第121話 日和が好きだ
「……おさむ、くん?」
おおよそ15時間ぶりとなる自室に響く、日和の声。
とろんとした瞳が、波紋のように見開かれる。
「悪い、遅くなった」
口を金魚のようにぱくぱくさせる日和。
明日帰ってくるはずの僕がこの場にいる事に動揺しているのだろう。
「どうし、て……?」
「明日の飛行機キャンセルして、今日の便で帰ってきた。一応RINE入れたんだけど」
日和がおぼつかない動作でスマホを起動し、「ほんとだ……」と呟く。
再び向けられた瞳は、ぱちぱちと忙しなく瞬いていた。
その隣に、僕は腰を下ろす。
いつもの定位置。
途端に、日和が声を上げる。
「ち、違うっ、そうじゃなくて! どうしてこんなに、早く帰ってきたの!?」
「どうしてって」
頬を掻きながら、僕は胸に浮かんだ率直な気持ちをそのまま言葉をにした。
「日和に、会いたかったから」
思い起こす。
大学で退学届を出した瞬間、日和に会いたい欲が爆発した。
胸の中でビックバンが弾けた。
1秒でも早く、日和に想いを伝えたい。
電話やRINEではなく、会って、ちゃんとした言葉で。
心の底の、さらにその奥から、強く強く思った。
自宅に帰った後『やっぱり、今日帰る』と言い放った僕に、両親は『やっぱりか』と言わんばかりの苦笑いで応じてくれた。
また近いうちに、日和と一緒に帰省するという約束を両親と交わした後、一番早い便に乗って帰ってきた。
直前に取ったフライトはなかなかのお値段だったけど、日和に1日早く会えると思えば安い買い物である。
あぅあぅと、口を開いたり閉じたりしている日和。
頬をいちご色に赤らめ、視線を蛇行運転させている。
そんな日和の挙動の一つ一つが愛らしい。
胸のあたりがきゅっとしまって今すぐ抱き締めたい衝動に駆られる。
ああ、やっぱり僕はと、自分お腹の気持ちを再確認してから、口を開く。
「日和」
視線が交差する。
すうっと息を吸って、シンプルな言葉を口にした。
「僕は、日和が好きだ」
大きな瞳が、限界まで見開かれる。
顔全体が、みるみるうちに赤く染まっていく。
まるで、半紙に朱液を垂らしたみたいに。
「いや、好きじゃ、足りないね」
冷静になって腕を組んで、黙考する。
だけど、今まで他人に好意どころか興味を抱くことすら疎かにしていた僕には、愛情を表現する際に適切な言葉が浮かない。
だから、浮かんだ想いをそのまま言葉にする。
「大好きだ、超好きだ、好きで好きでたまらないくらい好きだ、って、これは語彙力崩壊してるな……とりあえず、言葉だけじゃ足りないくらい好きで」
「ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って!」
この2週間、口にできなかった全部をぶちまけていると、顔をゆでダコのように赤くした日和が両手をこちらに向け遮った。
「な、なんで? この前の返事は、卒業してからするって……」
「え?」
卒業、してから?
そこで初めて、僕は自分と日和の間に認識のズレがあることを知る。
僕の認識では、返事はこの帰省から帰ってきた時に……もしかして。
日和は僕の言った『帰ってきたら』を、この短い帰省から『帰ってきたら』ではなく、『僕が大学に戻って卒業して帰ってきたら』と受け取った……?
黙考し、日和の言葉やお互いの状況を加味して、きっとそうだという結論に至った。
気づいて、頭を抱える。
抱えた頭をそのままテーブルにぶつけたい衝動に駆られた。
なんて愚か者なんだ、僕は。
日和が僕のことを強く想っているとしたら。
この勘違いは日和にとって、どれだけ辛いものだったのか。
『帰ってきたら返事をする』
そんな僕の言葉に対して日和が紡いだ『はい』は、どれほどの重みがあったことか。
すぐに、誤解を解かねばならない。
現在時刻における、僕の最優先事項だ。
「大学は、辞めてきた」
「………………え?」
狐に包まれた表情とは、まさにこのことを指すのだろう。
まるで時空から切り離されたみたいに、日和の表情が静止する。
「両親と交渉したんだ。日和と一緒に居たいから、大学を辞めさせてくれって」
それは、つい数時間前の出来事。
「最終的には納得してくれて、大学を辞める流れになった。退学届も、出してきた」
未だに実感が湧かない。
けど、事実だ。
あと数ヶ月もすれば、大学の在校生リストから僕の名は消える。
大学生では、なくなるのだ。
「だから、来月も、再来月も、僕は東京にいる。きっと、来年も再来年も……」
「ど、どうしてっ……?」
声が弾ける。
至近距離から向けられた瞳に浮かぶのは、戸惑い、不安、喜び、怒り……様々な感情が渦巻いているように見て取れた。
「いきなりそんな……大学を辞めたって……ええっ……?」
わかりやすく狼狽える日和。
当然だ。
ついこの瞬間まで、日和は僕がしっかりと在学期間を終えて卒業するものだと思っていたのだから。
「とりあえず、落ち着こう」
落ち着けるわけがないと思いつつも言う。
細い腕に、そっと手を添える。
その刹那、はっと目を見開いた日和が震える声で問いを口にした。
「まさか、私のために大学を……?」
「メインの理由は、そうだね」
「そんなっ……」
「日和が気にすることじゃない」
自分が原因で、僕に大学を辞めるという決断をさせてしまった。
自分が原因で、僕の人生を変えてしまった。
日和はそう思って、罪悪感、申し訳なさといった感情を抱いているのだろう。
今の僕なら、それがわかる。
そしてその感情は、日和が抱く必要のないものであることも、わかる。
だから僕は、説明する。
自分の、日和に対する想いの全てを。
「僕が、選んだんだ」
静かに、しかし強い意志を灯した声で言葉を紡ぐ。
「大学に戻って地元で暮らすよりも、日和と一緒に居たいって、僕が思ったんだ」
揺れる瞳に揺るがない瞳を向けて、もう一度言う。
「僕は、日和が好きだ」
先ほどの言葉の繰り返しだ。
好きで好きでたまらないくらい好き、一日、いや、一秒たりとも離れたくないって思うほど、好きだ。
「だからこれからも、一緒に居てほしい」
これ以上にない、僕の率直な想いだった。
静寂が、舞い降りる。
そこで僕はようやく、自分の全身がびっくりするくらい熱を持っている事に気づいた。
脳天から足先に至るまで、熱い。
背中は冷や汗でだらだらで、心臓もバックンバックンと音を奏でている。
すでに気持ちは聞いているはずなのに。
日和の次の言葉を待つ時間は、裁判の判決を待つような緊張があった。
静寂は、唐突に破られた。
「ぐす……」
……!?
「うえええ……」
「うお……!?」
声を上げ、ぼろぼろと涙を流す日和。
緊急地震速報のように唐突すぎて、戸惑う。
三度目となる、日和の泣き顔は今までで一番の衝撃があった。
だって、僕の知識の中には、告白に対して泣くという反応のデータは……いや、あった。
日和に貸してもらった少女漫画。
長くの間、ヒロインと引き離された主人公が帰ってきたシーン。
開口一番に放たれた主人公の告白に対し、ヒロインは人目を憚らず号泣した。
今の、日和のように。
『なんで泣いてるの』という主人公の問いに対し、ヒロインはなんと答えたか。
──嬉しくて。
日和を、抱き締めた。
優しく、壊れ物を扱うようにして。
抱き覚えのある小さな身体は嗚咽に合わせて震えている。
いつもより高い体熱、間近で聞こえるほどの鼓動、くらくらするほど甘い匂い。
それらを感覚として捉えたかと思うと、自分のものではない細い腕が伸びてきた。
そのままぎゅっと、背中をホールドされる。
縋り付くようにぎゅううっと、抱き締められる。
子供のようにむせび泣く日和の背中を、僕はしばらくの間、優しくさすり続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます