残念だ。感情の読み取れないほぼ無表情な目をしたまま、アヤはぼんやりと、様々な感情の交錯する部屋を傍観していた。
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