第94話 もうとっくにわかってんだろ


「お前、悩みあるだろ」


 月曜日の昼前。

 デスクで声をかけられて振り向くと、真面目な顔つきを浮かべた涼介が腕を組んで立っていた。


「そういう風に見える?」

「むしろそういう風にしか見えないぜ。さっきからずっと、キーボードに手を置いたままぼーっとしてるし」


 ハッとして視線を戻す。

 パソコンのディスプレイは、スリープモードに入ってブラックアウトしていた。


 それは一定時間、パソコンになんの操作も与えていなかった事を意味している。


 大きく息を吐き、肩を落とす。

 自分がわかりやすく動揺していることを、再度自覚した。


「なにがあった?」


 隣の椅子に涼介が腰かけてきて、尋ねてくる。


 口を開こうとして、閉じる。

 尋ねられてするすると説明できるほど、内容が固まっているわけでもなかった。

 正確には、経緯の説明はできるけど、それに対して僕がどのような悩みを抱えているのかが、言語化できていない状態だった。


 胸の中で正体を掴むことのできないモヤモヤが巣食っているような、そんな感覚。


「まあ、おおかた日和ちゃん絡みってことは確実だろうけど」


 言ってから涼介は、ふっと表情筋を楽しませた。

 

 以前の僕なら、「なんでもない」と告げて涼介の差し伸べた手を振り払っていた事だろう。

 でも今は自然と、涼介に相談しようという結論に至った。

 

 正直頭がぐっちゃぐちゃで猫の手も借りたい気分だったのもあるけども。


 こういう時は人を頼った方が良いということを、この数カ月で学んだから。

 

「……知恵を借りたい」

「おう、話してみ」


 ニカッと笑う涼介に、ぽつりぽつりと話を始める。


 一昨日、日和が自室で寝落ちしたこと。

 彼女のスマホに表示させていた画像が、僕の寝顔だった事。

 その前に交わされていた会話。

 翌日、目を覚ました日和は軽く謝罪した以外は何事もなかったかのようにいつもの振る舞いを見せていた事。

 

 説明し終えると、涼介の表情から笑顔が消えていた。


 「お前マジか」とでも言いたげな面持ち。


「お前マジか」


 ドンピシャだった。


「お前それ、完全に……だー、もう!」


 突然頭を掻き毟り始めた涼介。

 一体どうしたんだろうと訝しげに思っていると、


「わかった、経緯は把握した。他に、なんかないのか?」


 ピタリと動作を止めた涼介が面をあげ、神妙な顔つきで尋ねてくる。


「他に、とは?」

「例えば最近、日和ちゃんとの距離が近いとか、何か思わせぶりな事を言うとか」

「……それと、さっきの事象がどう関係するの?」

「どうせ全部繋がってるから聞いてんだよ」


 よくわからなかったが、涼介の言う「日和との距離が近いと感じた事」や「日和の思わせぶりな発言」を、僕がそう判断した範囲で話した。


 前者については、最近、部屋で一緒にいる時はソファですぐ隣同士で座ってることとか、手を繋ぐ機会が増えたとか。

 よく頭を撫でる、撫でられるとか。

 この前肩を揉んでもらった際、後ろからハグされたこととか。


 後者については、最近、以前には見られなかった少々大胆な発言が増えたこと。

 からかっているんだろうけど、思わせぶりといえば思わせぶりな発言もちょいちょいしていること。

 都庁での日和の発言についても触れた。

 好きな異性のタイプの話になって、「治くんみたいに一緒に落ち着く人がいい」と、自分の好みを主張したこととか。


 事実を淡々と話しているだけなのに、何故か体温の上昇を感じた。

 

 話し終えると、涼介が「こいつ信じられねえ」と言わんばかりの表情を浮かべていた。


「こいつ、信じられねえ」


 またドンピシャだった。

 最近、人の表情が読めるようになっているっぽい。


「お前、そこまで明からさまなアプローチ受けてて……この……おま、ほんとありえないからな!?」


 胸倉を掴まれてぶん殴られるんじゃないかくらいの勢いで詰め寄られて、たじろぐ。


 僕が困惑顔を浮かべていると、涼介はまた頭を掻いた後、魂もこぼれてしまいそうなほど大きなため息をついてから、椅子に深々と腰掛け直した。


「よし、一旦日和ちゃんについては置いておこう。情報としては望月の口頭説明しかないからな。もしかしたら全部、お前の色眼鏡フィルターがかかっていて、勘違いしているという可能性も無きにしもない」

「それはそれでとんでもないね」

「で、どうなの?」

「……どうって?」

「好きなの? 日和ちゃんのこと」


 息を呑む。


 どう思ってるの、ではなく、好きなの? というストレートな質問。


「……それを聞いてどうするの」

「いいから答えやがれこの女泣かせのチェリー野郎」


 涼介の発言については異議を申し立てたい所存ではあったが、彼にしては珍しく有無を言わせない雰囲気を纏っていたため、真面目に答える。


「……少なくとも、人間性は好きだと断言できる」

「ちげえわ、異性としてだよバカ」

「異性として」

「そうだ」


 涼介が大きく頷く。


「こういうのは外野があれこれ言うより自分で段階を踏んだ方が良い、と俺は思って核心的な部分は突っ込んでこなかったけど……なんかお前、『気づいてるくせに気づいてないフリしてる』フシがあるから、方針転換する」

「気づいているくせに、気づいていないフリ……?」


 その言葉の意図は、読めなかった。


 ただ、前の質問の意図は、理解できた。

 

 過去に何度かされた質問。


 日和を異性として意識しているか、という質問だろう。


 その判断基準として「相手を好きという感情」がキーワードになっていることは、ネットや本の知識、日和に貸してもらった漫画からインプット済みだ。


 なんならこの問いについては何度も考えた。

 理屈としてはわかっているのだ。

 

 ただそれが僕の中で感覚として、感情として自分が抱けているのか。


 それが、わから……いや。


 今度は僕が椅子に深く腰掛け、顎に手を添えて考える。


 ……確かに日和と一緒にいて、理性で制御できない感情を抱く機会は頻出している。


 意図しない胸の高鳴り、不自然に上昇する体温、そして──日和に触れたい、撫でたい、抱きしめたい、という衝動。


 随分前から最近まで何回も。

 思い返せばキリがない。


 そしてその感情は、僕のインプットした「好きという状態」の条件に合致している事にも気づいた。


 ……でも、なぜかそれでも、日和に対する想いをはっきりと明示することに、抵抗感を感じていた。


 どうして、だ。


 小骨が喉に引っかかって取れないような感覚に、表情を険しくする。


「もうとっくにわかってんだろ。お前の中で、日和ちゃんがかけがえのない、特別な存在になっていることは。でも、何かに引っかかりを覚えていて、振り切れない、そんなふうに、俺は見えるね」


 僕の胸襟を代弁するように、涼介が言う。


 それが僕の懸念を確信的なものにした。


 論点はひとつに絞られる。


 一体僕は、何に引っかかっている?


 考えろ、考えろ。


 神経が焼き切れそうなほど頭を回転させて。

 これまで日和と過ごしてきた日々と、その時々に抱いた感情を思い起こして。


 心の井戸の底の底から、少しずつ、違和感の正体を手繰り寄せる。


「……合ってるか、わからないけども」


 複雑なパーツで構成された飛行機を組み立てるような感覚で、涼介に次のように説明する。


 先の前述の通り、僕は確かに、日和に対する特別な感情を抱いている。


 でもそれは、日和がとんでもない美少女だから、本能が……もっというと遺伝子が反応しているだけ。


 つまり、性の対象として見ているだけではないのか。


 その可能性が捨てきれず、意思を確定できずにいるのかもしれない。


 好きという状態はただ肉体的な繋がりを求めるだけでなく、対象との精神的な繋がりも求めている状態だと思う。


 肉体的な繋がりだけを求めているだけなら、それは好きとは言えない。


 目には見えない、精神的な繋がりもあって初めて、好きという状態なのではないのか。


 でもその、精神的な繋がりの証明が、まだ確立できていない。


 だから、明確に答えられない。


 その「好き」は本物か?


 という命題に。


 僕のおぼつかない説明に、涼介は途中で何度もツッコミしたげな様子だったが、最後まで根気強く耳を傾けてくれた。


「なるほどな」


 話し終えると、涼介は何度も深く頷いた。

 完全に合点のいった風な、難解な証明問題が時間をかけて解けたときのような、そんな表情を浮かべたかと思うと、

 

「この、クソ真面目め」


 呆れ顔。

 でも、「そういうの、嫌いじゃない」的なニュアンスの笑顔を浮かべて、


「てっきり、ただチキッてるだけかと思ってた。でも、なるへそ、理解した。真面目が行き過ぎるとそういう思考になるパターンもあるのか」


 額を人差し指でなぞってから、涼介は僕を正面から見据えた。


「でもそれは裏を返せば、日和ちゃんのことを超真剣に考えてるってことなんだろうな。……その誠実さは、本当にすごいと思うし、誇っていいと思う」

「……頭が、硬いだけだと思うよ」

「おっ、自覚はあるんだな」

「そりゃあ、まあ」


 誰かさんのお陰で。


「でも俺はいいと思うぞ、ちょっと真面目で硬いくらいが。その方が、相手と深いところで向き合えると思うし。……まあ、望月は真面目すぎて前段階でモタモタし過ぎだけど」


 呆れ笑いを浮かべる涼介。

 返す言葉もなく押し黙っていると、涼介が何か思いついたように手をポンと打って、尋ねてきた。


「今日、昼の予定は?」

「特にないけど」

「よし、じゃあランチ付き合え」


 言ってからすくりと立ち上がり、涼介はこう続けた。


「その命題、俺が証明してやるからよ」

 

 そこには、いつものヘラヘラした軽い笑みではなく、人を勇気付ける心強い笑顔があった。

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