第88話 他人が楽しいと、自分も嬉しい
「美味しかったねー!」
日和の溌剌とした声が大通りに響く。
その表情は大きな達成感に満ち溢れており、足取りには遠足へ向かう幼児のような軽やかさがあった。
一方の僕はというと、被弾した兵士のようにお腹を押さえ、よろよろと日和の後を付いていっていた。
つまり、ボロボロであった。
赤道ラーメンを食べてる際にドバドバ出ていたアドレナリンが消失してみれば、後に残されたのは自分は一体何をしていたんだろうという虚無感とピリピリとした唇の痛みである。
達成感はあったものの、我ながら無茶をしてしまったと後悔するばかりであった。
「どーした治くん、元気ないぞー?」
「逆に、よくそんな元気でいられるね」
「そりゃあもう! 赤い悪魔を討伐できて満足だよ、私は」
「いや、そういう意味じゃなくて」
胃袋の強度についての話であったが、不毛になりそうなのでやめた。
僕のか弱い胃袋と、日和のブラックホールを比べても建設的な議論は望めない。
「でも、美味しかったでしょ?」
日和がにまにまと、返答はすでにわかっていると言わんばかりの面持ちで訊いてくる。
「……うん、まあ」
「やっぱりー! 途中からもう、一生懸命食べてたもんね、わんちゃんみたいに」
「誰がわんちゃんだ」
一生懸命食べてたのは美味しくて止まらなかったから、というわけではない。
迅速にかき込まないとじわじわとボディーブローのように効いてくると判断したからであるが、日和にとってはきっとどうでも良い話だ。
「でも完食するとは思わなかった! 凄いよ、本当に」
「作ってくれたものを残すのは僕の信条に反する」
「おお、えらいえらい。いつも綺麗に食べてくれてありがとうね」
「……別に」
急に褒められ、気恥ずかしくなる。
顔が熱いのはきっと、まだ唐辛子の熱が残っているからに違いない。
「この後はどうするの?」
「都庁に行きたい!」
「都庁?」
おおよそ、女子高生の口から出たとは思えないリクエストに、一瞬何かの聞き間違いかと耳を疑う。
「何があるの、都庁って」
「無料で登れる展望台!」
「ほう」
確か都庁は高さ200mを超える、西新宿のビル群の中では最も高い高層ビルだと記憶している。
そんなビルの展望台から、都内を一望する、しかも無料で。
確かに、コスパ最強な楽しみ方ではあるけども。
「別に、今日じゃなくても良かったんじゃ?」
「今日じゃなきゃダメなの」
躊躇いなく言う日和。
一体、都庁になんの拘りがあるのだろう。
「遠出しても良かったのに」
「およ、そういう気分だった?」
「提案されたら行く、くらいのテンションだったけど」
「じゃあ、富士山登りに行こっか!」
「馬鹿じゃないの」
光の速さで突っ込むと、日和はうははっと声を上げて笑った。
変な気を起こされないよう、今の季節の富士山は入場規制で登れない旨を伝えてあげると、日和は「ざーんねんっ」と全く残念がってない素振りを見せた。
平常運転。
「遠出も考えたんだけどねえー」
日和が立ち止まってから、後ろに手を組んで言う。
「そうなると、どうしても移動時間がかかっちゃうじゃない? それよりも、近場でいろんなところを回りたいなーって」
「つまり、遠方で特定の場所一つを楽しむより、近場で複数の場所を回りたかった、ってこと?」
「そーそー! そういうこと!」
「なるほど」
確かにそれは理に適っている。
にも関わらず、妙にスッキリしないのは何故だろうか。
「大丈夫だよ、治くん」
まるで、僕の心中を見透かしたようなタイミング。
「私に何かしてあげたいって気持ちは、すっごく伝わってるよ。むしろ、その気持ちだけで充分ってくらい」
くるりと身をこちらに向けた日和は、ぱっと表情を明るくして言った。
「だから、気にしないで。私は今、すっごく楽しいよ!」
嘘も欺瞞も冗談もない言葉。
喜色で彩られた笑み。
聞いて、目にした瞬間、僕の胸のあたりにある感情が芽生えた。
嬉しい。
日和が楽しいと言ってくれて、僕は嬉しいと感じていた。
いつだったか、日和が言っていた言葉を思い出す。
『他人が楽しいと、自分も嬉しい気持ちになる』
その感覚が、理屈じゃなくて感覚として、わかった。
言葉が、口からぼそりと溢れる。
「……そう言ってくれると、僕も嬉しい」
「ん? なんか言った?」
「なにも」
「んー? 幻聴かな?」
「唐辛子で聴覚をやられたのかもね」
「ぷははっ、ありえるかも」
「楽しそうで何よりだよ」
「うん、おかげさまで、楽しいよ!」
それ以上は何も言わず、正確には言うことができず、日和の後を付いていく流れになった。
その道中で、胸のあたりが先ほどよりも軽くなっていることに気づく。
多分、不安だったのだろう。
日和が楽しんでくれているかどうかとか。
本当は他に行きたいところがあるけど、僕に気を使って胸に仕舞い込んでいたのではないかとか。
でも、日和の心底楽しそうな笑顔を見ていると、そんな僕の杞憂が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
先ほどよりも軽い足取りで、僕は日和の後をついて行った。
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