第90話 赤い悪魔の代償と……


「すごかったねー!」


 大通りに活き活きとした声が弾ける。

 地上に降りてきてからずっと、日和は興奮冷めやまぬといった様子だった。


「うん、凄かった」


 僕も頷くと、日和は嬉しそうに脇腹を小突いてきた。


「なに?」

「んーん! それにしても、指先一つで人々をあんなに魅了するって、本当にすごいよね!」

「そうだね。少なくとも、僕にはできない芸当だ」

「そんなことないよー! 治くんにはほら、小説があるじゃん!」

「まだ一文字も書いてない件について」

「大丈夫。治くんはきっと、たくさんの人々を魅了するベストセラー作家になれるよ!」

「いっつもハードルを最高値にあげてくるよね日和は」


 何がしたいの? と視線で問いかける。

 日和はなんの悪気もない笑顔を浮かべて端的に言葉を口にした。


「小説、楽しみにしてるね」

「……ちゃんと順序立ててやってるから、もうしばらく待って欲しい」

「うんうん、知ってるよお。治くんが最近、やけに難しそうな創作の教科書? みたいなの引っ張り出してきて読んでるの」

「まずは自分にあった創作論を固めて、その後、語彙と文章のテンプレートをインプットしてから、書き始める予定」

「計画的だねー、ほんとすごい。私にはできないなー」

「日和はとりあえず書くことから始めそうだね」

「書く! って決めたら、多分その瞬間から書き始めちゃうと思う!」

「逆にその行動力は僕にないから、凄いと思う」

「えへへー、褒められた」


 無邪気な子供のように笑う日和の綺麗な横顔を眺めながら、思い起こす。


 ──私も治くんみたいに、一緒にいて楽しい人がいいな。

 

 展望室で日和が口にしたあの言葉には、いったいどんな意図が含まれていたのだろうか。

 以前だったら特に気にせず流していたはずなのに、なぜか今は、胸のあたりで引っかかりを残していた。


「あの、さ」

「んぅ?」

「いや、えっと……次は、どこいくの?」


 本来口にするはずだった問いは喉の奥へ引っ込んでしまう。

 臆病だ、本当に。


「ダーツやってみたい!」


 考える素振りを見せることなく、日和はあらかじめ決めていたと思われる速さで答えた。


「円状の的に手のひらサイズの矢を投げて点数を競うやつ?」

「そうそれ!」

「ふむ、やったことない」

「私も! でもやってみたくない? なんかカッコいいし」

「カッコいいかはさておき、興味はある。ゲーム性はシンプルだし、室内だから温かいし、何より身体を使わなくていい」

「あははっ、治くんらしい」

「寒空の下で身体を動かしたいとは普通思わんでしょ」

「そう? 私は好きだよ、寒中水泳とかやってみたい!」

「死んでもやらない」

「むしろ死んじゃうかもね」

「違いない。あ、ダーツ行く前にちょっとコンビニ寄っていい?」

「いいよー、なに買うの?」

「リップクリーム」

「およ、もしかして唇痛い?」

「なんかピリピリしてるから、念のため」

「あややー、唐辛子にやられちゃったんだねー」


 日和が後ろ手に頭を掻く。

 微かに、バツの悪そうな顔をした。


「念のために言うけど、責めてる気持ちとかは皆無だからね? 理由はあの赤い悪魔によるものだけど、それについて咎める気持ちは欠片もない」


 むしろ今となっては、新しい旨味に気づけて良い経験だったとすら思っている。

 唇のヒリヒリくらい、安い代償だ。


 という旨も伝えると、日和は表情をマシュマロみたいに柔らかくした。


「ありがと」

「……別に」


 極上の美少女が見せる、ほんのりと恥じらいを浮かべた横顔に思わず顔を逸らす。

 その視線の先にちょうどコンビニを発見した。


「ちょっと、パパッと買って来る」

「あ、待って」


 助け舟に乗るような心持ちで駆けようとする僕の腕を、日和がガシッと掴んだ。

 そしてそのまま、路地裏に連行される。


 一瞬何が起こっているかわからず、壁を背に押される体勢になってから、やっと口を開く。


「いきなり、なに?」

「なに、じゃないわよう。私の力、忘れたの?」

「……ああ」


 頭の中で、パズルがカチリとハマる音。

 日和の持つ──傷や病気を癒す力の存在を、思い出す。


「最近、使ってる機会を全然見ないから、すっかり忘れてた」

「お、それはむしろ良いことだね。使う機会が少ないほうが幸せだよ、この力は」


 日和がどこか、寂しそうに笑う。

 その表情が憂いを帯びたのは、一瞬のことだった。


「とにかくこういう時こそ、私の出番でしょ!」


 拳をぎゅっと握り、得意満面で言う日和。


「でも、力使ったら、その」

「んー、今の時間だと、夜あたりに寝落ちしちゃうかな?」

「なんか、申し訳ない」

「いいのいいの、気にしないで。私がしたいだけだから……だめ?」


 上目遣いを向けられ、息を呑む。

 透き通った瞳、シャープなラインを描く鼻筋、ぷるりと柔らかそうな唇。

 見れば見るほど整った顔立ちに見上げられて、僕は拒否と名のつく選択肢を失ってしまう。


「……じゃあ、お願いしていい?」

「うん、いいよ」 


 嬉しそうに笑う日和の繊細な手のひらが、僕の頬に添えられる。

 ひんやりとしていると思いきや、温かい。


 すうっと息を吸った瑞々しい唇から、魔法の言葉が紡がれた。




 ──この時、日和が力を使った事がキッカケとなり、僕は数時間後、大きく動揺することになる。

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