第36話 母、帰る


「短い滞在だったけど、楽しかったわ」


 三連休最終日の朝。

 駅の改札前で、僕と母は別れのひと時を過ごしていた。

 なんて言い方をすると、僕がまるで母との離別をとても寂しがっているように聞こえるけど、実際のところ特に哀情はない。


 むしろ、ようやく一人になれるとすら思っていた。


「早起きさせちゃってごめんねぇ。今日はゆっくり休んでね」

「言われなくてもそうする」


 重い頭で、僕はぶっきらぼうに返答する。


 結局、昨晩は遅くまで飲み明かした。

 僕は梅酒のソーダ割りを二杯でセーブしたものの、気持ち悪さが今日まで尾を引いている。

 大量のビールを摂取したはずの母は何事もなかったかのようにケロリとしているので、アルコールの限界値には個人差があるということを思い知らされた夜だった。

  

「あっ、いっけない!」


 忘れるところだったわと、母がぱんっと手を鳴らす。


「おさくん、来年はどうするの?」

「どうするかって?」

「大学よ」


 随分と聞くに久しい単語が鼓膜を震わせて、ああ、と相槌を打った。


 休学して7ヶ月も働いていると時々忘れそうになるが、僕は一応、大学生である。

 休学期間は今年の4月から1年間で、来年の2月中には復学するか、休学を継続するかを決めなければならない。

 今は11月なので、猶予はあと4ヶ月もなかった。

 

「こんな大事な話、二日酔い寝起きのテンションでされても困るのだけれど」

「ごめんねえ、ハルくんに聞いといてって頼まれてたの、すっかり忘れちゃってた」


 てへりと、母が自分の頭を小突く。

 僕は深いため息をついた。


「あの人はなんて?」

「んーー、ハルくんは戻って来て欲しいみたい。卒業は早いうちにしておいたほうが生涯賃金は高くなるからって」

「あの人らしい考え方だね」

「おさくんもその血を受け継いでるじゃない」

「ごもっとも」

「あと、せっかく国立受かったんだから、卒業しないともったいないって」

「退学は視野に入ってないんだけど」

「ハルくんなりにおさくんの行動を予想してるのよ。おさくん、興味のないことには熱が注げない性格じゃない」

「まあ、確かに」

「東京で興味のあること見つけて、そのまま大学を辞めちゃうんじゃないかって心配してるのよ、ハルくんは」


 押し黙る。

 母の言う可能性が絶対にないとは言い切れない。

 そのくらいの自己分析はできていた。

 現に僕は、今の仕事に熱を注いでいて、大学での講義内容など綺麗さっぱり忘れつつある。

 

「私はおさくんの自由にしたらいいと思うんだけど、ハルくんはどうしても気にかかっているみたいで」


 説明は不要だと思うが、ハルくんとは父のことである。

 僕の知らないうちに何も起こっていなければ、今頃実家で母の帰りを待っているはずだ。


 思考を走らせる。


 もともと大学を休学したのも、何か目指したいものがあったとか、明確な理由があったわけでない。

 中身のない講義を受け、家と大学とを行き来する生活に言いようのない虚無感を感じ、気がつくと休学届けを出していた。

 我ながら何とふざけた経緯なんだろう。

 僕の突拍子のない奇行を、両親はよく許してくれたと思う。


 東京に来てからはとても充実した日々を送った。

 人も、文化も、仕事も、食も。

 地元とは比べ物にならないハイレベルっぷりで、見るもの全てが新鮮だった。


 時間は、矢の如く過ぎていった。


 1年という時間はあまりに短かった。

 じわじわと休学の期限が近づきつつある今、地元に戻りたいかと聞かれると、おそらく戻りたくはない。


 けど、

 

「今のところ、来年に戻るつもりではいる」


 これ以上、僕のふわふわした理由で両親に迷惑をかけるのも良くない。

 こちらでの生活費は自分で稼いでいるとはいえ、大学の授業料やその間の生活費を捻出してくれたのは僕ではなく、両親だ。


 普通に考えて、この選択が正解だ。


 正解のはず、なんだけど。


 胸のあたりがとても、窮屈そうに締まる感じがした。


 僕の返答に、母はただ一言、「そっか」と呟いた。


「じゃあ、ハルくんにはそう伝えておくね」


 少し間を置いてから「うん」と頷く。

 母が目に灯した感情の種類が、わずかに変化したように見えた。


「治(おさむ)」


 久しぶりに。

 本当に久しぶりにその名で呼ばれた。

 母が僕を下の名前で呼ぶのは、「真面目に聞いてね」というサイン。


 表情がひとりでに引き締まる。


「治は、自分のやりたい事をしなさい」


 その言葉は、頭の中でやけに響いた。

 母の真意は読み取れない。

 親という立場からというよりも、母の個人的な感情が入っているようにも感じた。


 母の真面目モードは一瞬だった。

 表情を柔らかくした後、急行新宿行きの時刻表を確認する。


「それじゃ、そろそろ行くわね」

「うん、また」

「年末は帰ってくる?」

「気が向けば」

「ふふ、楽しみにしてるわ」


 小柄な身体がくるりと回って背中を向ける。


 改札をくぐったあと一度振り向き、母が手を振って言った。


「日和ちゃんによろしくね!」


 僕は無言で手のひらを向けた。

 母の後ろ姿が見えなくなってから、僕は踵を返してマンションに戻った。


 思えば一昨日の朝からずっと誰かといた。

 こんなにも長時間、誰かと空間を共にしたのは東京に来て初めてだった。


 久しぶりの一人の時間。

 本来なら喜ばしいはずなのに、どうしたことか、気分が優れなかった。

 きっと二日酔いのせい、と簡単に片付けてしまうにはあまりにも奇妙な感覚。


 心に隙間ができて冷たい風が抜けていくような。


 以前にも一度、同じような感覚を持ったことを思い出す。

 それはいつだっただろうか。


 自室に入るなりベッドに突っ伏す。


 そのまま寝入りつもりだった。


 けど今度は、改札で母が放った言葉が僕の脳内でリピートされた。


 ──自分のやりたい事をしなさい。


 僕は一体、この先どうなりたいんだろう?


 自問自答するも、答えが返ってくることはなかった。


 喉が、1日間放置した食パンみたいにカラカラな感じがした。

 頭を振って思考を振り払う。


 精神衛生上あまりよろしくないテーマだ。

 もっと元気な時に考えよう。


 そう決めて、感情と理性を切り離す。


 すぐに、僕の意識は微睡みの中に沈んでいった。

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