第76話 日和の膝枕


「今年も終わりか……」


 駅を出て、いつもの帰路を歩みながら呟く。


 世間の移り気というものは早いもので、あんなにクリスマスムード一色だった街も、すでに正月の気配が漂っていた。

 スーパーの店頭には鏡餅やおせちの材料が並ぶようになったし、近所の玄関には気の早いしめ縄が飾られるようになっている。


 ちらほら残るイルミネーションだけが、聖夜があったという事実を主張していた。


「さむ……」


 凍えるような冷気に思わず身震いする。

 

 12月27日の月曜日。

 今日は、今年最後の出勤日だった。


 長いようで短い一年だったと、鋼色に染まった空を見上げながら感慨に耽る。

 風邪をひいてしまわないよう、自宅のマンションへと足早に急いだ。

 

「おかえりー!」


 帰宅すると、胃袋を刺激する匂いとともに、私服にエプロンを着た日和が出迎えてくれた。 


 思わず、固まってしまう。


「どうしたの? そんな呆けた顔して」

「あ、いや……なんでもない」

「へんなの」

 

 日和がくすりと笑う。


 合鍵を渡して数日経つが、家に帰ったら誰かが迎えてくれるという感覚には未だに慣れない。

 むず痒い感慨に耽りつつ、コートを脱ぐ。


「あっ、今日それ、着てくれてたんだ」


 コートの下から姿を現した厚手のセータを見て、日和が声を弾ませる。


「すごく温かいから、気に入ってる」

「ふふっ、ありがと。プレゼントしてよかった」


 言って、日和は夏の空みたいな笑顔を浮かべた。


 二言三言交わしてから、僕はリビングへ。

 着替えを引っ張り出してきて、キッチンで何やら煮込んでいる日和に声をかけた。


「シャワー浴びてくる」

「いってらー。あっ、お風呂溜めておいたよ」

「え」

「寒いし、その方がいいかなって。あ、もしかして、断固たるシャワー派だった?」

「いや……単純に溜めるの面倒だから、成り行きのシャワー派」

「だと思った! ダメじゃない、寒いんだからしっかり身体温めないと」

「シャワーでもそこそこ温まる」

「とか言って、風邪こじらせた人はどこの誰かな?」

「それを言われると何も返せない」


 可笑しそうに笑った後、日和は女神みたいに微笑んだ。


「というわけで、大人しくほかほかしてきなさい」

「ああ、うん……ありがとう」

「どういたしまして。あ、それと今日の夕飯、めっちゃくちゃ時間かけた自信作だから、楽しみにしてて!」

「はやる気持ちが抑えられなくてカラスの行水になりそう」

「だめー! まだ時間かかるから、ゆっくりしてくるの!」


 脱衣所に押し込まれる。


 お湯に浸かるのは、この前の箱根温泉以来。

 この部屋の湯船を最後に使ったのは、いつだろう。


 お風呂の心地よさを久々に堪能する。

 日和の言いつけを遵守して、しっかり身体を温めた。


 お風呂を出てリビングに戻ると、日和がテーブルに夕飯をセッティングしているところだった。


 真ん中に置かれた大鍋の中に、見たことのない料理がぐつぐつと音を立てている。


「なんか、すごいのが鎮座してる」

「スペアリブの赤ワイン煮込みだよ!」

「名前からして美味しそう感半端ない」

「ふっふー、なんたって4時間かけた力作だからね!」

「昼から煮込んでたの?」

「うん! だから、すっごく柔らかくなってると思う」

「それは楽しみ」


 膨らむ期待と共に、二人で手を合わせる。


「骨は取ってあるから、そのまま食べられるよ」


 ありがたい気遣いに感謝しつつ、鍋からスペアリブをよそう。


 ほかほかと漂う甘い香りと、ぷるんと身を揺らす脂身。

 もうビジュアルからして美味しそうな肉の塊に齧り付く。


 瞬間、赤ワインの風味がぶわっと漂ってきた。

 そのまま歯を立てると、抵抗もなくほろりと崩れたスペアリブから、醤油と脂の甘みがじゅわりと広がる。


 思わず目を閉じ、天を仰いでしまった。

 口の中で、豚の旨味や玉ねぎの甘み、にんにくの風味などが複雑に絡み合って、唯一無二の味を演出してくれている。

 

 日和が宣言した通りこれは、なんというかもう、


「とんでもなく美味しい」

「よかった!」


 それから、箸が止まることはなかった。

 

 何かに取り憑かれたように、無心でスペアリブを頬張った。


 ご飯は一回、お代わりした。

 日和は三回お代わりしていた。

 毎度のごとく、ブラックホールについて考えた。


 食べ終えて、食器も洗って、リビングに戻って来ると、日和はソファの端っこに腰掛けていた。


「おかえり〜」

「ただいま……なんでそんな端に座ってるの」

「なにって、見ての通りだよ」


 ぽんぽんと、日和が自分の太ももを叩いてにこにこしている。


「いや、わからん」

「わかってよ、言うの恥ずかしいんだから」


 黙考すると、なんとなく察しがついた。


「これ、外れていたら笑い飛ばして記憶から消して欲しいんだけど」


 壮大な予防線を張ってから、口にする。


「膝枕?」

「せーいかい」

「なぜ?」


 尋ねると、日和はほんのり頬を赤らめた。

 「あー、えっとねー」と、視線をうろうろさせ、頬をぽりぽりしながら口を開く。


「私も、治くんを甘やかしたいというか」


 甘やかしたい。

 甘やかしたい。


「余計、なぜ?」

「治くんにはいつも、良くして貰ってばっかだからさ。私も、治くんに何かしてあげたい」


 ……ああ、なるほど。


「充分、色々してもらっていると思うんだけど」

「それくらいじゃ全然足りないの」


 即答されて、押し黙る。

 足りてるか足りてないかは、受け手側の主観評価に依るものなので、僕が判断を下せる領域ではない。


「あと今日、今年最後のお仕事だったんでしょ?」

「まあ、そうだね」

「今年、お仕事たくさん頑張った分、癒してあげたいの。……だめ、かな?」


 僕は以前、箱根で日和に膝枕の提案をされた時のことを思い起こした。

 あの時は、そんな間柄でもないだろうと提案を断った。


 今は、どうだろうか?


 答えは、次の行動が全てである。


 後ろ手に頭を掻きながら、日和の隣に腰掛けた。

 身体が浮つくような緊張感と共に、身体を倒す。

 

「……お邪魔、します」

「ふふっ、ようこそー」


 誘惑に負けたと言われれば、そうかもしれない。

 美少女の膝枕という、いわゆる男の夢が詰まった提案に抗えない欲求の奔流を感じた。


 恐る恐る横になって、日和の太ももに頭に乗せる。

 お腹のほうを向くのはなんとなく躊躇われたので、反対向きに。


 上は努めて見ないようにした。


 日和の細い太ももは程よく弾力がありつつも、マシュマロみたいな柔らかさがあった。 

 布越しに伝わって来る体温はじんわりと温かく、柔軟剤と日和本来の匂いが合わさって嗅覚が甘ったるくなる。


 それらの情報を処理できるキャパを持っているはずもなく、案の定、激しい緊張が身体を襲った。


「そんな緊張しなくていいのにー」

「……わかるんだ」

「そりゃあもちろん。でも、これはこれで可愛いいからよし」


 くすくすと、頭上から笑う声。

 可愛い、と言われて妙に動揺してしまった事は、なるべく考えないようにする。


「ほら、力抜いて」


 柔らかい声と共に、頭に掌を乗せられる。


 そのまま優しく、撫でられた。


 細い指の腹がさらさらと音を立てて、髪を梳く。


 女の子の膝の上で頭を撫でられるという感覚。

 それは、今まで感じたことのないくらい心地よくて、さっきまでの緊張が嘘のように解れていった。


 自分が撫でている時、日和がなぜあんなにもとろんとした表情を浮かべているのか、なんとなく理解した。

 

「治くん、ほっぺすごい緩んでる」


 嬉しそうな声。


「……なんか、気持ちよくて」

「ふふっ、かーわいい」


 さらに、嬉しそうな声。


 しばらくそのまま、日和の掌に身を任せた。

 暖房の音と、時計が秒針を刻む音と、髪を梳く音が、ゆったりと流れる。


 なんだか思考がふわふわしてきた。

 まだ夜も浅い時間のはずなのに、徐々に眠気がやってくる。


 ほんわりと心地の良い感覚の中、だんだんと瞼が落ちてきたその時、


「お仕事、お疲れ様」


 不意に、労いの言葉をかけられる。

 なぜだか胸が、きゅうっと締まった。


 なんだ、今の。

 

「……うん、ありがとう」

「あや、珍しく素直だね」

「そんな気分の時もある」

「そっかそっか」


 手が止まる。

 考え込むような気配。


「疲れた時とか、辛いこととかあったら、遠慮なく言ってね」


 頭をぽんぽんされる。


「でも、迷惑じゃ」

「全然迷惑じゃないよー。むしろ言ってくれた方が、私としては嬉しいな」 


 どう反応していいか、わからなかった。


 今まで誰かに、こんな形で労られたこと、なかったから。

 疲れた時も、辛いと感じた時も、全部全部、一人で処理してきたから。


「……なるべく、言うようにする」

「ふふっ、よろしい」


 満足げな声と共に、撫で撫でが再開する。

 もはや言葉を発するのも億劫なくらい、眠気に支配されつつあった。


「寝ていいよ」


 僕に忍び寄る睡魔を感じ取ったのか、日和が慈しむような口調で言う。


「でも」

「いいから。私のことは、気にしないで」

「……じゃあ、20分だけ」

「うん、いいよ。というか、前も20分だったね」

「一番最適な仮眠時間が、20分って言われてる」

「ほえー、そうなんだ」

「たぶん、時間通りに起きると思うけど、もし20分過ぎても目覚めなかったら、起こして欲しい」

「うん、わかった」


 了承の意を聞けて、安堵と共に目を閉じる。

 睡眠に入る感覚としては、今までにないくらいの穏やかさだった。


 日和に頭を撫でられながら、そのまま眠りへと落ちていった。

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