第87話 日和と赤道ラーメン

「お待たせいたしました、赤道ラーメンの1辛になります」

「わーーー!! 美味しそう!!」


 テーブルに「赤々しいなにか」が降臨した途端、日和はお子様ランチを前にした子供のようにはしゃぎだした。


「こちらも、赤道ラーメンの1辛ですね」

「……」


 僕の前にもどんぶりが置かれる。

 途端に、突き刺すような唐辛子の香りが漂ってきて思わず眉を寄せた。

 日和とは対極的に、僕の面持ちは給料日10日前に預金が尽きたサラリーマンのそれだった。


 鎮座する「赤々しいなにか」の全貌を目の当たりにして、ようやく言葉を発する。


「なにこれ?」

「赤道ラーメンだよ?」

「いや、名前を聞いてるんじゃなくて……赤過ぎない?」

「そりゃあ辛いんだから、スープも赤くなるよ」

「これ、スープだったんだ。僕はさしずめ、ミートソースかなにかだと思ったよ」


 とりあえず、赤い。

 何がって、全てが。


 スープはもちろん、麺も、チャーシューも、具材の野菜も。

 一面赤で塗りつぶされていて、どこから食べたとしても唐辛子の恩恵を受ける素晴らしい仕様になっているようだ。


 正気か?


「これ、本当に、1辛?」


 一言一句強調して尋ねる。


「赤道ラーメンの1辛だね!」

「待って待って。赤道ラーメンの、ってことは、通常ラーメンの1辛もあるの?」

「あるよー! 通常メニューのタンメンが1辛から10辛まであって、その上に赤道ラーメンの1辛から10辛があるの!」

「つまり赤道ラーメンって」

「タンメンの10辛だね」


 ニヤニヤと悪魔の笑みを浮かべる日和を見て、悟る。

 どうやら、まんまと嵌められたらしい。


 冷静になって考えてみれば、この手のお店で日和の悪戯心が疼かないわけがない。

 おそらく、激辛に悶絶する僕を見て楽しむ算段だったのだろう。


 悲劇だ、悲劇としか言いようがない。

 辛いモノ好きからしたら何をそんな大げさなと一笑される事象かもしれないが、僕にとっては由々しき事態だ。


 自身の危機察知能力の低さを嘆く。


 今日一番大きなため息をついてから日和を恨めしそうに見やるも、当の本人はどこ吹く風といったご様子だ。


「さてさて! 赤い悪魔との戦いを始めよっか!」

「悪魔はどっちだ」


 腕を捲って臨戦体制に入る日和にツッコミを入れてから、ひとまず紙エプロンを装着。

 今一度、赤道ラーメンの全貌を見渡してから心中を吐露する。


「食べれる気がしない」

「大丈夫、最初は辛いけど、慣れてきたら美味しさを感じるようになるから、騙されたと思って食べてみて!」

「もうすでに騙されているわけだけど」


 いいからいいからと、割り箸を渡される。

 心の底から気が進まなかったが、今日は日和のしたいようにするという腹積もりで来ている以上、食べないという選択は取れそうにない。


 南無三。

 腹を括り、いつもより小さく食材に対する感謝の言葉を告げる。


 とりあえず被害を最小限に抑えたいという心理が働き、まずは表面に浮かぶ麺をリフト。

 見れば見るほど赤いな、これ。

 元は小麦粉色であっただろう麺は、粘度の高い唐辛子スープが絡みついて赤々しくなっている。


 視覚も嗅覚も「これはやばいぞ」と警鐘を鳴らしているものの、食べないわけにもいかないので覚悟を決め、ずるずると……。


「うごほっ」

「あははっ、辛いでしょ?」


 日和の楽しそうな声が弾ける。

 しかし僕に咎める余裕は無い。


 脳天を直撃する熱を伴った刺激、違う、衝撃。


 なんだこれ、辛い、いや、もはや痛い。

 唇が、舌が、歯茎が、喉が、焼けるように痛い。


 すぐコップを手にして水を煽る。

 炎上する口内に一瞬だけ爽やかな清涼感が到来するも、水分が喉元を過ぎてしまえばさっきよりも強い辛味が再来する。


 堪らず、二杯目の水を注いで飲んでから、何度か深く息を吐く。

 ようやく少し収まってきたことを自覚すると同時に、額から汗が吹き出していることに気づいた。


「おお、ちゃんと飲み込めたね。えらいえらい」

「……殺す気?」

「大げさなー」


 けらけら笑って、日和も自分のどんぶりから真っ赤な麺を持ち上げすする……いや、すすってない。

 レンゲに少量の麺を乗せた後、唐揚げでも食べるような要領でそのままぱくり。


「んぅーーっ」


 目をぎゅっと瞑り、握り締めた左拳をぷるぷると震わせる日和。

 しっかり辛味を感じているようだけど、その表情はどこか幸せそうだった。


 僕と違ってコップに口をつけることなく、そのまま麺をゴクリと飲み込んでから一言。


「美味しい!」

「嘘でしょ」


 キラキラと目を輝かせ次の一口を頬張る日和に、珍獣を見るような視線を贈る。


「辛味しか感じなくない?」 

「辛味の奥に旨みがある感じ! 辛いんだけど美味しくて、クセになるの!」

「なるほど、わからん」


 正直、さっきは辛さしか感じなかった。

 おそらく脳がここまでの刺激を想定していなくて、他の要素を感じる余地すら無かったのだろう。


「アドバイスとしては、麺はすすらず食べるように口に運ぶ、限界だと思ったら卓上のお酢をかけて食べてみる、ってとこかな!」

「それを先に言って欲しかった」


 くつくつと笑う日和はきっと、赤い悪魔の生まれ変わりに違いない。 


「あと、水は飲まないほうがいいかも!」

「そうなの?」

「一瞬楽になるんだけど、逆に辛さが増すんだよねー」

「なるほど」


 確かに、さっき水を飲んだ後の方が辛味度が強かった気がする。


「どれだけテンポよく食べ切るか、それが、赤道ラーメン攻略への道だよ!」


 ぐっと拳を握り力説する日和に、背中を力強く押されているような感覚を抱く。

 もしかすると、案外簡単に食べ切れるんじゃないかと錯覚すら覚えた。


 しかし冷静になって考えてみると、それは普通に錯覚である、気のせいでしかない。


「食べきる自信がない」

「大丈夫! 治くんなら絶対に食べきれるよ!」


 その根拠はどこにあるのか。

 おそらく、どこにも無いのだろう。


 日和はいつだってそうだ。

 でもその根拠のない自信が、できないと思っていた事を可能にしてきたのも事実である。


 腕を組み、黙考と葛藤を繰り返したあと、大きなため息をついて、宣言する。


「……いけるところまで頑張ってみる」

「おっ、いいねえ、その意気!」


 満足げに頷いてから、日和が自分のどんぶりから麺を持ち上げる。

 まるで、私の後に続けと言わんばかりに。


 その動作にいつものような豪快さはない。

 少しずつ、慎重に、麺と具材を口に運んでいる。

 

 見るのは初めてかもしれない、女の子らしいちょびちょびとした仕草。

 小動物を彷彿とさせるその姿はなんというか、とても可愛らしいと思ってしまった。


 って、見惚れている場合ではない。

 

 時間を置くと、麺が辛味成分を吸ってエラいことになる。


 再度、赤い悪魔と対峙する。

 日和の食べ方に倣い、今度は少量の麺をレンゲに乗せて口に運んだ。


 今度はむせなかった。

 凶悪的な辛味は健在だが、一口目で体感していることもあってまだ味を感じる余裕があった。


 まず感じたのは刺すような辛味、次にじわじわと全体に広がる辛味、そしてそれが落ち着いた後……ほのかに味噌と魚介ダシの旨味を感じた。


 ……お?


 飲み込んでから、もう一口。

 辛い、確かに辛い。

 燃えるように辛いんだけども。


「美味いかもしれない」

「えっ、はや! もう?」


 日和が身を乗り出し驚嘆する。

 

「うん、なんか……辛味に味噌や野菜の甘みが合わさって、複雑な旨味を演出してくれてるというか」

「おおおー! 流石治くん、やっぱり私の目に狂いはなかった!」

「初めの一口で舌が狂ったのかもね」


 そのまま二人で、食べ進める。


 真っ赤に染まった麺や具材を口にする度に口内を唐辛子が襲いかかるが、不思議と嫌な感じはしない。

 唇も舌も喉も、燃えるように痛いのになぜか癖になる味わいだった。


 額や背中から汗を吹き出しながらも、一心不乱に麺を掻き込み続ける。

 徐々に理性が飛んできて、ジェットコースターに乗っているかのような高揚感に包まれてきた。


「さっ、ここで味変ターイム」


 暢気な声とともに、日和がどんぶりにお酢を投入し始める。

 カプサイシンに反応してしまったのか、日和の白い額や首筋はほんのりと朱に染まっており、よく見るとじんわりと汗が滲み出ていた。

 その光景に、なんともいえない艶かしさを抱く。


「治くんもお酢、いる?」

「……」

「治くん?」

「あっ……うん、貰うよ」


 危ない。

 理性を飛ばしているからか、妙な部分に意識が行ってしまっていた。


 首を傾げる日和に悟られないよう、気を引き締め直してからお酢を受け取る。

 どんぶりにぐるりと一周させてから食べると、暴力的な辛さから一気にさっぱりとした味わいに変化した。

 

 辛味と酸味と旨味が何重にも重なり合って、唯一無二の味わいを奏でてくれる。


「お酢、美味しい」

「だよねだよね! 私、ラーメン屋とかでお酢があると結構かけちゃう派なんだ」

「普通のラーメンにもかけるの?」

「かけちゃうかなー。なんというか、いろんな味を楽しみたいって感じ! 今度試してみなよ、結構イケるよ?」

「機会があったら、試してみる」


 一口目の地獄は何処へやら。

 他愛のない会話を交わせるくらいには慣れてきた。


 おそらく辛過ぎて痛覚が麻痺しているだけだと思うけど、このうちにさっさと食べ切ってしまおう。


 激辛なのに美味いという人生で初めての感覚を味わいつつ、残りHPが僅かとなった赤い悪魔に対しラストスパートをかけた。

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