第85話 僕から提案
最近、自分がダメになってきている気がする。
日和のマッサージを受けたあの日から、そう思うようになった。
いや、それ以前から薄々感じてはいたことではあるけど、より一層強く確信したという方が正しいか。
もともと日和は甲斐甲斐しい性質ではあったが、最近さらに拍車がかかっている気がする。
毎晩、会社から帰ってくると笑顔で迎えてくれるし、いつの間にかお風呂も溜めてくれているし、夕食は相変わらず絶品だし、食後はなにかと僕を労ってくれるようになった。
それらを流されるままに受け入れる自分を客観視した時……男として完全にダメになるパターンまっしぐらなのではと思い始めた。
それが良いのか悪いのか。
判断がつかないので、拒否することもなく、結果的にされるがままではあるけど……心苦しさはある。
いろいろとして頂いているのはとてもありがたいし、感謝の気持ちでいっぱいだけど、一方的に与えられている状況はなんというか、歯痒いというか。
『僕にいろんなモノを貰ってるから、私もたくさんのモノをあげたい』
日和はそう言っていたが、僕としては何か与えている感じはしない。
感覚的には貰ってばかりなので、自分も何か、と思ってしまう。
だから僕は、こんな事を言ったのだろう。
「なにか、僕にして欲しいことはない?」
食後。
隣に座る日和が、本から顔を上げて僕のほうを見る。
きょとん、という効果音が似合う表情を浮かべた後、日和は珍獣でも目にしたかのように瞳をまん丸くし、
「うえええっ!?」
至近距離で声が炸裂し思わず身を引く。
「そんな驚くこと?」
「いや、だって、治くんからそんなこと、えええっ」
「とりあえず落ち着こうか」
寝耳にサイダーでもぶっかけられたような混乱を見せる日和に説明する。
最近、色々として貰ってばっかりで心苦しいから、僕も何かしたいという旨を。
「んー……と言っても、治くんには充分よくして貰ってるしなあ」
「そうは言うけど、僕には何かをしているという実感がない」
「してるよ、今も、現在進行形で」
「というと?」
尋ねると、日和は口元を柔らかくしてから、その答えを紡いだ。
「私の全部を知った上で、そばにいてくれている」
「……ああ」
言葉の意味を、直感的に噛み砕く。
日和の壮絶な過去のこと、力のこと。
それらを受け入れた上で一緒にいる事を選び、変わらず日常を続けていること自体が、与えて貰っているということ。
だから、何もいらない。
という理屈だろう。
「おおよそ理解した」
「おっ、さっすが」
ぱっと表情に花を咲かせた日和が、小さな手を僕の手に重ねてくる。
「治くんにとっては大したことのない事かもしれない。けど、私にとってはすごく、すーーーっごく……大きな贈り物なの」
言った後、日和はくしゃりとはにかんで、その小さな体躯を寄せてきた。
甘えたがりの子猫みたいに、頭を腕に擦り寄せてくる。
甘ったるい。
頭がくらくらしてきて、そのまま流されそうになるのを理性で律する。
ここは流される所ではない。
しっかりと意思を灯して、口を開く
「それでも僕は、日和に何かしてあげたい」
日和が見上げてくる気配。
その表情は見ないまま、続ける。
「どちらがどれだけ何かをしてあげてるとか、そういうのは関係なく……ただ純粋に、日和が色々してくれていることに対して、僕が満足する形で感謝をしたい」
一気に言ってから、日和の反応を伺い、ぎょっとする。
端正な顔立ちは心底嬉しそうながらも、どこか泣き出してしまいそうだった。
「ご、ごめん、なんか変なこと言った?」
「ううん、違うの」
ふるふると頭を振って、一言だけ、ぽつり。
「嬉しくて」
ぽすんと、小さなおでこが腕に触れる。
まるで表情を隠すように。
その言葉、仕草がとても愛おしく思えてきて気がつくと、自由なほうの手が動いていた。
もはや躊躇いもなく、その小さな頭を撫でる。
何度触れてもびっくりするくらい、さらさらとした感触。
「治くんは本当に、優しすぎるよ、ずるい」
「そんなことは、ない」
「あるよ、あるの、ずるいの、君は」
反論も許されないテンポで重ねられて、押し黙る。
駄々を捏ねる子供みたいに、ずるいずるいと呟く日和を、撫で続ける。
「今週の土曜日、一緒にお出かけしたい」
しばらく撫でていたら、腕に顔を埋めたままの日和から、友達に提案するレベルの言葉が出てきた。
「それが、して欲しいこと?」
額が腕を、上から下になぞる。
「……そんなのでいいの?」
「いいの」
「いつも通りじゃない?」
「いつも通りがいいの」
……まあ、日和がそれがいいと言っているなら。
「わかった。じゃあ土曜日、出かけようか」
「……うんっ」
ばっと顔を上げられる。
うおっ、と手を離し、息を呑む。
そこには、太陽と張り合えるんじゃないかと思うほど輝かしい、満面の笑顔が彩られていた。
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