第117話 だから僕は大学を辞めたい


「大学を、辞めさせてほしい」


 言い終えた途端、背中にぶわりを冷や汗が吹き出た。

 まるで言葉に氷が溶け込んでいたかのように、リビングの空気が冷たくなる。


 自分の放った言葉の重みを、改めて認識した。


「理由を、聞こうか」


 静かに、父親は言った。

 特に驚いた様子はなく、じっと、感情の乏しい瞳を向けられる。


 僕は、予め用意して置いた言い分を口にした。


 その言い分は以下の通りである。


 この一年、実際に社会人と変わらない日々を過ごしてきて、自分は働く方が向いていることに気づいた。

 大学に戻って講義を受けるよりも、今の会社に残って働き続けた方が成長に繋がると思った。

 上司にも同期にも恵まれていて、労働環境は非常に充実している。

 会社がちょうどゴリゴリ伸びているフェーズで、今、インターンを終えて地元に帰るのはとても勿体無い。


 大枠、こんな風に説明した。


 細かい部分をどのように説明したかは、覚えていない。

 言葉を並べるにつれて緊張で喉がカラカラになって、だんだん早口になってしまった。


 僕のぎこちないプレゼンに、父親は一言も発することなく、耳を傾けていた。

 母親も、何も挟まなかった。


「……という理由で、僕は、大学を辞めたいと思ってる」


 あらかた話す予定だった内容を述べ終えてから、背中がぐっしょり濡れていることに気づく。 

 己の意思で人を説得する、という経験をこれまでしてこなかったツケが回ってきたのだろう。


 ほんの数分足らず話しただけとは思えない疲労感が、身体にのしかかっていた。


 僕が説明を終えた後、父親はしばらく黙考するように腕を組んだ。

 判決を待つ被告人のような心地だったけど、心の何処かに、甘えがあった。


 案外すんなりと、父親は許可を出してくれるのでは無いかと。


 言われるがままになんとなく勉強をし、受験をし、大学に入った僕がある日、休学して東京に行きたいと、主張した。

 それを親父は、「いいんじゃないか」と認めてくれた。


 同じように、今回も僕の要望を受け入れてくれるのでは無いかと。

 都合良く、思いたいように思っていた。

 淡い期待があった。


 沈黙の時間は、そう長くは続かなかった。


 平坦な声で、父親は言葉を発する。


「その理由なら、大学を辞める許可は出せない」


 まるで、温度の低い鉄の棒みたいな声。

 目の前が真っ暗になったかと思った。


 どうして。

 声を発する前に、父親がまるで事実を並べるみたいに言う。


「大学に入るという選択をしたのは、紛れも無い治自身だ。それを途中で放棄するには、理由が弱いと思う」

「仕事が充実しているのはいい事だ。しかし今いる会社は、安定した大企業でもない。この不況のご時世、ずっと会社が続く保証はない」

「もし倒産でもしたら、そこからまた就職口を探すのは大変だ」

「まずはしっかり卒業して、大卒の資格を取ってから、改めて入社したほうが合理的じゃないか?」


 淡々と述べられる正論に、返す言葉もなかった。

 

 ……言われなくても、わかっていた。


 今、自分がやろうとしていることは、合理の観点からするとナンセンスなことだ。


 理由は全て、父親の論理に濃縮されている。

 自分でも重々承知だったから、痛いほどわかった。


 受験をする選択をしたのも自分。

 大学に入る選択をしたのも自分。


 時間もお金も、たくさんのリソースを費やしたその選択を途中で放棄する理由としては、弱いのだろう。


「別に退学しなくても、休学を延長すればいいのではないか?」


 提案が投げかけられる。


「確か大学は、2年まで休学ができただろう。もう1年だけ休学して、それで戻ってくるのは許可できる」


 おそらくこれは、父親なりの妥協案だ。

 父親の譲れない一線は恐らく、僕の卒業。


 大卒という、ある程度食いっぱぐれない資格を持つ事を望んでいるのだろう。

 公務員で安定志向の父親らしい考え方だ。


 休学が許可されたのはきっと、この一線が担保されていたからだ。

 腹落ちすると同時に、胃袋がキリリと痛むような決断を、迫られる。


 ひとまずこの提案を呑んで、一年間はまた、東京で過ごして……という甘い誘惑が目の前をちらつく。


 父親の案を呑めば、一年、日和との日々を過ごすことができる。

 日和と一緒に居られるのだから、その一年はきっと、充実したものになるだろう。


 でもそれは……一年経ったら、次は強制送還以外の道はないということ。

 一年経ったらまた、日和に悲しい思いをさせるということ。


 先伸ばしているだけで、本質的には何も変わらない。


 ──帰ってきたら、ちゃんと返事、するから。

 ──……はい、待ってます。


 ぴゅうぴゅうと寒い夜風が吹くお台場。

 日和の儚げな笑顔が、脳裏に浮かぶ。


 日和は僕に、想いを告げてくれた。

 同時に、僕と離れるのは寂しいと、離れたくないと言った。


 それに対し僕が取ろうと決めた選択は……日和を安心させる。

 つまり、これからもずっと一緒に入れる状態になってから、改めて返事をする。


 日和とそう、約束した。


 熱い鉛のような意思が、身体の芯から沸き立つ。

 拳を、固く握った。

 

 泥沼化したっていい。

 言い争いなっても、ぶん殴られたっていい。


 何が何でも自分の意思を通す、その決意に従う事を決める。


 父親の論理に真っ向からぶつかるため、頭をフル回転させる。


 ここからは消耗戦だと腹を決め、反論の一言目を──。

 

「会社に居続けたい、という理由での退学は許可できないが」


 放とうとした途端、相変わらず抑揚のない声が先制した。


 まるで僕の胸襟を、あらかじめ汲み取っていたかのようなタイミングで、父親は、


「他に理由があるのなら、聞く」


 そう言い置いて、試すような視線を僕に向けてきた。

 含みのあるその言葉に、胸の上ら辺がぞわぞわとする。


 視線を横に流す。

 隣に座る母親は、口を閉じたまま何も言わない。


 しかし、ほんの少し、おっとりとしたその笑顔が、上から下に一度だけ、揺れた気がした。

 

 向き直る。


 相変わらず読めない表情。


 でも、どうしたことか。


 父親が僕に求めている言葉。

 

 それがなんとなく、わかったような気がした。


 そこに理屈は無い。


 本当に、なんとなくだ。


 たっぷり時間をおいて、落ち着かせるように息を吸い、口を開く。


「……好きな子が、できたんだ」


 まるで大事な宝ものを、なぞるかのように、


「去年の9月に出会った子なんだけど……明るくて、優しくて、本当に良い子でさ」


 止まらない。

 湧き水のように、次々と言葉が溢れてくる。


「端的に言うと、その子と離れたくないんだ」


 先ほど述べた理由とは全く被っていない、理由を口にする。


 すると、どうだろう。

 のしかかっていた重い荷物が急に降りたかのような、身軽さを感じた。


「今の会社に居続けたいという理由よりも、正直、こっちの方が理由としては大きい」

 

 今回の説得にあたり、大学を辞めたい理由に日和のことは挙げないと、決めていた。

 こんな理由では認めてくれないだろうし、これこそ自分勝手過ぎると思ったから。


 でも、もう、止まらなかった。


「その子……日和は、僕が十何年勉強してもわからなかったことを、たった半年で教えてくれた」


 蘇る、日和との日々。

 

 出会った当初は、違う生物なんじゃないだろうかと思うくらい、正反対だと思った。

 僕みたいな人種はきっと、日和のような人間とは分かり合えない。


 本気でそう思っていた、だけど、


「人を思いやる気持ち、人の立場に立って物事を考える感覚、そして……人を好きになるという、感情」


 ふわふわした感覚。

 不思議と、僕は高揚していた。


 父親を説得しているという今の現状がどうでも良かった。

 むしろ、僕が日和のおかげでどれだけの成長を遂げたが、両親に披露したいという気持ちさえあった。


「そう、感情だ、感情。僕が長い間、得ようとしても得ることのできなかった”感情”を、日和は教えてくれたんだ」


 教わった。

 抱いてしまった。


 抱いてしまったらもう、抑えられなかった。


「僕が大学を辞めたい理由はとても簡単で、非常に馬鹿げてると思う。そんな理由で何年も、何十万円も無駄にするなんて、本当に親不孝の極みだと思う、だけど!」


 強い語気で放ってから、父親の顔を真正面に見据える。


 日和のことが好き。

 ずっと一緒に居たい。

 離れたくない。


 強い気持ちをそのまま、父親に投げかけた。


「僕は日和と、一日たりとも離れたくない。一年なんてもってのほかだ! だから僕は、大学を辞めたいんだ!」


 自分が親に、こんなにも感情的になる日が来るとは思っていなかった。


 驚く。


 しかし、後悔はなかった。


 むしろ、はっきりと言うことができて、清々しい気分だった。

 心の中で、涼やかな風が吹き抜けるような達成感。


 これでも許可が下りなかったら、どうしようか。

 

 どうもこうもない。


 許可が下りるまで粘り強く交渉を続ける、それだけだ。


 変わらない覚悟を胸に、父親の返答を待つ。


「そうか」


 反応は、素っ気ないものだった。


 まるで、道端に落ちてる石ころのように無機質で、冷たい声。


 だけど……今まで表情を動かさなかった親父の口角がほんの少しだけ持ち上がったのを、はっきりと僕は目にした。

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