第93話 激震から一夜明けて


「おはよーぅ」


 翌朝。

 我が家の寝室から出てきた日和の、呑気なモーニング挨拶がリビングに響く。


「……おはよう」


 僕が短く返すと、日和は表情をにぱっと明るくして、寝ぼけ眼をこすながら隣に腰掛けた。


 朝陽を受ける日和の端正な顔立ちは、まるで天使のような神々しさと小動物のような愛らしさを醸し出していて、思わず惹き込まれそうになる。

 加えて、いつもよりも甘ったるい匂いが強く漂ってきて、寝不足の頭が辞書で叩かれたように覚醒した。


 そんな僕の内心なぞどこ吹く風。

 んぅーと伸びをしてから、日和はふにゃりと柔らかくした面持ちをこちらに向けて口を開いた。


「昨日はごめんねー、唐突にスリープモードに入っちゃって」

「……別に」

「すっごく寝心地よくて、ついぐっすり寝入っちゃったー。やっぱ、布団によって変わるもんだねー」

「……それは、なにより」


 返答しながら、自分の声が想像以上に力を失っていることに気づく。

 日和も何かを察知したらしく、形の良い眉がぴくりと動いた。


「あや、もしかしなくても……寝不足?」

「……ちょっとだけ」


 半分嘘である。

 寝不足どころの騒ぎじゃない。

 昨晩から一睡もしてないなかった。

 理由は明白である。


「うやー、ほんとごめんっ」


 完全に意識を覚醒させた日和がばっと頭を下げる。


「私がベッド占領しちゃったせいで……ソファだと、やっぱり眠れなかったよね」

「……いや、えっと」


 返答に窮する。

 日和の予想は的を外していた。

 正直僕は、ソファでもそれなりに睡眠を取ることが可能なタイプである。


 にも関わらず徹夜をしてしまったのには、別の理由がある。


 ──昨晩、寝落ちした日和のスマホに映し出されていた、例の写真が原因だ。


 箱根温泉に行った際、湯上りで仮眠を取っていた僕を、日和はスマホでシャッターに収めた。


 あの時の写真。


 それを、なぜあのタイミング、しかも──あんなにも幸せそうな表情で眺めていたのか。 


 なぜ?


 直前まで別のコンテンツに触れていた可能性も考えた。

 しかし、前後のやりとりから推測するとやはり、あの時日和が眺めていたのは僕の写真だろう。

 

 やっぱり、なぜ?


 昨晩からその問いがぐるぐると頭の中を回って、交感神経が休まる間も無く、結局一睡もできなかったのだ。


「治くん?」

「ぇっ」

「ぼーっとして、どうしたの?」


 日和が心配そうな面持ちで距離を縮めてくる。

 恐ろしいほど整った顔立ちが、すぐ目の前に。


「な、なんでもない、ちょっと、寝ぼけてるだけ」


 吃(ども)りながら返すも、わかりやすく動揺している自分にヒヤヒヤする。

 

 もしも日和に、寝落ちする直前の記憶があった場合。

 勘の良い日和は、僕が例の写真を見てしまった可能性に気付くかもしれない。


 そこを突っ込まれた時、僕はどう反応したらいいのだろう。


 見てしまった、という事実を明かすだけなら簡単なのに、その事実に対して自分がどのような感覚を抱いたのか。

 それを言語化する事、また仮に言葉にできたとしても、それを日和に伝えることに強い抵抗感を感じていた。


 想像するだけで顔の温度が上昇して、破裂してしまうんじゃないかと思うほど鼓動が速まる。


 頭がごちゃごちゃしてて纏まらない。

 昨晩からなんなんだろう、本当に。


「そっか」


 僕の不安は杞憂であった。

 日和は特に突っ込んでくることなく、短くそれだけ返した。


 それに胸を撫で下ろしていた僕は──日和がほんの少しだけ、そっと口角を上げた事に気づかなかった。


「よしっ、じゃあ治くん、私一回部屋戻るね」

「えっ」


 急に立ち上がって帰還宣言をする日和に、素っ頓狂な声が漏れる。


「寝起きで髪ボサボサだしパジャマ着替えたいし、なにより治くんこれからゆっくり休まなきゃでしょう?」


 妙に早口で捲し立てる日和の頬がほんのりと赤らんでいる事には、気が付いた。

 顔赤くない? とは尋ねる訳もなく、「う、うん……」と流された末の肯定を呟く。


 日和はいつもの快活な笑顔を浮かべて、

 

「一晩、泊めてくれてありがとう。今度は治くんがゆっくり使ってね。それじゃっ、また後で!」


 それだけ言い残してぴゅーっと、部屋を出て行った。


 相変わらず慌ただしい。

 いつものことかと思う反面、普段よりも一層慌ただしいように感じた。


 しばらく、日和が出て行ったドアの方をぼんやり眺めていたが、直に襲ってきた悶々とした波によって現実に引き戻される。


 なぜ、日和はあの写真を眺めていたのか。


 なぜ、あの写真を眺めて、あんなにも幸せそうな表情を浮かべていたのか。


 そしてなにより──なぜ、自分の胸がこれまでに無く、異常なほどの高鳴りを見せているのか。


 情報量が多すぎる。


 一度頭を整理しないと、パンクしそうだった。


 ソファに倒れこむように横たわる。


 睡眠を取る目的ではなく、身体の全機能の頭に集中させるために。


「なんなんだ、本当に」


 今の気持ちを言葉にして、呟く。


 まだしばらく、寝れそうにはなかった。

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