第67話 日和との距離


 一夜明けて土曜日。

 

 この日、僕は昼過ぎまで眠りこけていた。

 そのまま放っておいたら夕方まで寝入っていた説もあったが、無遠慮なインターホンがそれを阻止した。


「やっ、昨日ぶり」


 訪問者は彼女……じゃない、日和。

 日和は今日の天気くらい晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 

「……なんか早くない?」


 普段の土日なら、日和は夕食ちょい前どきにやってくる。


「やー、今日予定なくてさ。治くんが良ければ、一緒にいたいなーって」


 ちらちらと、伺うような上目遣い。

 僕の今日の予定は普段通り真っ白なので、二つ返事で部屋に招き入れた。


 日和は異様に嬉しそうにした。


「おっじゃまー」


 普段通りのテンションで、軽快なステップを踏む日和。

 昨日のことは引きずっていないのか、努めてそう振る舞っているのかは定かではないが、ひとまず安堵する。

 

 あまりにもいつも通りなもんだから、まるで昨日の出来事だけ記憶がすっぽり抜け落ちているみたいだった。


 そんなわけがなかった。


「意外だったなー」


 すぐ隣から、鈴を転がすような声がする。


「……なにが」

「まさか治くんに、あんなにも男らしさが詰まってるなんて思いもしなかったよ。実はプレイボーイだったりしない?」


 日和がそんな事を切り出してきたのは、文字通り部屋でまったりしていた時だ。

 その言葉の意味するところは、僕が昨晩見せた、どうかしてたとしか思えない行動の数々だろう。

 

「……しないよ」

「そっかー」


 言って、日和は僕の右肩にこてりと頭を乗せた。

 

 ……。

 …………。


 うん、おかしいよね、絶対。


「あのさ……」

「んぅ?」

「なんか近くない?」

「近づいてるの」


 なんでもない風に言われて「……ああ、そうなの」としか返せなかった。


 いや、そうなの、じゃないよ。

 

 思い返す。


 まったりタイムの定位置は、僕が座椅子で日和がソファという感じで、なんとなく決まっていた。


 無言の協定を今日、日和が破棄した。


 漫画でも読むかと座椅子に腰掛けようとしたら、日和がぽんぽんと、ソファを叩いた。

 「ここ座って」のジェスチャー。


 なにか話でもあるのだろうかと、身構えながら日和の隣に腰を下ろす。

 日和は満足げに頷いた後、上機嫌な鼻唄を奏でながら本を読み始めた。

 

 「華々しき鼻血ぶー」

 僕が先日貸した至高の一冊。

 って、そんなことはどうでもいい。


 日和はただ単に、僕を隣に座らせただけだった。


 腕と腕が触れ合うくらいの至近距離に、日和がいる。


 熱い体温、甘い匂い、さらさらとした手触り、速い心音。

 昨晩抱きしめた時の感覚が思い起こされて、寝起きにも関わらず鼓動の振れ幅が大きくなり始めた。


 ……実は、落ち込んでいるのだろうか。


 母親とのやりとりや、僕に諸々を明かした事もあって、少しばかりセンチな気分になっているのかもしれない。

 表情も会話のテンションもいつも通りだが、やはり気丈に振る舞っているだけかもしれない。


 もしそうだとしたら、今ここで僕が取るべき行動は、日和のメンタルが回復するまでそばにいてあげる事だろう。


 気分が落ち込んでいるときは、誰かがそばにいてくれるだけで精神的に安らぐ、という理論はどこかの本で読んだ。

 理性を強く持ち、しばらくそのままでいることにした。


 回想終了。

 

 とはいえ、なんか違う気がしてきていた。

 すりすりと身を寄せてくる日和の様子はセンチな気持ちを癒しているというより、ただ甘えてきているといった様子だった。

 

 どっちなのだろう。

 その真意を確かめる術も気概もなく、気がつくと夕方になっていた。


 今日は休日なので、外食の日。

 どっか美味しいお店あったかなとスマホを取り出そうとすると、日和が元気よく提案してきた。


「今晩は私がご馳走したい!」

「えっ……今日、土曜日じゃ」

「昨日、作ってあげられなかったから、その分ってことで」

 

 昨日はあの後、日和が何か簡単なものでも作ると申し出たが、流石にゆっくり休んだほうがいいと思って断った。


「別に、気にしなくていいのに」

「気にしてないよ? 私が作りたい気分なの……だめ?」


 気分ならまあ……仕方がないか。

 さらに上目遣い気味に尋ねられて断れるわけがない。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」

「やたっ、任せて!」

 

 というわけで、今晩はご相伴に預かることになった。

 日和の作る料理の味は折り紙つきなので、今日は何を作ってくれるんだろうと自然に気分が高揚した。


 

◇◇◇



「いただきます!!」


 威勢の良い掛け声の後に続けなかったのは、今晩の献立を目の前にして呆けてしまったからだ。


 ハンバーグオムライス。


 トロトロ卵のオムライスに、こんがり焼き上がった肉厚のハンバーグ。

 その上から、濃厚なデミグラスソースがたっぷりかけられている。

 

 僕の好きな食べ物一番手であるハンバーグと、二番手のオムライスが組み合わさった悪魔の料理だった。


「……いただきます」


 遅れて手を合わせる。

 肉肉しい香りで胃袋を刺激しながら、一口頬張った。


 ──その瞬間、全身のすべての動作が静止する。

 

 なんだ、これ。

 咀嚼し、飲み込んで、ようやく言葉を発した。


「美味しすぎる」


 すぐ次の一口に手が伸びた。


 玉ねぎの甘みと肉の旨味がダイレクトに伝わってきて、噛めば噛むほど肉汁がじゅわーっと広がるハンバーグ。

 濃いめのケチャップライスと、バターの風味が香る半熟卵とのバランスが絶妙なオムライス。


 その二人が手を組んだ時、訪れるのは至福のひととき。

 楽園はここにあったかとよくわからない思考が開拓されてしまうほど、美味だった。


 貪るようにバーグオムライスを頬張っていると、対面からくすりと小さな笑い声が聞こえてきた。

 

「治くん、子供みたい」

「ハンバーグとオムライスの前では、誰だって子供になる」

「お、じゃあ今は私の方が年上か。ちゃんと敬うんだぞ」

「き……日和は」

「あーっ今、君って言おうとしたでしょ」


 日和が指差してきて、子供を叱るみたいに言う。


「……慣れるまで、気長に待ってくれると助かる」


 言うと、日和は頬を膨らませながらも徐々に表情を和らげていった。


「もー、仕方がないなあ、治くんは」


 やれやれと肩を竦めつつ、微笑ましげな笑みを浮かべる。


「それにしてもこれ、本当に美味しいな」

「ほんとに!?」

「うん。多分、今まで食べてきた中で一番好き」

「ふっふっふ。なにせ治くんの大好物のダブルパンチだからね」

「僕の好物、把握してたの?」

「そりゃあもちろん。これ作るなら今日しかないなーって」

「今日しか?」


 僕が首をかしげると、日和は口元を柔らかくし、はにかみながら言った。


「昨日のお礼、したくてさ」


 ……ああ、なるほど。

 気分的に作りたいと日和は言ったが、別の趣旨も含まれていたらしい。


「気、遣わなくていいのに」

「遣ってないよー。単に私が、治くんにお礼したかったの」


 そう言って日和は、慈しむような、愛情を注ぐような笑みを浮かべた。

 朗らかで愛おしいその笑顔に、スプーンを落としそうになる。


「……そう、なんだ」


 それだけ返して、動揺を隠すように食を再開させる。

 

 美味しい。


「でも本当に、美味しそうに食べるよねー治くん」


 しばらく食べ進めていたら、日和がニコニコと見つめてきて言った。


「事実、美味しいからじゃない?」

「ふふっ、ありがと。本当に作り甲斐があるなーー」

「そんなにわかりやすい?」

「うん、すっごく」


 そうなのか。

 以前も同じやりとりをした気がするが、改めて言われても妙に実感がない。


「治くん、前より表情豊かになったよね?」


 日和が違う角度の言葉を投げかけてきて、首をかしげる。


「そう?」


 うんうんと、首を勢い良く縦に振る日和。

 こっちもあまり実感がなかったが、思い当たる節はあった。


「まあ、表情の変化が激しい人と一緒にいたら、多少は影響があるのかもしれない」

「えへへっ、やった」


 ぎゅっと拳を握る日和。

 子供のように純粋で、あどけない笑顔。


 可愛い、と喉のところまで出かかって、慌てて引っ込めた。

 昨日の惨劇を再び繰り返すわけにはいかない。


 最近、ふと浮かんだ言葉がポロリと溢れるようなってるので、注意しなければ。


 気を引き締める。


「どしたの? そんな固い顔して」

「理性の兜の緒を締めていただけだよ」

「あ、そうなの。意味わかんない」

 

 日和が手を当てて笑う。

 今まで幾度となく目にしてきた、屈託のない笑顔で。


 ──やっぱり、笑った顔の方が可愛いな。


 ふっと湧き出た感想を、今度は外に出さず、自分の胸の中だけにそっと仕舞い込む。


 残り僅かになったオムライスを、そのまま一緒に掻き込んだ。

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