第119話 今までの出会いも、これからも出会いも
古ぼけたドアを開け、大学の研究室に入室するなり紙の埃の匂いが鼻をついた。
「久しぶりだね、望月くん」
中にいた初老の男性が、僕の方を見て懐かしい声を発する。
「お久しぶりです、岡村先生」
一礼する。
僕の所属しているゼミの教授──岡村先生は、その穏やかな面持ちを一層のどかなものにした。
ソファに座り、背の低いテーブルを挟んで向き合う。
「一年ぶりかい?」
「ちょうどそれくらいですね」
「早いものだね」
過去を追想しているのだろうか。
天井に視線を向けた先生が、しみじみと口を開く。
「一番順当に卒業しそうだった君が、休学したいと口にした時には本当に驚いたよ」
「す、すみません、いろいろとお手数をおかけして」
気にするなと、先生は掌を見せてきた。
「それで、今日は」
「あ、すみません」
カバンから、クリアファイルに挟んだ書類を取り出す。
親の署名が入った退学届け。
「これを、受理していただきたく」
恐る恐る、先生に差し出した。
「ふむ」
先生がクリアファイルし目を走らせている間、身体が妙な緊張に包まれていた。
その時間は、20秒もなかったと思う。
一年前と変わらぬ優しい瞳をこちらに向け、先生は川のせせらぎのような声で言った。
「向こうでやりたいことを、見つけたか」
その言葉には、驚きも落胆もなかった。
まるで、今まで何度も経験してきた記憶をなぞるかのような声。
深い皺が刻まれた目が、細められる。
「はい、見つけました」
「それはなによりだ」
一番幸せなことだと、先生は言う。
胸にじんとした温もりが灯った。
「今は、東京かい?」
「はい、東京の……下北沢に住んでいます」
「下北沢か。確か、慶王線と織田急線が通っていたね」
「よくご存知で」
「私も大学は、東京だったんだ」
「そうなのですか?」
驚く。
先生に関して知っていることといえば、苗字と担当教科くらいだったから。
意外な共通項があったことに、高揚する自分を捉えた。
「当時は、どの辺に住んでらしたのですか?」
「国分寺(こくぶんじ)、というところに住んでたよ」
「ああ、中央線沿いの」
「そうそう。大学が国立(くにたち)にあったから、二駅でね。駅前に美味しい町中華のお店があって、部活帰りによく寄ったものだ」
懐かしいなあと、頬を緩める先生。
「良いですね、中華。今後行ってみます」
「流石にもう無いと思うよ?」
「いや、もしかするとまだ存続している老舗店かもしれませんよ。なんていうお店です?」
気がつく。
自分が、自発的に質問を重ねている事に。
口が、理性ではなく感情に動かされる感覚。
俯瞰の僕が、先生のことをもっと知りたいと言っていた。
これからもう、二度と会わないかもしれない事に対する未練や寂寥感があって、というわけではない。
単純に、今目の前にいる岡村先生という人間に興味を抱いていたのだ。
不思議だ。
こんなの、以前の僕には見られなかった行動だ。
他人に興味が持てず、一人で粛々と生きていた僕が、こんな……。
「望月くん、変わったね」
不意に紡がれた言葉に、言葉を飲み込む。
「やっぱり、太りました?」
「それは言われるまで気づかなかったよ。確かに、随分と肉付きが良くなったね」
前はガリガリで今にも倒れそうだったのにと言い置いてから、こっちが本題だと口を開く。
「とても、楽しそうに喋るようになったなと」
楽しそう。
言われて、自覚した。
ああ、確かに。
僕は今、楽しいと感じている。
他人とコミュニケーションすることを、楽しいと感じている。
思わず、笑いが溢れた。
他人に興味が持てない。
これからも持つことはない。
そう思い込んでいた。
思い込みだった。
僕は、変わっていた。
いつの間にか、日和に変えられていた。
「良い出会いが、あったようだね」
言って、先生は穏やかな笑みを浮かべる。
「わかるん、ですか?」
「もちろんだとも。人が成長するには、人との関わりが不可欠だからね」
今までたくさんも見てきた。
そう言わんばかりの、確信に満ちた声。
独り立ちした子を愛情深く見守る父のような、感慨深げな表情が浮かんでいた。
「でも、よかったよ」
「なにが、です?」
「講義中、お昼休みはおろか、ゼミ活動中もいつも一人。でも当の本人はさして気にした風は無し。この生徒は一生、一人で生きていくつもりなのかと心配していてね」
驚く。
自分が、自分の予想以上に気にかけられていた事に。
……いや、思い返せば先生は、僕に積極的に話かけてくれていた。
お昼も誘われたことがあった。
対して、興味関心を抱かず軽く流し、誘いを断ってきたのは紛れもない僕自身だ。
その事を、とても申し訳なく思う。
「すみません、いろいろとご迷惑をおかけして……」
「良いんだ。終わりよければなんとやら……いや、まだ始まったばかりだから、なおさら良い」
小さく笑った後、先生は改めて僕に向き直り、口を開いた。
「これは、私の教授としての最後のアドバイスだ。といっても、口うるさいじじいの小言だから、聞き流してくれても構わない」
言われつつも僕は、先生の言葉を一言一句聞き逃さまいと耳を澄ませた。
そんな僕の姿勢を感じたのか。
先生は小さく口角を持ち上げてから、言葉を紡いだ。
「人生は出会いで決まる。他者との繋がりが、人生を彩る。せっかく人間に生まれてきたんだ。自分一人の世界だけで終わらせるのは、非常に勿体無い。だから」
一拍置いてから先生は、僕が今後歩む人生における金言になるであろう言葉を教えてくれた。
「今までの出会いも、これからも出会いも、どちらも大事にして生きなさい」
脳裏に浮かぶ、たくさんの面持ち。
育ててくれた両親。
どこかの病院でのんびりやっているであろう兄。
顔は思い出せない、でも、確かに二言三言は言葉を交わした小学、中学、高校、大学の同期たち。
今、目の前に座る岡村先生。
見目麗しく心優しい上司。
普段は軽い芯の通った同僚。
ふわふわとした掴み所ないオーラを纏いつつも、意外に周りがよく見えている女の子。
そして、明るくて活発でエネルギッシュで、いつも笑顔を絶やさない女の子。
その人たちが僕にもたらしてくれた感情が思い起こされる。
嬉しさ、怒り、悲しみ、楽しさ。
いろんな感情を経験した。
それらは確実に、僕の人生に起伏をもたらした。
彩りを与えてくれた。
その中で最も大きく影響を受けたのは、紛れもなく日和との出会いだ。
日和はきっと、僕以上に僕との出会いを大事にしてくれた。
そのお陰で、今の僕がここにいる。
……早く、日和に会いたい。
心の底からそう思った。
「ありがとうございます、岡村先生」
僕が頭を下げると、岡村先生は満足そうに頷いた。
岡村先生とも、出会えて良かった。
本心から、そう思った。
スマホを確認する。
けっこう良い時間になっていた。
「すみません、そろそろ……」
「うん、お疲れ様。後の手続きは、こちらで済ましておくよ。大学から証明書が届くだろうから、郵送類はこまめにチェックするように」
「ありがとうございます、助かります」
バックを手に、立ち上がる。
「では先生、お元気で」
「望月くんこそ、身体に気をつけて」
一礼し背を向け、一歩踏み出す。
「望月くん」
振り返る。
変わらぬ穏やかな表情で、岡村先生は最後にこう言い置いた。
「気が向いたら、いつでも来なさい」
僅かに後ろ髪を引かれる気持ちを抱きつつ、研究所を後にする。
これまでの出会いに感謝の念を、これからの出会いに期待を、胸に抱きながら。
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