第77話 日和になでなで


 目を開けると、視界を薄桃色の生地が支配した。

 どうやら寝返りを打ってしまったらしいと、ぼやけた頭で理解する。


 さっきと比べ物にならないくらい甘ったるい匂いが脳髄を直撃して、一気に鼓動が速まった。


「おはよー」


 声につられて上を向いてしまい、後悔する。

 下から眺める日和の胸部はなんというかその……思ったよりも存在感があった。


 顔の温度が、ぐぐんと上昇する。


「20分じゃ足りなかったね」

 

 その言葉から推測するに、どうやら20分以上、寝入ってしまったらしい。

 日和は心底嬉しそうで、微笑ましげな表情を浮かべていた。

 細められた眼差しは慈愛に満ち溢れており、口元は控えめな三日月を描いている。


 旅行からの帰り道、遊び疲れて車の中ですやすやと眠る我が子を眺めているような笑顔だった。


「どれくらい、寝てた?」

「聞いて驚くことなかれ、なんと2時間!」

「全力でごめん」

「わわっ、その体勢で頭下げないでっ」


 指摘されて、自分が日和の太ももに顔を埋めようとしていたことに気づく。

 もし自分に分身能力が備わっているのならば、本体のほうを全力でぶん殴ってやりたい気分になった。


「……ごめん、バグってた」

「寝ぼけ過ぎだよ、もー」


 頬を膨らめるも、ふっと口元を緩める日和。


「でも、可愛いから全部許す」

「やけに甘々だね」

「それくらい可愛いの」

「可愛いって」

「普段はクールぶってる治くんが、私の膝の上でふにゃふにゃになってるなんてもう……可愛くて仕方がないよー」


 へにゃりと、だらしなく表情を崩す日和。

 言われている方は非常に気恥ずかしくて、すぐにこの場から消え入りたくなった。


「もう、起きる」


 言って、退こうするも、頭を「えいっ」と抑えられる。


「……動けないんだけど」

「動けないようにしてるの」

「なぜ」

「もうちょっとだけ、治くんの頭を撫でてたいから」


 また優しく、撫でられる。

 指の腹が地肌と触れ合って、さらさらと音を立てた。


 肺のあたりがむず痒くなってくる。


「そんな楽しいものでもないでしょ」

「楽しいよ、治くんの頭撫でるの。手触り良いし、なんか胸のあたりがぽかぽかするし」

「ぽかぽかって」

「治くん、私が撫でるとすごく気持ちよさそうにするの。それ見てると、なんだか満たされてる感じがするというか」

 

 その感覚は、わからないでもなかった。

 自分も日和を撫でてる時、似たような感覚を持っている覚えがあるから。


「母性が強いのかな、私?」


 また唐突に妙なことを。

 とはいえ、冷静に噛み砕くと的確な表現かもしれないと思った。

 

「僕の個人的な感覚では、強いんじゃないかな」

「ほんと? やった」

 

 嬉しそうに身体を揺らす日和。

 僕の頭も一緒に揺れる。


「酔う」

「ああっ、ごめんねごめんね」


 全然悪びれた様子なく、わしゃわしゃと頭を撫でてくる日和。


「僕を犬かなにかだと勘違いしてない?」

「あっ、言われてみれば犬っぽいかも」

「断固として人間であることを主張する」

「ふっふっふ。人間め、私の母性に溺れるが良い」

「楽しそうでなによりだよ」

「おかげさまで、すっごく楽しいよ」


 ふわりと、柔らかい笑顔が浮かぶ。

 無邪気であどけなくて、朗らかな面持ち。


 日和の美貌で彩られたその表情を、この状況で直視するのは非常に良くなかった。


 息が詰まるような感じがして、思わず背を向ける。


 後ろで日和が、くすりと笑う気配がした。

 

 

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