第120話 ひとりぼっちの夜
「……すごく静か」
夜の8時。
治くんの部屋のソファで『もちづき』を抱えて、ぽつりと呟く。
見慣れたはずの部屋はまるで、打ち捨てられた廃墟のようにしんとしていた。
今日ここに、治くんは帰ってこない。
この5ヶ月間ずっと一緒にいた分、それが何よりも信じられなかった。
そのうちガチャリとドアが開いて、『ごめん、遅くなった』といつも通りの仏頂面をひょっこり見せてくれたり……。
そんな淡い期待すら抱くほどに。
「ないない、わかってるんだけどね」
たははと、乾いた笑いを漏らす。
治くんの部屋の片隅に放置されてあったキャリーバックの不在が、現実を象徴している。
今朝、治くんは地元に飛び立って、帰って来るのは明日だ。
わかってる。
「……やっぱり、寂しいなあ」
『もちづき』をぎゅっと抱き締める。
治くんは私のために、このぬいぐるみを獲ってくれた。
それだけでも思わずとび上がってしまうほどの出来事だったのに……今日、治くんの部屋を掃除していると、いくつものぬいぐるみが入った大きなビニール袋を発見した。
ビニール袋には、新宿にあるゲームセンターのロゴ。
もしかして、もしかしてだけど。
治くんは、私がゲームセンターでぬいぐるみを欲しがることを予想してたとか……!?
デートプランを全て治くんが考えていた事、そして彼の用意周到ぶりから全然ありえる……。
そう考えるとまた、ぴょんぴょんしてしまいそうになった。
というか、した。
けど同時に、それ以上の寂しさが到来してしまった。
ふと、面をあげる。
ホールサイズのチョコレートケーキが一人、テーブルの上で控えめな存在感を主張している。
気を紛らわせるために作った一品。
フォークを立てて、一口。
「ん……美味しい」
甘いけど、ちょっぴりほろ苦い、治くん好みの味。
なかなか良い出来に仕上がっている。
しかし、そのまま食べ続ける気は起きなかった。
そんな気分では、なかった。
治くんに渡すバレンタインチョコは明日別に作って、これは自分で食べよう。
食後のデザートにしては、ちょっと豪勢すぎるかもだけど。
……。
…………。
「治くん……」
目を閉じると、断片的な記憶が頭の中に溢れ出した。
初めて図書館で出会った日のこと、雨降る公園で再会した日のこと。
風邪をひいた治くんを看病したこと、初めて一緒に外食したこと。
初めて手料理を披露した日のこと、火傷した私の手に添えられた、大きな手の温もり。
一緒に映画を見たこと、はんぶんこしたシュークリームの幸福な味。
一緒に登った高尾山から眺めた絶景、ひいたおみくじは大吉、治くんは末吉。
帰りのケーブルカー、初めてお互いの身体に触れ合った瞬間の、温もり、落ち着く匂い。
治くんのお母さんと一緒に巡った下北沢の街。
治くんが私のコーデを見て言った、『可愛い』
治くんと一緒に行った図書館、紙の匂い。
まさかまさかの誕生日プレゼント、猫のぬいぐるみ、表情筋が壊れるんじゃないかってくらい頬が緩んだ。
全ての秘密を明かした日、全てを受け入れてくれた治くんの優しさ、止まらなかった涙。
ずっと一人だった私の胸を溶かした『僕が、そばにいる』
やっぱり涙が止まらなかった。
治くんと一緒に過ごしたクリスマス、気遣いに溢れたプレゼント、雪の温度。
初めて治くんを膝枕した日、子犬みたいにあどけなくて可愛かった寝顔。
初めて治くんが自分から弱音を吐いてくれた日、抱きしめた、大きな背中、たくましさ。
一緒にお出かけ、モー子タンメンの突き刺さるような刺激、都庁のピアノの旋律。
どんな人がタイプなの?
私の質問に対し、治くんの口から放たれた『日和みたいに、一緒にいて楽しいがいい』
バクバクと高鳴る心音、熱くなる顔、緩みきった口元。
帰りにカイロをはんぶんこ。
繋いだ手の温もり、心のぽかぽか。
お台場デート、自由の女神、きらきらと煌めく光のアート、こけそうになった私を支えてくれた治くんの力強さ。
ゲームセンター、お互いに譲らなかった戦い、治くんが獲ってくれたもふもふニャンコ。
最後に連れて行ってくれた小さな公園、海面に反射する眩しいほどの夜景。
抱きしめられた背中の温もり、夜空を彩る花火、思わず爆発してしまった想い、涙。
私は治くんのことが好き。
好きで好きでたまらない、帰ってほしくない。
感情のままに明かした想いに、抱擁で応えてくれた治くん。
そして交わされた、確かな約束。
『帰ってきたら、ちゃんと返事、するから』
輝きに満ち溢れたワンシーンたち。
無駄な瞬間なんて一つもない、かけがえのないものだ。
断片的な思い出が溢れ出す度に、胸が締め付けられていった。
心臓のあたりが、鎖できりきりと擦られているみたいに痛みが走る。
「……会いたい」
言葉にすると、目の奥がじんわりと熱くなった。
胸の奥から何かがせり上がって来る感覚。
まずい。
だめだだめだと、頭を振る。
ぱちんと、両頬を叩く。
でも、
「おさむ……くん……」
名前を口にすると、決壊した。
感情の奔流を抑えることは、できなかった。
温かい雫が、止めどなく溢れてくる。
やっぱり、悲しいものは悲しい。
寂しいものは寂しかった。
無愛想で、ドライで、現実主義で、ちょっぴり冷たいところもあるけど、本当は優しくて、頭が良くて、頼り甲斐があって、男らしくて、人一倍周りのことをよく見ている、やっぱり優しい人。
世界で一番、大好きな人。
そんな治くんと、離れ離れになってしまう。
その現実が、辛くて悲しくて……どうしようもなく、寂しかった。
『もちづき』に顔を埋めて、私はそのまま嗚咽を漏らしてすすり泣いた。
一人で、泣いた。
ずいぶん長く、泣いていた。
そのうちに、抗えそうにない眠気が到来してきた。
やっぱり、昨日の徹夜が堪えてたみたい。
……ちゃんと自分の部屋で寝ないと。
一瞬、理性がそう言ってきたけど、諦めた。
今日はこのまま、ここで寝てしまおう。
なんだろう。
いろいろと、どうでもよくなっていた。
……あ……いけない、ケーキ、冷蔵庫入れないと……。
意識はここまでだった。
◇◇◇
……どれくらい眠っていたかはわからない。
がちゃりっ、ばたばたっと慌ただしい音で目が覚めた。
「日和!」と私の名前を呼ぶ声。
心臓が飛び上がるようにして意識を覚醒させてから、顔を上げると、
「……おさむ、くん?」
ぼやけた視界が、徐々に露わになっていく。
私の目の前に立つ人物は、はーはーと息切れを無理やり押さえ込んでから、こんな言葉を紡いだ。
「悪い、遅くなった」
今日帰って来るはずのない、私の大好きな人が立っていた。
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