第63話 彼女の○○と遭遇


 終業間際に、彼女からRINEが来た。

 昨晩、急に帰ってしまったことに対する謝罪と、今晩は夕食を作れない旨の内容が記されていた。


 いつも使われている絵文字は、無かった。


 僕は一言だけ『了解』と返し、もう一言付け加えた。


 『僕でよければ、いつでも相談に乗る』


 すぐに既読になって、短い謝辞の言葉が送られてきた。


 『ありがとう』


 絵文字は、無かった。


 夕食の制約がなくなってしまった僕は、そのまま就業時間を過ぎてもキーを打ち続けた。


 たぶん、気を紛らわせたかったのだろう。

 

 1時間経ち、2時間経ち、涼介や他の社員さんが帰宅した後も、仕事を続けた。

 こんなに残業をしたのは、入社したて以来かもしれない。


 普段よりも長いワークで凝り固まった身体をほぐしていると、バックオフィスの山村さんが声をかけてきた。


「お疲れ様。もうすぐオフィス出るけど、まだ残る?」


 気がつくと、オフィスには僕と山村さんしか残っていなかった。

 時計を見ると、9時を回っていた。


「お疲れ様です。すみません、僕も出ます」

「了解。俺が言えたことじゃないけど、あまり残業し過ぎちゃダメだぞ?」


 今年で30になる山村さんは、バックオフィスらしい小言を笑いながら告げて、僕に缶コーヒを差し出した。

 買いたてなのか、受け取ると少し熱いくらいの缶コーヒーだった。


「すみません、お心遣いありがとうございます」

「どういたしまして」


 山村さんと共にオフィスを出る。

 外は凍てついた空気に包まれていて、思わず身体がぶるりと震えた。


 しかしその分、缶コーヒーの温かさが際立った。

 歩き飲みはしない主義なので、しばらくカイロ代わりにする。


 新宿駅のJR改札で山村さんと別れ、自分は織田急に乗り込んだ。

 いつもより乗客の少ない車内でニュースのチェックしつつ、RINEを起動する。


 通知が来ていないのだから連絡も来ていないとわかっていつつも、彼女のトークを開いた。


 チャットは、3時間前のまま。

 重い息を吐くと同時に、電車が下北沢に到着した。


 傘、結局使わなかったなと思いつつ歩いていると、自宅のマンションが見えてきた。

 自分の部屋の隣、彼女の部屋には明かりが灯っていなかった。


 こんな時間に外出だろうか。


 不思議に思いつつも、敷地内に足を踏み入れる。


 ──ちょうどそのタイミングで、エントランスから出てくる二つの人影を捉えた。


 一人は彼女、もうひとりは……。


 僕は身を翻し、敷地から退避した。

 マンションを出てすぐ横手にあった電柱に、身を隠す。


 ……なにコソコソしてるんだ、僕は。


 思わず反射的に距離を取ってしまった。

 しかし冷静に考えても、正しい判断だったと思う。


 あそこでそのまま出くわしたらどうなるか、あまり想像したくない。


 電柱から顔だけ出し、様子を伺う。


 同じくして、二人が敷地内から出てきた。

 

 彼女でない方の人影も、女性だった。


 背丈は彼女よりも若干低めだが、スレンダーという言葉がぴったり似合いそうな方だった。


 肩のあたりで切り揃えられた髪は、夜闇に溶けてしまいそうなほど黒い。

 それに反して肌は透き通るように白く、目鼻立ちはくっきりとしていた。


 ようするに、彼女と瓜二つだった。


 僕は直感的に、女性が彼女の母親に該当する人物だと思った。


 耳をすますと、二人の会話が微かに聞こえてくる。


「日和、今日はありがとう。ごめんね、急に押しかけちゃって」

「ううん、気にしないで。私も、お母さんと久しぶりに話せて楽しかった」

「それはよかった! 私も、いろいろ聞けてよかったわ」


 やりとりを聞いていて、おや? と思う。

 彼女は以前、親との間に問題があると言っていた。

 しかしこの会話だけを聞くと、とてもそうは思えない。

 

 僕の疑問に構わず、会話は続く。


「寂しくなったら、いつでもうちに来なさいね。お母さん、ずっと待ってるから」

「……うん、わかった」

「秀夫さんも、日和とまた一緒に暮らせるってなると、すごく喜ぶと思うわ」


 ここで、わずかな間が空く。

 彼女の手が、ぎゅっと握りしめられていた。


 不穏な空気を感じ取る。


「……お父さんにも、よろしく伝えておいて」

「もちろん! 今日は帰って、秀夫さんの大好物のビーフシチューを作ってあげるの。良いと思わない?」

「うん、すごくいいと、思う」

「でしょ? あっ、タクシーが来たわ」


 配車アプリで手配しておいたのか。

 一台のタクシーが、手をあげることもなく二人の前に止まる。


「名残惜しいけど、さよならね」

「うん、お母さんも、元気で」


 女性が乗り込む。


「それじゃあね、日和」

「ばいばい、お母さん」


 ドアが閉まり、タクシーが走り去っていく。

 タクシーが見えなくなるまで、彼女は小さく手を振っていた。


 その振っていた手を下ろした途端、彼女が急に反対方向へ駆け出した。

 

 つまり、僕のほうに。


 そのまま隠れてやり過ごすという選択肢を取らず、僕は反射的に電柱から身体を出した。


 彼女の足にききっとブレーキがかかる。


「望月……くん……?」


 僕の姿を認めた彼女が、蚊の鳴くような声色で呟く。


 街路灯に照らされた彼女の表情には、驚き。


 それと、一人ぼっちで取り残されてしまったような焦燥感が浮かんでいた。


 僕の胸が、ずきりと痛んだ。


 同時に、彼女の震える唇が、ゆっくりと開く。


「見て、たの?」

 

 僕が頷くと、彼女は「そっか……」と小さく呟いた。

 

 声も、震えていた。


「……ごめんっ」


 謝罪を口にして、彼女は再び駆け出した。

 去り際の彼女の顔は、昨晩と比べ物にならないくらい歪んでいた。


 すぐに彼女を追おうとした。


 しかし、一歩踏み出したところで動きが止まる。


 果たして、この行動は正しいのか?


 全くの赤の他人の自分が関わるのは、お門違いじゃないのか?


 理性が、僕に答えを求めていた。


 ──昨晩、あんなに辛そうだった彼女になんの言葉もかけられなかった事を思い起こす。


 ここで何もしないのは一番間違った選択だと、直感が囁く。


 頭のどこかで、鎖を引き千切るような音が響いた。


「もう、知らん」


 誰に向けてなのかわからない言葉を吐き捨てて、僕は駆け出した。

 ノーパソが入ったリュックを背負っているはずなのに、全然重さを感じなかった。


 ──ぽつり。


 走っていると、鼻先で冷たい水分が跳ねた。


 それを合図に、ぽつり、ぽつりぽつりと、空から冷たい水滴が振ってくる。


 そういえば、予報では今晩、ずっと雨らしい


 傘を握り締める手と、彼女を追う両足に力がこもる。




 彼女はすぐに、見つかった。

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