第65話 彼女の事情
家に戻ろうという彼女の提案はてっきり、一旦それぞれ自分の部屋に帰ろうという意味合いだと思っていたが、違った。
気がつくと僕は、彼女の部屋に身を置いていた。
自分から入室を申し出たわけではない事を、僕の名誉にかけて断じたい。
ほんの10分前のことを思い返す。
雨の中公園から帰って来て、いったん部屋の前で別れようとした。
彼女は身体を濡らしているし、僕も仕事のリュックを背負ったままだったから。
にも関わらず、彼女が手を離さなかった。
「一緒に、いてほしい」
普段なら、倫理的な観点からそれはまずいと説得を試みただろう。
しかし、彼女の、今にも消え入りそうなもの悲しげな顔に、僕は承諾以外の選択肢を見失ってしまう。
そこからは為すがままに、彼女の部屋にお邪魔する運びとなった。
回想終了。
左の窓の外からは雨音、右の壁の向こうからはシャワーの音。
自然と人工の水音に挟まれた僕は、リビングのソファで置物と化していた。
かすかに漂う甘い匂いや、右耳の鼓膜を叩く水音には意識を向けないようにして、周囲を見渡す。
初めて迎え入れられた女の子の部屋は、僕の部屋よりもずっと広かった。
空き部屋もあるし、リビングも僕の部屋のそれよりふた回りほど大きい。
てっきり自分の部屋と間取りは同じだと思っていたから、驚いた。
ここはおそらく、世帯向けに造られた部屋だ。
女子高生である彼女がなぜ、こんなただっ広い部屋に一人暮らしをしているのか。
疑問が疑問を呼んだが、回答者はあいにく清めの最中である。
ああ見えて意外と几帳面な彼女の性格が反映されているらしく、部屋は全体的にきちんと整頓されている印象を受けた。
誰かの部屋のように、床に本など放置されていない。
テレビにソファ、机、パソコンデスク、冷蔵庫、本棚。
オーソドックスな家財一式に所々、可愛げのある小物があしらわれている。
視線を漂わせていると、テレビの横の写真立てが視界に入った。
写真には、山の背景をバックに三人の男女。
真ん中には、小学生くらいの女の子が写っていた。
直感的にその女の子が彼女であることを理解する。
幼き彼女は、両脇に立つ大人の男女と手を繋いで満面の笑みを浮かべていた。
女性の方には、見覚えがあった。
つい一時間前、彼女と会話を交わし、タクシーで走り去っていった女性。
おそらくこれは、彼女の家族三人で撮った記念写真なのだろう。
「お待たせ」
身体を温め終えた彼女が、薄桃色のパジャマを着てやってくる。
頬を僅かに上気させた彼女は、息を呑むような艶っぽさがあった。
「ちょっと待っててね」
言い置いて、彼女は隣の部屋に引っ込んだ。
「覗きに来ちゃダメだからねー」
「覗かないよ」
引き戸越しに聞こえてきた、からかうような声に冷静なツッコミを返す。
彼女は、すぐに戻って来た。
先日僕が贈呈した、猫のぬいぐるみを胸に抱いて。
「となり、いい?」
「ん」
ぽすんと、すぐ横に彼女が座る。
例の甘ったるい匂いが、いつもより強く鼻腔をついた。
息遣いすら聞こえて来そうな距離に、余計な雑念が入って来そうになる。
「この子を抱きしめてるとね、すごく落ち着くんだ」
言って、彼女はぎゅううっと音が聞こえそうなくらい強く、ぬいぐるみを抱き締めた。
「気に入ってくれているようで、なにより」
「うん、すっごく。私の、宝物だよ」
あどけない、子供のような笑顔を弾かせる彼女。
胸の奥がむず痒くなる。
「重い話になるけど、いいかな?」
彼女が、切り出す。
身構えて、僕は頷く。
隣人の同意を受け取った彼女は、一度大きく新深呼吸した後、空気に言葉を乗せた。
「私、お父さんいないの」
言い始めから、ん? と思った。
写真立てに映る男性の姿。
彼女と母親の会話のやり取り。
父親の存在を示唆する要素は、あったはずだ。
彼女はすぐに、答えを口にした。
「正確には、居なくなった、かな。お父さんは、私が小学5年生の時、通り魔から私を庇って死んじゃったんだ」
想像だにしなかった彼女の独白に、言葉を失う。
通り魔? 死?
馴染みの無さすぎるワードに、理解が追いつかない。
俯瞰した自分を務めて作り、先の説明を事実として認識する。
その間に、彼女が続ける。
「それで、お母さんは壊れちゃってさ。お父さんの死を受け止めることができなくて……今も、幻のお父さんと一緒に暮らしている」
……。
自分が、感情と理性を分離できるタイプの人間で良かった。
確かにこれは……普通の人は、処理し切れないかもしれない。
ソファに背中を預けた彼女が、天井を見上げて言う。
「ここは、私とお母さんとお父さん、三人で暮らしてた部屋なんだ。もっとも、お父さんが死んじゃってからは、お母さんと二人暮らしだったんだけど」
この部屋の広さの理由を、理解した。
ここは、彼女だけの部屋ではない。
彼女の、家族の部屋だったのだ。
気づく。
先ほど彼女は、母親が幻の父親と一緒に暮らしていると言った。
その言葉の意味するところはつまり、
「ううん、二人暮らしじゃないね。お母さんの中ではずっと、お父さんは生きていて……私もそれに合わせて生活していたから、実質三人暮らしだね」
僕の疑念に応えるように、彼女が言う。
笑い事じゃないのに、彼女は笑っていた。
まるで、心を保つために造られたような笑顔。
「今はどうして……別々に暮らしてるの?」
浮かんだ疑問を投げかける。
間を置かず、彼女は答えた。
「中学を卒業するタイミングで、お母さんの実家……おばあちゃんに言われたの。お母さんは実家で面倒見てあげるから、しばらく一人で暮らしなさいって」
態勢を戻し、ぎゅうっとぬいぐるみを抱き締める彼女。
「私は、反対した。お母さんと離れたくは……無かった。でも……お母さんと過ごすうちに、自分が、だんだんと消耗している事にも気づいて」
ある日突然父親を失った上に、亡き父の幻想と同居する母親との二人暮らし。
その日々の壮絶さたるや想像もできない。
ただ、まだ10代前半の少女にとって、それが重すぎる現実だということはわかる。
「悩んで、すっごく悩んで……私は、お母さんと離れることを選んだ。お母さんは実家に戻って、私はここに残った」
実家に二人とも帰らせる、という代替案を提示しなかったのは、目的の本質が二人を別々にする事だったからだと推測する。
それほどまでに、彼女は精神的に追い詰められていたのだろう。
彼女の視線が、写真立てに注がれる。
寂寥と、回顧の念を感じさせた。
「母親、よく納得してくれたね」
言うと、彼女はぬいぐるみに顎を乗せ、乾いた笑みを浮かべた。
「お母さんはもう、正常な判断なんてできないくらい、壊れちゃってるの。一人暮らしをする事も、「日和がしたいならいいと思う」って」
そんなこと、絶対に言わない人だったのに。
そう付け加え、彼女は寂しそうに目を伏せた。
「望月くんと、初めて話した日。あの日も、お母さんが来たの。私にお父さんのこと、ずっと話してた。昨日は一緒に公園に出かけたとか、今度一緒に美味しいレストランに行くとか。ずっと、ずっと……」
強調された語尾は、彼女の強い感情が濃縮しているように感じた。
一度、落ち着かせるように深呼吸した彼女が、続ける。
「いろいろ聞いてたら、なんかたくさん思い出しちゃって。お母さんが帰った後、気がついたら……外に飛び出していた」
理解した。
彼女と始めて言葉を交わした日。
雨の中、彼女が傘もささずに公園にいた理由を。
3ヶ月越しに知った事実は、僕の息を詰まらせるには充分だった。
「あの時はやけになってたなー。雨降ってるのに傘も持たない、周りをよく確認もしないで力使う、一言も話したことのない君にぐいぐい絡む、もう、めちゃくちゃだね」
彼女はまるで、昔の笑い話を懐かしむような口調で話す。
「いきなりでびっくりしたよね、ごめんね?」
「いや……気にしてない」
「ふふっ、そっか。ありがと」
正面を向いたまま、にっこりと笑う彼女を見ていたら、ふと、思い至った。
彼女の異様なまでの明るさは、母親と暮らしていた日々が原因ではないだろうかと。
壊れてしまった母親と同居するためには、そうやって気を保つしかなかったのではないか?
もしそうだとしたら……彼女は多分、ずっと……。
「どうだった?」
話を始めてから、彼女が初めて、僕の方に顔を向ける。
いつもの笑顔を、浮かべていた。
「これで話はおしまい。なかなかにヘビーだったでしょ?」
違う。いつもの笑顔じゃない。
軽快な口調とは裏腹に、その表情には歪みがあった。
澄んだ瞳が、まるで何かに怯えるように震えている。
僕の反応を恐れているのだ。
躊躇う。
なにを言えば正解なのか。
この場にあった適切な言葉はなんなのか。
考えれば考えるほど、口の筋肉が強張っていく。
……これは、悪い癖だ。
正解とか、不正解とか、そんなんじゃない。
彼女が求めているのは、気遣いの末に捻り出した当たり障りの無い言葉ではなく、僕の率直な気持ちだろう。
だとしたら……僕を信じ、勇気を出して明かしてくれた彼女に伝える言葉は、きっとこれでいいはずだ。
「話してくれて、ありがとう」
努めて平静に、いつもの調子で。
「正直、驚いた。僕の、想像以上だった」
彼女の身体が、ビクリと震える。
ぬいぐるみを抱きしめる腕も、小刻みに揺れていた。
しかし、拒絶を恐れているはずの瞳だけは、僕の目を真っ直ぐ捉え続けていた。
息をゆっくりと吸い、主観的には強い口調で、言葉に意思を宿して放つ。
「でも、大丈夫」
彼女が息を呑むと同時に、言葉を空気に乗せる。
「君と距離を取ろうとか、関わらないようにしようとかは、微塵も思ってない。だから……安心してほしい」
強張っていた彼女の表情が、徐々に安堵の色を広げてゆく。
ここで言葉を止めるはずだったのに、理性に反旗を翻した僕の口が、勝手にその先を言葉にした。
「ずっと、誰にも言えなくて、一人で抱え込んで、しんどかったと思う」
彼女を労わる言葉が。
彼女を安心させる言葉が。
胸の奥底から湧き出る感情の奔流に押し出され、空気を振動させる。
その衝動は、僕の口だけではなく、他の部位も動かした。
「だから、さ……」
以前、彼女が部屋で寝落ちした時。
途中で引っ込めてしまった手が、彼女の頭へと伸びる。
「無理に、笑わなくていい」
自分の手のひらが、彼女の頭の上でぽんぽんと弾む。
そのまま大事なものを扱うようにゆっくり撫でると、掌から絹糸のような感触が伝わってきた。
「辛い時は辛いって、正直に言って欲しい。僕も、話くらいは聞けるから」
思ったより小さな頭に、自身の手のひらを滑らせる。
その動作を、何度も繰り返す。
暖房の音、雨音、そして、小さなの頭を撫でる音。
それらの音がやけにはっきり聞こえてきた。
しばらくすると、大きく見開かれた目元にじんわりと、光るものが滲んだ。
「あっ、ごめん……」
ハッと我に返って、手を退ける。
彼女は、目元に涙を浮かべたまま固まっていた。
その瞳に映る感情は、驚き、困惑、あとはなんだ?
「ごめん……急に、変なことしちゃって」
いったい自分は、どうしてしまったのだろう。
女の子の頭を、許可なく撫でるなんて。
それも、自発的に。
恐る恐る、彼女の顔を伺う。
いきなり頭を撫でられて嫌だっただろうから、嫌悪の表情を浮かべられても仕方がない。
そう思っていたのに。
「ううん、違う、違うの……すごく嬉しくて」
ぐしぐしと、目を袖で拭いながら首を振る彼女。
今度は僕が言葉を失う番だった。
「望月くん、ああ言ってくれたけど、やっぱり拒絶されるんじゃ無いかって、すごく不安だった。でも……大丈夫って、言ってくれた」
歪みのない。
安堵と喜びに溢れた表情。
いつもの笑顔が、そこにあった。
「すごく嬉しかった。ありがとう」
絵にして飾りたいほどの笑顔に、呼吸が止まるかと思った。
おそらく誰が見ても見惚れてしまうその笑みは、僕の心臓を大きく脈を打たせるには充分の破壊力を秘めていた。
僕が言葉を詰まらせていると、彼女の目元に再び、光が浮かぶ。
またぐしぐしと、袖で涙を拭う。
「あれ? おかしいな、止まんない……」
ぽろぽろ、ぽろぽろ。
拭えど拭えど、透明な雫は次々と溢れ出てくる。
振り出しの雨のように、止まらない。
底が抜けてしまったコップのように、止まらない。
「大丈夫、か……?」
声をかけると、彼女はぽふんとぬいぐるみに顔を埋めた。
するとすぐ、小さな嗚咽が聞こえてきた。
言葉を詰まらせ、すすり泣き始める彼女。
その姿はとても弱々しくて、儚くて、見ていると胸が痛んだ。
触れたら粉々になってしまいそうな、怖さもあった。
胸が、ぎゅううっと締め付けられる。
同情?
違う、なんだこれ。
また僕は、どうかしているとしか思えない行動を取った。
彼女に身を寄せて、震える背中に腕を回していた。
嗚咽、吐息、熱、鼓動、甘い匂い、そして、柔らかい感触。
己の意思で初めて抱きしめた彼女の身体は、想像以上に華奢で、折れてしまいそうなほど頼りない。
こんなに小さな身体で頑張ってきたんだ。
そう思うと胸がいっそう苦しくなって、彼女を抱きしめる腕にさらなる力が加わった。
僕の抱擁を、彼女は受け入れた。
それどころか、彼女の方からも腕を伸ばしてきた。
背中に細い腕が回されて、ぎゅうっと引き寄せられる。
行かないで、離さないでと懇願しているかのように。
最後の防波堤が決壊したかのように、彼女は赤ん坊のように泣きじゃくった。
大声で、わんわんと。
感情を露わにしむせび泣く彼女を見るのは、初めてだった。
驚くと同時に、安堵していた。
今までずっと、我慢して、押し込んで、抱え込んでいた感情。
もしもそれらの成分が涙に含まれているのだとしたら、枯れるまで泣いて欲しかった。
全部全部、吐き出して欲しかった。
彼女が泣き止むまでずっと、僕はその小さな身体を抱きしめ続けた。
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