第66話 ひより


 気がつくと、雨は止んでいた。

 すすり泣く声も、いつの間にか収まっていた


 もう、大丈夫だろうか。

 

 回していた腕を解こうとする。

 しかし、それは許されなかった。


 ぎゅっと、彼女の腕に力が篭った。

 まだ離さないで、とでも言うように。


「……」


 腕に力を入れ直す。

 

 服越しに伝わってくる体温を感じながら、またしばらく彼女を抱きしめた。

 時計の秒針が刻まれる音が、彼女の心音と重なり合って鼓膜を震わせる。

 

 不思議と、僕の心は平穏を保っていた。

 今まで感じたことのない、包まれているような安心感。

 どこかの本に書かれていた、ハグをするとリラックス効果が出て落ち着くという法則は本当なのかもしれない。


「……もう、大丈夫」


 小さな呟きが、合図だった。

 背中に回されていた腕が緩む。


 僕も彼女を解放した。

 風通しが良くなって、熱くなった身体を心地よい空気が撫でる。


「……」

「……」


 気まずい。

 目を真っ赤に腫らした彼女に、どんな言葉をかければ良いのか思い悩む。

 

 とりあえず……謝罪だろうか。


「望月君ってさ」


 頭を下げる準備をしていると、先に彼女が静寂を破った。

 わずかに唇を尖らせた彼女が、頬を赤らめて言う。


「たまに、すっごく大胆なことするよね」

 

 顔の下半分をぬいぐるみに埋め、恥じらうような視線を投げかけてくる彼女。

 その仕草に、心臓がとくんと弾む。


「……ごめん、どうかしてた」


 事実だ。

 疚しい気持ちなど欠片も無かった。

 正体不明の感情に突き動かされるまま、身体がひとりでに動いていた。


 という趣旨のことを、背中にびっしり汗をかきながら説明する。

 彼女はくすりと、可笑しそうに笑った。


「怒ってなんかないよ。ただちょっと、びっくりしただけ。頭撫でてくれたのも、抱きしめてくれたのも……すごく、嬉しかった」


 彼女の口元が、嬉しげに緩んでいる。

 抱きしめている時に感じた、彼女の体温や息遣いが思い起こされて、顔が熱くなった。


「さっきの言葉、本当?」


 彼女が尋ねてくる。

 さっきの言葉、に対する見当はおおよそついていたので、改めて言う。


「本当だよ。他にどんな事情があろうと、僕は受け入れる所存で……むしろ他に抱えている事とかあったら、言って欲しい。根本的な問題解決とかはできないかもしれないけど……話するだけでも、少しは楽になると思うし」


 動揺していて、さっきまでの整理整頓された口調とは一転、おぼつかない調子で言葉を並べる。


 でもこの一言だけは、彼女の瞳を真っ直ぐ捉えて、言った。


「僕に出来ることは限られてるけど、それでもいいなら、頼って欲しい」


 言った途端、彼女は身体をもじらせ、目だけで僕を見上げてきた。


「それは、望月くんに甘えてもいい、ってこと?」


 甘えるって、そういう意味だっけ。 

 ちょっとニュアンスが違うような気もするが、遠い意味でも無いだろう。


「いいよ」


 短く返すと、彼女はくしゃりと表情をほころばせて「そっか」と呟いた。


 そして、ちらちらと視線をこちらに向けてくる。

 まるで、なにかを期待するような表情。


「じゃあ、さ……」


 ぬいぐるみを脇に置き、恥じらうような表情を浮かべた彼女が、改まって言う。


「……もう少しだけ、撫でて、欲しい」


 美少女に潤んだ瞳を上目気味に向けられ、頭を撫でて欲しいとお願いされる。

 その破壊力は計り知れず、僕の心臓を大きく跳ね上がらせた。


 とはいえ、ここで動揺してはいけない。

 彼女の願いに疚しさや如何わしさなどは含まれておらず、ただ単純に……癒しを求めているのだろう。

 おそらく彼女は今まで、誰にも甘えることができなかったのだから。


 頼って欲しいと言った手前、その願いを無下にするわけにはいかない。

 僕は何も言わず、彼女の言われるがままにした。

 

 さっきよりもぎこちない動作で、彼女の頭に手を乗せる。


 柔らかい。

 砂丘の砂のようにサラサラしてる。


 そのままゆっくり撫でると、彼女はふにゃりと表情を緩ませた。

 普段の彼女だったら絶対に見せない、無警戒で、あどけなくて、油断しきった表情。


 なんだ、この可愛い生き物は。


 呼吸が止まりそうになりながら、しばらく撫で続ける。


 手のひらと髪とが擦れ合う音。

 桃色っぽさのある甘い匂い。


 刺激的な五感情報により身体の筋肉が硬直し、僕は手だけ動くロボットと化した。


 その時、意図せず手のひらが彼女の耳に触れてしまう。


「んぅっ……」


 びくりと、彼女の身体が震えた。

 柔らかそうな唇から艶っぽい声が漏れて、思わず手を引いてしまう。

 

 なんだ、さっきの声。


 冷や汗が吹き出る。

 押してはいけないボタンをプッシュしてしまったような焦りが生じた。


「……もう、おしまい?」


 ふにょんとした声が、寂しげに響く。

 とろんとした瞳で、彼女が名残惜しげに見上げてきた


「ごめん、ちょっと持たない」


 物欲しげな表情に、許しを乞う。

 このまま続けていると、こっちが疚しい気持ちになってしまいそうだった。

 

「言ってくれれば、頭撫でるくらい、いつでもするから……とりあえず、今日のところは」


 どもりながら言うと、彼女は表情を生クリームみたいに甘く、柔らかいものにした。

 微笑ましいものを見るような、優しい笑み。 


「じゃあ、約束」

「へ?」

「なんでも一つ、私のお願いを聞くっていう約束、覚えてるよね?」


 ぎこちなく頷く。

 まさかこのタイミングで出さられるとは思ってなくて、呆けてしまう。


「なでなでは許してあげるから……お願い、聞いて欲しいな」

「……今?」

「今がいい」

 

 また、上目遣い。

 断るという選択肢は浮かぶ気配すらなかった。

 

「どんなお願い?」


 身構えながら、尋ねる。

 彼女はちょっぴり照れくさそうにして、小さく呟いた。


「……名前」


 かろうじて聞き取れるくらいの声量。


「私のこと、名前で呼んで欲しい」


 今度ははっきりと、耳にした。


「名前?」


 オウム返しすると、彼女は不満げに唇を尖らせて言う。


「望月くん、私を名前で呼んでくれた事、一度も無いよね? ずーっと『君』って」

「……ああ」


 言われてみれば、確かにそうかもしれない。

 思えばそれは、彼女に限った話でもなかった。


「ゆーみんのことも「親友さん」って呼んでるよね? 頑なに名前で呼ばないの、なにか理由でもあるの?」

「えーと……」


 どうしてだろう。

 訊かれて初めて、それに対する論理的な解を持ち合わせていないことに気づく。


 ただ僕の性質上、理由づけるとしたらこんな感じだろうか。


「他人を名前で呼ぶ必要性を、あまり感じなくて」

「必要ありありだよー。名前で呼び合うのは、仲良しになるための第一歩なんだから」


 子供をめっと叱るように、ピンと人差し指を立てて言う彼女。


「交友を深めるための最低条件ってこと?」

「そゆこと」


 高校、大学時代を思い返す。

 思い返せば確かに、仲の良い者同士は下の名前で呼びあっていた。

 僕には仲の良い者はおろか、言葉を交わす知り合いもいなかったので気にも留めていなかった。


 世間一般的な通説では、おそらく彼女の言うことが正しいのだろうと、ひとり納得していると、


「名前、呼んでくれる?」


 じっと、彼女が覗き込んできた。

 その瞳には大きな期待と、僅かな不安が混じり合っているように伺えた。


 彼女のお願いを拒否する理屈も理由も道理も存在しなかった。


 にも関わらず、躊躇う。

 彼女の名を口にすることに、尻込みする。


 100年閉ざされていた引き出を開けるみたいに、重い口を、持ち上げる。


「……有村」

「な、ま、え」


 ぷくーと頬を膨らませ、彼女が視線に力を込める。

 この点に関しては、妥協を許してくれないらしい。


 頭を掻き、深い呼吸をしたあと、名字よりも長い時間をかけてその名を口にした。


「日和(ひより)」


 彼女の──日和の表情が、ぱあっと明るくなる。

 その様子はまるで、大地いっぱいのひまわりが陽光を受けて輝いてるようで、


「なあに、治(おさむ)くん」


 嬉しみが溢れんばかりの笑顔と共に、日和が、僕の名を口にする。


 その事に、僕はひどく動揺した。


 他者に自分を存在として認められた感覚、というものなのだろうか。


 頭の中、彼女の声で、自分の名前が反芻される。

 その感覚はむず痒くも、冬の帰り道で買ったホットコーヒーような温もりがあった。


 気づく。

 必要性を感じてなかったというのは多分、建前だ。

 実際のところは単に……他人を自分の近しい人間として受け入れることに、抵抗があったんだと思う。


 言い換えると、人の名前を呼ぶのが気恥ずかしかったのだ。

 じゃないと、目の前の女の子を表す3文字のひらがなを口にしただけで、こんなにも顔が熱くなる説明がつかない。


 本質にたどり着き息を呑み込む僕をよそに、日和は緩みきった表情を浮かべ、両手で頬をむにむにしていた。

 身体を左右に揺らし、足をぱたぱた。


 そんなに、嬉しかったのだろうか。


 やがてこちらに向き直った彼女が、僕に対する諸々の感情を、たった一つの言葉に包み込む。


「ありがとう」

 

 かすかに潤んだ双眸はまるで、キラキラと輝く宝石のよう。


 思わず息を呑んだ。

 日和の表情を直視してしまったことを、後悔した。


 穏やかで温かくて、思わず抱きしめたくなるような笑顔。


 こんなの、恋愛的に好きとか関係なく意識してしまう。

 それほどまでに日和は可憐で、美しい少女だということを強制的に認識させられた。


 その理性の緩みが、僕にらしくない言葉を口にさせた。

 

「やっぱり……笑顔の方が似合ってる」

「……ふぇっ?」


 日和の表情が、固まる。

 透き通るような白い肌が、かああっと赤らんでいく。

 その瞬間、僕は自分がとんでもない爆弾発言を投下したことに気づいた。


「や、違う。今のなし」


 言ったところで、日和の鼓膜を震わせてしまってからではもう遅い。


 取り消しのジェスチャーをするため咄嗟に差し出した手のひら。

 その手首が、ガシッと掴まれる

 猛獣に捕獲されたチワワのような心持ちで、表情を伺う。


 日和は、頬を朱に染めふくれっ面をしていた。


「だからなんで、君は、そうやって、いきなり不意打ちしてくるかな」


 仰る意味は、よくわからなかった。

 前にも何度か同じようなやり取りがあった気がするが、解は結局導き出されていない。


 ひとまず僕は、このシチュエーションにおいて唯一無二の効力を発揮する言葉を口にしておく。


「……ごめん」

「許しません。君は本当に、本当にもー」


 ぽかりと可愛らしい効果音と共に胸を小突かれるも、怒っているわけではなさそうだった。

 口元は緩みに緩み切っているし、身体もゆらゆらと揺れている。

 日和にもし尻尾が生えていたのなら、ぶんぶんと勢いよく振り回していることだろう。


「どうすれば、許してくれる?」


 とりあえず、日和の気の済むようにしてあげようと、尋ねる。


 日和は間髪入れず「んっ」と両腕を広げてきた。

 にんまりと、屈託のない笑顔を浮かべて。

 

「さっきよりハードル高くない?」

「下潜ればいいじゃん」

「絶妙に下も潜れない高さなんだよね」


 やろうと思えば……出来なくはない。

 あとは理性を強く持てるかどうかの問題だ。


「じゃあ、しよ?」


 ……。

 日和に身を寄せ、無言で腕を回す。

 自分でも驚くほど落ち着いた動作だった。

 

 ひゃあーと大仰なリアクションを取って、日和はそのまま僕の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き寄せてきた。


 再び体温、吐息、甘い匂い、嗚咽は無い。

 日和の繊細な髪先が鼻をくすぐる。

 ぬいぐるみ不在のため、胸部に卒倒してしまいそうなほどの柔らかさを感じたが、意識しないようにした。

 

 さっきとは違う、両者が納得した上での抱擁。

 とても静かで落ち着きがあって、今まで感じたことのない多幸感が身を包む。

 ふっと力が抜けて、日和の肩に顎を乗せると、ペースの速い心音が聞こえてきた。


 誰の鼓動だろう。

 

「ありがとうね、治くん」


 耳元で、声。


「明日には、いつも通りに戻るから」


 再び、声。


「別にいつも通りとか、意識しなくていい。君は君の素でいればいい、と思う」

「……いいの?」

「いいも何も、その方が僕としては助かる」


 素じゃないと、わからないから。

 人の裏を読めない僕としては、ずっと表でいて欲しい。


 という意図の発言を、日和がどう捉えたのかは知らない。


「わかった。そうする」


 弾んだ声と共に、ぎゅうっと抱き締め返される。


 甘えるように、縋り付くように。

 

 日和の気の済むまで、僕はその小さな身体を抱きしめ続けた。


 傍に控えるぬいぐるみが、その様子を微笑ましげに眺めているような気がした。

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