第89話 日和みたいに/治くんみたいに


 東京都庁第一本庁舎の展望室は、360度どこからでも外を眺望できる造りになっていた。

 ワンフロアで多目的ホールほどの広さがあり、お土産屋やちょっとしたレストランまである。

 見回すと、教養がないと理解ができないタイプの絵画が壁に飾られてあったり、奇怪な模様のグランドピアノが展示されていたりと、見ている者を飽きさせない工夫が凝らされていた。


「治くんー! こっちこっちー!」


 フロアの外縁部まで一足先に向かった日和がぶんぶんと手を振っている。

 小間使いのような足取りで日和の側に来てから、ガラス面越しに外に目をやった。


「おお……」


 地上250mから見渡す絶景に、思わず驚嘆の声が漏れる。


 真冬の澄んだ空気の奥の奥まで広がる、数え切れないほどのビル群。

 その光景には、自身のちっぽけさを痛感させる程の壮大さがあった。

 

「いーい景色」

「そうだね」


 同意せざるを得ない眺めである。


 東京を一望するのは今回が二度目。

 一度目は高尾山の頂上からで、都心から遠く離れた位置からの眺望だった。

 今回、街の中心から眺める東京は、スケール感が桁違いだった。

 

 今向いているのは千代田区や港区の方向らしく、六本木ヒルズや東京タワーといったランドマークも視認することができる。


 絵にして飾っておきたくなる光景に、しばらく声を発することも忘れて惚けていた。


「ここ、結構穴場なんだー」


 日和の言う通り、土曜日の午後というのに人はまばらだった。

 都政の総本山に展望台がある事は、あまり認知されていないのだろうか。


「これで無料ってすごいね」

「でしょー?」

 

 日和がふふんと鼻を鳴らす。

 素朴な疑問が湧いて、尋ねた。


「よく知ってたね」

「ネットでは結構有名なんだ、ここ」

「そうなの? 失礼な話、映え的な観点からするとは微妙だと思うんだけど」

「映えでいうとスカイツリーとか六本木ヒルズとかに軍杯が上がっちゃうよね。でも、都庁の魅力はそこじゃないのだよワトソンくん」

「助手になった覚えはない。つまり、どういう意味?」


 訊くと、日和は何やらスマホを確認した後、ぱっと表情を光らせて言った。


「そろそろ始まるから、わかるよ!」

「始まる?」


 頭上に疑問符を浮かべると同時に、どこからともなく美しい旋律が聞こえてきた。


 振り向く。


 すらりとした体躯の、20代後半くらいの青年が、奇怪な模様のグランドピアノに座って旋律を奏でていた。


 てっきり展示品とばかり思っていたから、驚く。


「あのピアノ、弾いていいの?」

「ストリートピアノっていって、誰でも弾いていいやつだよ。確か、品川駅とかにもあったはず」

「へえ、そんなのがあるんだ」


 東京すごい。


「ほら、いこっ」


 日和に手を引かれピアノのそばまでやって来る。

 周りにはすでに人の輪ができていて、皆、うっとりしたようにピアノの調べに聴き入っていた。


 音楽に疎い僕でもわかる。

 彼の生み出すメロディが、素人のそれでは無いことを。


「プロの方?」

「そそっ。海外回ったりしているマジもんのプロなんだけど、ヨーチューバーもやってるみたいなの」

「へえ、ヨーチューバー」


 そういえば最近、プロの女優やお笑い芸人、心理学者から音楽家等がヨーチューブに参入するケースが多いと、何かの記事で見た。


 多分その流れだろうと思った。


「たまにゲリラライブとか開催してるらしくてさ。今日のこの時間にライブするって告知があったから、こりゃもう行くしかないなって!」

「ああ、だから今日じゃなきゃダメだったんだ」 

「そーゆこっとん。この前初めてこの人の動画見たんだけど、動画越しでもすごい演奏だったから、生で聴きたいって思ったの」

「なるほど、理解した。というか、こういうの聴くんだ、意外」

「意外ってなんだようー。まあぶっちゃけると、普段は全然聴かないけど」

「聴かないんかい」

「でも、興味は湧くじゃん? プロの生演奏って、どんなんだろって」

「ああ、それはわかる」

「でしょでしょ? でもやっぱり、すごいねー」


 日和に言う通り、彼の演奏は凄まじかった。

 耳が離せないって、こういう感覚を指すのだろう。


 軽快なテンポ、ゆったりとしたリズム、荒々しい旋律と、生き物のように奏でられる自然な抑揚。

 まるで、メロディの一つ一つに感情が篭っているかのような奥行き感。


 無機質な都庁のワンフロアが今この瞬間だけ荘厳なコンサート会場に様変わりするほどの、ハイレベルな演奏だった。


「来てよかったでしょ?」


 まるで、サプライズの反応を期待するような笑顔。


「いい経験になった」

「ふふっ、そっかそっかー」


 満足げに頷き、日和は心底嬉しそうに笑った。


 気がつくと、結構な人だかりが出来ていた。

 若い世代、とりわけ女の子が多いように見受けられる。


「物凄い人気」

「そりゃあ、プロのピアニストだしねー。あと、イケメンだし」


 言われて、胸のあたりにチクリと痛みが走った。


 今まで感じたことのない、もやっとした感じ。

 なんだろう、これ。


「あんな感じが好きなの?」


 口が勝手に動いて質問をすると、日和は珍しく苦い表情を浮かべた。

 

「んー、私の好みじゃ無いかなー。なんかああいう、キラキラした人っていうの? あんまりいい思い出がなくてさ」

「何かあったの?」

「うん。前私に告白してきた人、クラスでも人気のイケメンだったんだけど、それに負けないくらい自意識過剰タイプで」


 今思い出しても腹立たしいと言わんばかりに、険しい表情を浮かべる日和。


「すんごい上から目線だったのがムカついて丁重にお断りしたんだけど、その後もしつこくってさ……」

「それは、なんというか……災難だったね」

「ホントよもー。もちろん、そんな人ばっかりじゃないってのはわかるんだけどねー」


 やれやれと肩を落とす日和。

 僕には一生縁の無さそうなエピドードだと思ったけど、美少女にも美少女なりの悩みがあるんだろうなと思った。


 ……ふと、胸にかかっていたモヤが消え去っていることに気づく。


 なぜか、僕は安堵していた。


 なぜ。


「ねえねえ! 治くんは、どんな子が好みなの?」

「藪から棒になに」

「んー、ただの興味! で、どうなの?」


 漆黒の瞳が爛々と輝く。

 ただの興味という割には真剣な雰囲気を纏っているように感じたけど、気のせいだろうか。


 思考を巡らせる。

 これまでの人生で考えもしなかった議題。

 美しい旋律をBGMに脳内会議が行われた後、答えた。

 

「……僕みたいな人でも受け入れてくれる人、かな」

「ほうほう! それで?」

「……」

「え、それだけ!? もっとこう、ないの?」


 広げた両掌を胸の前で上に向ける「what?」のジェスチャーをする日和に、数学の証明問題でも説いているような感覚で答える。


「前提として、僕は異性に好かれるようなタイプじゃない。故に、選り好みできる立場でもない。だから、異性の好みを把握しておく必要性がないから、考えたことが……なに?」


 最後、言い終える事なく疑問符を添えたのは、日和がぷくーっと頬を膨らませていたからだ。


「……ないもん」

「へ?」

「治くんが女の子に好かれないとか、そんなことないもん」


 駄々をこねる子どもみたいに言った日和がジトリと、詰めるような視線を向けてくる。


「治くんがわかってくれるまで言うけど……治くんは優しくてカッコよくて、とっても魅力的な男性だよ」


 演奏が、クライマックスに差し掛かる。

 日和の言葉が荒々しい旋律に乗って、僕の鼓膜を、胸を震わせた。

 

「……そう言ってくれるのは素直に嬉しい、けど」

「けど?」

「そう思えるほどの自信がない」


 事実だ。


 生まれてこのかた、男性としての自信を持ったことはない。


 持つ必要性を感じていなかったと言う方が正しいか、と内心で分析していると、


「自信を持つ必要性がなかったから、結果的に自信を持たなかった、ってだけじゃないの?」


 驚く。

 時たま日和は、鋭い観察眼を見せる。


「図星って顔してる」


 僕が何も返せないでいると、日和がくすりと笑って言葉を溢した。


「じゃあまずは、好きな子の好みから見つけていかないとね!」

「なんでそうなるの」

「異性に意識されたい! って思わない限りは、自信をつけたい! って思わないじゃない? その前段として、まずは自分がどういう女の子にビビッとくるのか把握しないと」

「なるほど……つまり、自信をつけるには自信をつける動機が必要で、その動機に起因するのが異性に認められたいという欲求で、その異性のペルソナを設定するために、まずは自分の好みを客観的に分析することが大事、ってこと?」

「んーー? なんか一気に小難しくなってよくわかんないけど、ニュアンス的にそうなんじゃない?」


 多分筋は通ってる。

 通ってるけど。


「そんな急に言われてもなあ……」


 すぐに出るものでもないだろうと突っ込もうとしてふと、頭に電気が走る。

 

「ああ、でも、強いていうなら」

「おっ、なんかあった!?」


 期待に瞳を煌めかせて顔を近づけてくる日和に、なんの意図も作為も企てもなく返答する。


「日和みたいに、一緒にいて楽しい人だといいのかなあー、と……」


 旋律が、途絶える。


 本当に何気なく紡いだはずの言葉は、日和に大きな変化をもたらした。


 クイズの答えを待ちわびる子どもみたいな表情が、戸惑いのそれへ。

 かああっ、と効果音がつきそうなくらい、日和は分かりやすく顔を赤くした。

 

 朱に染まった端正な顔立ちを目の当たりにして、気づく。

 自分が、思い切り勘違いされてもおかしくない言葉を選んでしまっていたことに。


「やっ、ちょ、違う、さっきのは……」


 深い意味はない、と言おうとしたちょうどそのタイミングで、大きな拍手がフロアに弾けた。

 演奏が終了したらしく、その場にいた人々は僕と日和以外、盛大な拍手をピアニストに送っていた。


 早く誤解を解かねば。

 だから拍手よ迅速に収まってくれとあたふたする僕を見て、日和がくすりと表情を綻ばせる。


 そして、


「────────」

 

 桜色の唇が、言葉を紡いだ。

 口を動かした、だけかもしれないほど、小さく。


「なんて、言ったの?」


 拍手が落ち着いてから、尋ねる。


 すると日和は頬をほんのりいちご色に染めたまま、嬉しさを顔一杯に広げてもまだ足りないといった表情で空気に言葉を乗せた。


「私も治くんみたいに、一緒にいて落ち着く人がいいな」


 その発言には、どんな意味が込められているのだろう。


 浅いのか深いのか、表のままなのか裏があるのか、追求はできなかった。


 言い終えた途端、日和はくるりと身を翻し、顔だけこちらに向けて、


「そろそろ下、降りよっか!」


 この話はこれで終わり、とばかりに言い置いたから。


 僕は言葉を返すこともできず、ただ、顔を熱くして頷くばかりであった。

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