第64話 僕は全部受け止められるよ


「……風邪ひくよ」


 冷たい雨が降りしきる公園で彼女を目にした時、すぐに駆け寄って声をかけた。

 彼女はその体躯に冷たい冬空の温度を一身に受けていたから、持っていた傘で頭上を覆った。


「どうして……」

 

 濡らした顔を上げた彼女が、雨音にかき消されそうな声で呟く。


 なぜ来たのか。


 街灯に照らされたその面持ちが、そう問いかけてきた。


 問いに対する論理的な解を僕は、持ち合わせていないことに気づく。


「なんか……追わないといけないような気がして」

「そう、なんだ」


 今日初めて、彼女は僕に笑顔を見せた。

 その笑顔は、雨の中だというのに乾き切っていた。


「さっきのは……」

「私の、お母さんだよ」


 やっぱりか。

 驚きもなく、腹落ちする。


「どう、見えた?」

「え?」

「私とお母さんを見ていて、望月くんは、どう感じた?」


 柔らかい口調の質問だったが、彼女の面持ちは真剣だった。

 黙考し、率直な印象を口にする。


「最初は普通の、親子の会話に聞こえた。でも……」


 彼女の表情が、張り詰める。


「君は……すごく辛そうだった」 


 彼女はぎゅっと、唇を結んで押し黙った。

 握り拳が震えているのは、寒さのせいじゃない気がした。


 彼女をこの場に留まらせてはいけない。

 直感的に、そう思った。


「とりあえず、家に戻ろう。身体、乾かさないと」

「いい」


 彼女が小さく首を振る。

 

「もう少し、ここにいる」


 このやりとりに、既視感を覚えた。


 彼女と初めて会った日。

 風邪をひくぞ、という僕に忠告に対し、彼女はその場に残ると主張した。


 今と、同じように。


「行くよ」

「あっ」

 

 彼女が声をあげたのは、僕が強引に手を引いたから。

 以前のように、傘を押し付けて自分だけ家に帰るような真似は出来なかった、したくなかった。


 掴んだその手は冷え切っていて、このまま消えてしまうんじゃないかという怖さがあった。


 推進力に身を任せ、二歩三歩進んだところで彼女が声をあげた。


「離してっ……」


 拒絶の言葉とともに、手と手が離される。

 思った以上に強い力で振りほどかれ、僕は思わず手を引っ込めた。


 彼女との間に、生じる距離。

 再び雨ざらしとなった彼女は、繋がれていた方の手をもう一方の手で握り締め、斜め下を向いて言葉を溢した。


「ごめん……今は一人で、頭を冷やしたいの」


 弱々しい。

 いつもの彼女からは想像できないくらい弱々しい声を聞いて、僕の心が臆病になる。


 このまま彼女を連れ戻すのは、間違った選択ではないのか。

 彼女には彼女なりの心の整理法があって、僕はそれの邪魔をしているのではないか。


 ネガティブな推論が頭の中を渦巻き、後ろ向きな行動を取りそうになる。


 ──違う。


 物怖じしかけた自分を、叱咤する。

 

 ネガティブな推論が渦巻くのは思い込みだ。

 後ろ向きな行動を取りそうになるのは怠惰だ。


 流されてはいけない。


 誰がなんと言おうと、弱った女の子を一人、冷たい雨のなかに残す道理は今の僕には存在しない。


 気がつくと、彼女の元に足が動いた。


 理屈じゃない、感情がそうさせた。


 彼女との距離が、ゆっくりと詰まる。


 小さな頭を再び傘で覆うと、彼女は驚いた表情で僕を見た。


 聞くなら今しかないと、直感的に思った。


 息を吸い、気を落ち着かせ、自分の意思で尋ねる。


「君とご両親の間になにがあったのか、知りたい」


 彼女の目が、大きく見開かれる。

 変化は一目瞭然だった。


「い、やだっ……」


 彼女は拒絶し、頭を横に振った。

 後ずさり、距離を取ろうとする彼女の腕を、咄嗟に掴む。


 さっきよりも、しっかりと。


 今度は、振りほどかれなかった。

 彼女の腕から、ふっと力が抜ける。


 見ると、彼女の表情には諦めの感情が見て取れた。


「どうして、話したくないの」


 ざーざーと空の泣き声が反響する中。


 なるべく落ち着かせるようにして、尋ねる。


 手を離すと、彼女は捨てられた子猫のように震えながら、怯えた声で言った。

 

「話したらきっと……望月くんまでいなくなっちゃう……」


 悲痛に満ちたその言葉は、僕の頭にガンッと衝撃をもたらした。

 

 ──人はたとえ親しい友人でも、暗い部分があるとわかった途端、離れてしまう事もある。


 ──お隣ちゃんも、そうなることが怖くて言えない部分があると思うの。


 奥村さんの言った通り、彼女は恐れていた。


 話せば、僕が離れてしまうかもしれないと。


 おそらく過去に、同じような経験をしたのだろう。


 過去のトラウマからくる、現在の歪み。


 その気持ちは、わからないでもない。


 だからこそ、彼女に言うべき言葉は決まっていた。


 落ち着いた思考が論理を構成する。

 彼女を説得する一言目に意思を込め、芯の通った声で告げた。


「僕は、いなくならない」


 彼女が一度、ビクリと震える。


「僕は絶対に、いなくならない」


 もう一度、強調して、断言した。


 彼女が顔を上げる。

 その表情は、困惑一色に染まっていた。


 しばし雨音だけが響いた後、彼女がゆっくりと口を開く。


「どうして、言い切れるの?」


 戸惑いを含んだ問いに対する答えは、この一言がもっとも的確だろう。


「それは僕が、君と正反対の人間だから」


 奥村さんは言った。

 彼女がどんな問題を抱えたとしても、僕なら受け止められると。

 その言葉の意味がなんとなく、わかった。


 回答の意味を噛み砕けてない浮かべる彼女に、頭の中で散らばった要素をかき集めるようにして、ゆっくりと説明する。


「人は、自分の理解を超えたものに対し恐怖を感じ、排除しようとする生存本能がある」


 何かの本で読んだ知識。


「その恐怖は感情に起因するもの。そして大多数の人々は、感情を主体に生きている」


 少なくとも僕よりかは、と付け加える。


「だから人は、他人が自分の理解を超えた事情を抱えていると、恐怖を感じて距離を取ってしまう。……例えそれが、仲の良い友人だったとしても」


 彼女は、何かを思い出したかのように悲痛の表情を浮かべた。


「でも、僕の場合は違う」


 彼女の表情を打ち消すために、否定する。


「僕は、理性主体の人間で、感情は、皆無に近い」


 それは多分、この3ヶ月間、僕を見て来た彼女が一番良く知っている事だ。

 だから、と言い置き、彼女の目を真っ直ぐ捉えて、一番伝えたかった結論を言い放つ。


「君がどんな事情を抱えていても、僕は全部受け止められるよ」

 

 言い終えてから、自分の背中がびっしょりと濡れていることに気づいた。

 雨によるものではない。


 次いで、全身がむず痒くなった。

 顔の温度が上昇し、思わず目を逸らす。

 こんなの自分じゃないと思いつつも、さらに自分らしくない言葉を重ねた。


「信じて、くれると助かる」


 彼女は今、どんな表情を浮かべているのだろう。

 気になったが、見る事ができなかった。

 

 雨音が、鼓膜を激しく震わせる。

 湿った匂いが、鼻をつく。

 永遠にも長いと思える沈黙の時間は、実際には10秒も無かったと思う。


「正反対って、そういうことか」


 彼女の声が、雨粒と共に降ってきた。

 

 視線を戻す。


 そこには、先程までの歪んだ表情は和らいでいた。


 一度くしゃくしゃにした紙を頑張って引き伸ばしたかのような、そんな顔。


「確かに望月君は……私の力を目にした時も、たいして驚かなかった」


 柔らかい笑みを浮かべた彼女が、確信を深めるように事実をなぞる。


「私のうざ絡みも全部受け入れて、今でも一緒にいてくれてる」

「……自覚、あったんだ」

「あるよ、いつもありがとうね」


 弱々しくない、普段と近い調子で彼女は言う。

 その事に、ほっとする自分がいる。

 

「わかった」


 強い意志を伴った視線が、僕をはっきりと捉える。


「望月くんを、信じる」


 その言葉を聞いて、僕の心にずっしりと伸し掛かっていた重りがぽろりと剥がれ落ちた。

 

 よかったと、心底安堵した。

 同時に、今まで感じたことのない感覚を抱いた。

 自分の説得が、意思が、彼女の心境に変化をもたらした事に、例えようのない充実感を覚えていた。

 

「とりあえず、戻ろう」

「うん」


 僕は彼女に手を差し伸べた。


 この前、温泉に向かう途中の坂で、彼女の方から差し伸べてくれたように。


 差し出された僕の手に、彼女は一瞬目を丸めるも、恥じらうような笑みを浮かべて自身の手を重ねた。


 伝わってくる、彼女の体温と、柔らかい感触。


 なるべく意識しないよう心がけ、彼女の手を引いて歩き出す。


 雨の中を二人で、家路を辿る。

 

「ありがとう」


 後ろから、小さな謝辞が聞こえてくる。

 

 僕はわずかに逡巡した後、いつもより長めの言葉を返した。


「どういたしまして」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る