第84話 日和のマッサージと後ろからぎゅー


「……美味しい」


 今晩の献立である、ロールキャベツのトマト煮を飲み込んでからお馴染みの感想を呟く。

 しかし、その先に続くいつもの反応は聞こえてこなかった。


 怪訝に思って顔を上げると、微かに眉を寄せた日和の表情が目に入った。


「なんか、元気ない?」


 お茶碗を片手に首を傾げる日和と、胸のあたりをひやりとさせる僕。


「そういう風に見える?」

「んー、なんとなくだけど、いつにも増して覇気がないような?」

「覇気がないのはデフォルトなんだ」

「うん」

「少しくらい逡巡してよ」

「逆にあると思う?」

「無いね」

「ほらー」


 日和がくすくすと笑う。

 僕はそっと肩を落とす。

 

 結論を言うと、日和の観察眼は鋭かった。

 今日の僕は疲労感を強く感じていたし、結果的にそれが覇気の減少に繋がっていたのだろう。


 でも、


「いつも通りだよ」


 平静を務めてそう応えた。


 理由はわからない。

 潜在意識下で諸々を加味した結果、そう返したというくらいしか。


「んー、そう?」


 釈然としない表情を浮かべながらも、日和はそれ以上追求してこなかった。


「このおひたし、美味しい」

「良かった」


 お茶を濁すように副菜の感想を口にする僕に、日和がいつもの反応を示す。


 その声色は、まだ心配そうだった。



 ◇◇◇



「ちょっとここ座って」


 夕食後。

 日和にお馴染みの定位置ではなく、ソファの前に腰掛けるよう指令を受けた。


 正確にいうと、ソファに座る日和の前。

 クッションが敷かれているので、座標に間違いは無さそうだ。


「僕の背後をとって何するつもり?」

「んー、気持ちいこと?」


 小悪魔が絶好の獲物を捉えた時に浮かべるような笑顔。

 

「……」

「ちょっと黙んないでよ恥ずかしい!」

「日和が変なこと言うから」

「深い意味はないって! ちょっとマッサージしてあげようと思って」

「マッサージ?」

「そう」


 にっこり笑って、深く頷く日和。


「というと、あれだよね? 孫が祖母にするやつ」

「どんだけ警戒してるのー」

「ほら、関節外す系のマッサージとかあるじゃん」

「そんな痛いことしない! イメージは、孫がお婆ちゃんにする微笑ましいやつで間違ってないよ」

「なるほど……なんでまた?」


 訊くと、日和はまるで、手のかかる子供を眺めるような笑顔を浮かべて口を開いた。


「治くん、やっぱりちょっとお疲れでしょ?」

「へ」

「わかるよ。毎日見てるから」


 心臓がどきりと高鳴ったのは、一度隠した胸襟を言い当てられたから。

 それ以外にも理由があるような気がしたけど、意識が行く前に日和の言葉が続いた。


「自覚はあるけど、それを言ったら心配かけるんじゃないか、迷惑なんじゃないかって思って、さっき誤魔化したんでしょう?」


 息を飲んだのは多分、図星だったから。

 食事中、僕の潜在意識下で働いていた思考を、日和はわかりやすく言葉にした。


「図星って顔してる」


 再び胸の内を解き明かした日和が、くすりと笑う。

 返す言葉が見つかず、口を一文字に結んでいると、

 

「とりあえずほら、ここ座って」


 クッションを指差されてから、僕は拒否する言葉もためらう言葉も漏らさず、言葉の通りにした。

 僅かに緊張した心持ちで、腰を下ろす。


 すぐ後ろに人の気配、息遣い、衣擦れの音、小さく笑う声。

 微かに甘い匂いが漂ってきて、思わず呼吸を浅くする。


 じんわりと体温が上がってきたのは、背後に人がいるという緊張感からか、それとも。


「ふふっ、いい子いい子」


 子供をあやすような声とともに、頭をぽんぽんされる。


「なんかハマってない?」

「ハマってるかも。撫で心地いいし、照れてる顔が可愛いし」

「顔は見えないはずだけど」

「妄想補完?」

「相当重症だね」


 やりとりしているうちに、両肩に手を置かれる。

 肩に他人の手が触れるという体験は初めてで、一瞬びくりと身体が跳ねてしまった。


「緊張してる?」

「……そうかもしれない」

「かーわいい。ほら、リラックスリラックス」


 肩に局部的な刺激が加わる。

 唐突に始まったマッサージはくすぐったく、思わず身をよじった。


「こらっ、逃げない」


 日和の手によって、すぐ元の体勢に戻される。

 目をぎゅっと瞑って辛抱していると、徐々に慣れてきたのか、くすぐったさが気持ちよさへと変わってきた。


「結構固まってんねー」

「そうなの?」

「うん、岩くらい」

「それは緊急事態」


 今まで一度も揉んでもらったことがなかったから、石化が進んでいるのだろうか。


「大丈夫! すぐにプリンくらい柔らかくしてあげるよ」

「骨、砕け散ってない?」


 服越しに感じる、親指からの圧力。

 ぎゅっ、ぎゅっと一定のリズムで指圧されるたびに、凝り固まっていた筋肉に血流が広がっていく。


 その力加減は絶妙で、身体の緊張が徐々にほぐれていった。


 初めて知る。

 マッサージって、こんなにも、


「……気持ちいい」

「おおっ、良かった!」


 嬉しげな声が弾む。


「意外に、力強いんだね」

「握力測定は平均より上だよ?」

「また懐かしい単語を。女の子の平均だと……25くらい?」

「ううん、男子だから、40くらい!」

「嘘でしょ」


 言ってから、思い出す。

 日和の運動神経の高さが伺えるシチュエーションは、何度かあった。


 主に僕が逃げようとして、取り押さえられる場面で。


 改めて思う。


 成績も優秀で、スポーツも万能な美少女。

 一体、どこのライトノベルから迷い込んできたんだろう。


 そしてそんな美少女に肩を揉んでもらっている僕は、一体何の夢を見ているのだろう。


「というわけで、もっと力入れられるけど、どう?」

「……ちょっとだけお願いできる?」

「あいあいさー、えいっ」

「うおっ」


 肩が跳ねる。


「あ、ごめんっ、痛かった?」

「いや、むしろ気持ちよすぎて」


 まるで、全神経が日和の親指が触れた部分に集中したかのような感覚。

 ジャストなツボに的確な力が加わると、身体が飛び上がるほど気持ち良いものなのか。


「そうなんだ! じゃあ、このくらいの力加減で続けるね」

「ありがとう」


 日和のマッサージは、比較対象がなくてもわかるくらい極上だった。

 

 腕の付け根辺りを揉んでいたかと思えば、肩の上部分をぎゅっと押されたり、肩甲骨のあたりをグリグリされたりと、いろんな部位を様々な方法であん摩された。

 どのマッサージも気持ち良くて、思わず声を漏らしてしまう。


 脳内からセロトニンやオキシトシンといった幸せホルモンがドバドバ溢れ出てきて、思わず意識が飛びそうになった。


 飛びそうになっていたもんだから……日和の体温と柔らかい感触が背中に覆い被さってきた瞬間、一瞬なにが起こったのか理解できなかった。

 後ろから腕を回されて、引き寄せられるように抱き締められてから、温かい、とだけ思った。


 頬先を艶のある髪が撫でる。

 くすぐったい。


 包まれているよな安心感。

 疲弊していた胸のあたりが、じんわりと修復していくような感覚。


「……これも、マッサージの一環?」

「ううん、なんかしたくなっちゃって」


 小さな顎が肩の上にそっと乗せられると、甘い匂いがより強くなる。

 背中に押し付けられた2つの柔らかい感触については、努めて考えないようにした。


 僕も日和もしばらく、何も言わない、何もしない時間を過ごした。


「迷惑とか、思わないからさ」


 何の前触れもなく、どこか懇願するような声が、耳元で響く。


「前にも言ったけど……疲れた時とか、辛いこととかあったら、遠慮なく言ってほしい」


 本心から紡がれたであろう言葉に、微かな罪悪感が生じる。


「ごめん、ちょっとまだ、言いづらかったというか……」

「うん、だと思った」


 棘のかけらも感じられない、優しい声色。


「だったら」


 今度は晴れ間が覗くような声で、日和は言った。


「治くんが自分から甘えてきてくれるまで、私が治くんを甘やかしてあげる」

「……冗談だよね?」

「大真面目だよ?」


 即答されて言葉を詰まらせる僕をよそに、日和は続ける。


「何度も言ってるけど、私は治くんに、たくさん、たーっくさん、いろんなモノを貰ってる。否定はさせないよ? なぜならこれは、私の主観的な気持ちだから」


 まるで、僕を真似たと言わんばかりの言い回し。


 日和の言葉は続く。


「だから私も、治くんにたくさんのモノをあげたい。食べたいものがあったら作ってあげたいし、悩んでいるときは話を聞いてあげたいし、落ち込んでいるときは慰めてあげたい」


 日和の言葉が鼓膜を震わせるたびに、心の中で小さな波紋が生じていく。

 それらの波紋はゆっくりと胸いっぱいに広がっていき、言いようのない多幸感をもたらした。


「というわけで今は、なんだかお疲れの治くんを存分に甘やかしちゃいます」


 弾んだ声で言われて、気づく。


 今まで誰かに「甘えていい」と言われたことは無かった。

 だから疲れた時も、辛いと感じた時も、ずっと一人で処理してきた。


 そういうものだと思ってた。


 でもこうして、「甘えていい」って言われて、ある感情が芽生えた。


 その感情は、僕の口を無意識に動かした。

 

「今日は年明け一発目の出勤日で……感覚も戻ってないし、いろいろと業務も多かったりで……結構疲れた」


 こうして人に弱音を吐くのは、初めてかもしれない。

 自分の意思で、日和に寄りかかる。


「そっか、大変だったね」


 どこか嬉しそうな声。

 抱きしめられたまま、日和の手が僕の頭に伸びてくる。


 そして優しく、撫でられる。


「お仕事、お疲れ様」

 

 その刹那、胸がきゅううっと締まって、目の奥に熱が篭った。


 なにかがせり上がってくる感覚。

 かろうじて残っていた一欠片の理性が、慌てて目を瞬かせた。


 もし理性が残っていなかったらどうなっていたか。

 僕とは縁のない生理現象が連想されて、戸惑う。


 いよいよ本格的に、おかしくなってきたのだろうか。


「……ありがとう」


 いろいろと言いたいこと、言うべき言葉はたくさんあるのに、それしか口にできなかった。


「どういたしまして」


 日和はぎゅうっと、僕を強く抱き締めたあと、再び頭を撫でてくれた。


 もういいよと僕が言うまで、ずっと。

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