第35話 母とのサシ飲み


「青天の霹靂ってなあに」


 母が生ビールを片手に、漢字にすると難しい慣用句について訊いてきた。

 僕は口につけていたグラスをテーブルに置いて答える。


「誰もがびっくりするようなこと?」

「ぴんぽーん。さすがおさくん。ご褒美として、お代わりを頼んであげる」

「まだ飲み切ってないし。一杯だけって言ったよね」

「つれないわねぇ」


 グラスの縁を退屈そうになぞる母を無視し、僕は店員さんを呼んだ。

 母が開始5分もしないうちにほとんど飲み干してしまった生ビールのお代わりを注文する。

 

「ありがとねぇ、おさくん」


 酔いも相まってか、母は大変機嫌が良かった。

 

 ここは、マンションからほど近い裏路地にある隠れ家的な居酒屋。

 彼女と別れてマンションに戻ると夕食の時間だったので、「せっかくだから東京の美味しいお店に行きたいわね〜」という母の要望を受諾してやって来た。

 東京に来て初となる母とのサシ飲みは、会うこと自体が久しぶりという事もあって妙な気分だった。


「ここ良いわねえ。料理は美味しいし、雰囲気も良いし」


 物静かでモダンな雰囲気の内装が感性にハマったらしく、母はうっとりしながら言った。


「今度、日和ちゃんも連れてきてあげなさい。あの子、絶対に喜ぶわよ」


 今朝初めて顔を合わせたばかりだというのに、母は彼女の趣向をばっちり把握したようである。


「連れてこないよ。彼女、未成年だし」

「あら、居酒屋に未成年が来ちゃいけないって法律は無いじゃない」

「それはそうだけど、ここはお酒を飲む前提で作られてる店だから、アルコールが入らないと良さが半減するというか」

「もう、固いわねぇ。おさくんが連れて行くお店だったらどこだって、日和ちゃんは喜んでくれると思うわ」

「買いかぶりすぎだよ。僕も流石に、百発百中で彼女のお目に叶うお店をチョイスできる自信は無い」

「そういう意味じゃ無いわよ、もう」


 母は呆れの混じった溜息をついた。


「じゃあどういう意味?」


 尋ねるも、母は「しりませーん」と答える気は無い。

 僕は諦めて違う質問を投げることにした。


「なんで青天の霹靂?」

「それこそ、答えなくてもわかるでしょう?」


 母が薄ら笑いを浮かべる。

 これについてはなんとなく、思い当たる節があった。


「知らない間に、僕に友達ができてたこと?」

「ハーフ正解」

「2分の1だけ正解って意味?」

「ぴんぽんー」

「わかりづらい表現しないでよ」

「おさくんにもそういうところあるじゃない」

「そりゃ、息子だからね」

「たしかにい」


 母は気分上々だ。

 だいぶ酔いが回って来たのだろうか。

 ノリが段々とそこらの酔っ払いと変わらなくなってきた。


 同じテンションにならないとフラストレーションが溜まりそうな気がして、僕はグラスに入った橙色の液体を飲み干した。

 梅の香りが鼻腔を抜け、シロップの甘みと炭酸のパチパチ感が喉を通り過ぎる。

 梅酒のソーダ割りは、アルコールが苦手な僕が唯一好んで頼むお酒であった。 


「おさくん、変わったなーって」


 唐突に妙なことを言われて、僕は一瞬、母の発言の意図を理解しかねた。


 変わった?

 僕が?


「なに、体型の話?」

「それもそうかも。おさくん、ちょっと太った?」

「標準に近づいたって表現の方が正しいかな」


 ガリガリから、ちょいガリにはなった自覚がある。


「顔色も良くならなかった? 前見た時よりも健康そうに見えるんだけど」


 上京して三ヶ月目くらいに一度だけ、母が家に来たことがある。

 その時は毎日カップラーメン不健康生活90日目くらいで、外見的に影響が出るくらい不摂生を極めていた。

 普段は温厚な母もあの時ばかりは激怒し、夕食は緑と黄色ばかりの料理が出て来た。

 一時的にイモムシの気分を味わったが、今となっては感謝しかない。


「同僚にも言われた」

「日和ちゃんの手料理のおかげね」

「まあ、たぶん」

「絶対そうよ。良かったわねー、身近に栄養管理をしてくれる子ができて」


 思い返すと、本当に冗談みたいな経緯であった。

 ただそれについての詳細を話すわけにはいけないので、僕は話の舵を違う方向へ切った。

 

「なにはともあれ、送ってくれた調理グッズが役に立ってよかったよ」

「結果オーライみたいに言うけど、一度も使われた形跡のない調理道具を見た時の母さんの気持ちを考えたことがあるかしら?」


 母の瞳からハイライトが消え失せた。

 舵をきった先に地雷が埋め込まれていたらしい。


「ごめん」


 即座に謝罪すると、母は頬を膨らませながらも徐々に表情を和らげていった。


「それで、他に変わった点って?」

「んーとね」


 母が言おうとすると、店員さんが生ビールを持ってやって来た。

 そのついでにウーロン茶を頼み、改めて母に向き直る。


 母は生ビールを片手に掲げ、似合わないキメ顔をして言った。


「こういうところよ」

「ごめん、わからない」


 即答すると、母は「ふふふふっ、わからないように言ったんだもーん」っと愉快そうに笑う。

 なんだこの酔っ払い。

 僕は生ビールを追加注文したことを後悔する。


「人を見るようになった、かな」


 一点、真面目な口調で母が言った。


「人を見る?」


 意味がわからずオウム返しをすると、母は「うんうん」と頷いた。


「日和ちゃんの荷物、持って帰ってあげたじゃない?」

「ああ……」


 それは、つい先ほどの出来事。


「でもあれは、僕が持って帰った方がお互いの幸福値が最大化するという合理的な結論が導き出されたからで」

「けどその結論は、彼女の気持ち理解したから出たんじゃないかしら?」


 『彼女の気持ちを理解したから』

 頭の中でその部分だけ繰り返される。


 本当にそうなのだろうか?


 人の気持ちを理解するというのは、自分が他人の持つ感覚と同じものを持つことによって生じるものであると、僕は思っている。

 感情の起伏に乏しい僕は、その感覚を保有することが極めて少ない。

 現状の僕が行っていることは、これまでの対人コミュニケーションの中での失敗や経験を論理的に分析しいくつかパターンを作り、状況に応じて掘り起こしているだけだ。

 他人の感情に共振しているわけではない、と思う。

 

 ゆえに母の発言は、僕の中でいまいちピンとこなかった。

 

「人を見るっていうのは、そういうことよ」


 一方の母はそう言って、上機嫌にビールを飲み干した。

 「くぅーっ、いいわねぇ」とおっさんみたいな事を言う母に、僕は尋ねた。


「ビールを頼んだのも、僕が気遣ったと?」

「そーゆーこっとん。荷物を持ってあげたのも、ビールが空になったことを気づいて追加注文してくれたのも、以前のおさくんには出来なかったと思うのよねー」


 言われて、僕は押し黙った。

 客観的にそういう評価を受けたということは、僕の自覚なしに変化した部分があるのだろうか。

 その根本に彼女の存在があることが、なぜか僕を複雑な心境にさせた。


「シンクロニー現象ってなあに」


 唐突に、母のなになにクイズ2問目が始まった。

 今度は少し、記憶を掘り起こす作業に時間を要した。


「……他人と一緒にいると、次第にその人の趣向や考え方が伝播する現象?」


 ロックが好きな人と過ごすうちにロックが好きになった、とか。

 倹約家の人と過ごすうちに散財をしなくなった、とか。


「ぴんぽーん。流石おさくん。ご褒美として、お代わりを」

「さっきウーロン茶頼んだから」

「つれなーい」


 母は面白くなさそうに口を尖らせた。


「僕と彼女との間にシンクロニー現象が起こってると?」

「だといいわねぇ」

「なんだそれ」

「本人たちじゃないんだから私にはわからないわよー。でも、今日の日和ちゃんとおさくんを見てる限り、そうかもしれないわねぇ」


 おそらく、多少の影響は受けている。

 もともと主義趣向が正反対だったのもあって、視覚的な変化がわかりやすいのだろう。


「私はね」


 母は目を細め、優しい声色で言葉を紡いだ。


「日和ちゃんが、おさくんの友達になってくれて良かったと思うわ」


 その問いには応えなかった。


 応えられなかった。


 話を切るようにグラスを傾ける。


 唇に冷たい氷が当たった。


 そういえば飲み切っていたことを忘れていた。


 なにやってんだか。


 タイミングを見計らったようにウーロン茶がやってきた。


「もう一杯、生くださーい」 


 まだ飲む気満々の母。


 便乗して梅酒のソーダ割りを追加注文する。


 思い切り酔って思考を放棄したい気分だった。


 母は大層嬉しそうにした。


 夜はどっぷりとふけていった。

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