第2章
第30話 ○○が突然やって来まして
第3講義室は構内でも際立って古く、地震でも来ようものなら一発で倒壊してしまいそうだと専らの評判だった。
横幅が広いことで有名な教授が演台と黒板の間を行き来するだけで、講義室内がミシミシ音を立てているのはきっと気のせいではない。
講義が始まり今までずっと、教授は自分の研究成果を自慢げに語る作業に興じていた。
そんな教授の話にほとんどの生徒たちは一切の興味を持つことなく、仲間内でひそひそ話をしたり、内職したり、スマホをいじいじしている。
おそらく、全国のどの大学でも目にする光景。
その中で僕は、至極真面目な態度で講義に臨んでいた。
要点をノートに書き写し、教授の話に聴覚を研ぎ澄ます。
この講義は出席するだけで評価をもらえるタイプのものだから、僕も別に出席カードに名前を記入したあと机に突っ伏してもよかった。
惰眠を貪ったところで、誰も僕を咎めないだろう。
僕に話しかける人間など、この大学には一人もいないのだから。
しかし、僕は真面目に講義を受けていた。
その内容が今後の進路に大きな影響を及ぼすわけでも、僕が特段興味を示すものというわけでもないのに。
錆び付いたチャイムが鳴り響く。
ぞろぞろと講義棟を出て行く生徒たちは、食堂か駐輪場へと足を向けていた。
僕は立ち止まり空を見上げていた。
日本地図の中でも随分と南に位置するこの田舎の空は透明で空っぽだった。
まるで、僕の心を映しているかのように、空っぽ。
このまま何者にもならぬまま大学を卒業して、何もないこの町でそれなりに生きていくのだろうか。
容易に描ける自身の未来予想図に、僕はぼんやりとした不安を抱いた。
この不安はここ最近、僕の心に夕立前の雲のごとく立ち込めている。
ふと、視界の外からゆっくりと、鋼鉄の鳥が横切った。
あの飛行機はどこへ向かうのだろう。
名古屋だろうか、大阪だろうか、それとも……。
僕の足が突き動かされるように動いた。
つま先の向く先には共通学部棟の2階、学務課。
学生相談係の事務員さんに、僕は切り出した。
「あの、休学届けを頂きたいんですけど」
事務員さんは、若い女性だった。
下手すると僕よりも若い、高校生くらいの。
……え?
「大丈夫、望月君の選択は間違ってないよ!」
聞き覚えのそのある声は、僕の背中をどんっと押してくれたような気がした。
暗転。
◇◇◇
──ピン、ポーン。
沈んでいた意識が、無機質な鈴の音で浮上する。
瞼を持ち上げると見覚えのある天井で、僕はぼやけた頭でスマホを起動した。
時刻は午前9時。
休日にしては早い時間帯だ。
上半身を起こし、頭を掻いてふと思い起こす。
妙な夢を見ていたような気がする。
どこか懐かしい、ノスタルジーを想起させるような。
ただ、内容は思い出せない。
まあ、夢なんてそんなものか。
ベッドから降りる。
そこで、足に電流が走った。
主に太ももとふくらはぎ。
案の定、昨日の登山で筋肉が悲鳴を上げているようだ。
湿布でも貼って寝ればよかったと後悔しながらリビングに足を踏み入れ、三歩目で歩みが強制停止する。
「えっ?」
思わず声が出た。
まだ夢が続いているのかと思った。
我が家のソファに、蛹(さなぎ)のように丸まった美少女が転がっていた。
長い黒髪が、カーテンの間から差し込む光に反射してきらきらと輝いてる。
美しい寝顔を無防備に晒し、彼女はすうすうと寝息を立てていた。
あどけない、天使のような面持ちに息を呑みながら、思い出す。
昨日、此奴はここで寝落ちをしたんだと。
ピン、ポーン。
再び鳴らされたインターホン。
寝巻きのまま玄関に向かう。
まだ少しぼやけた頭のまま、よく確認もせずにドアを開けた。
「おさくん久しぶり〜。元気してた?」
おっとりとした高めの声。
訪問者は小柄な女性だった。
僕はこの声と人物にとても覚えがあった。
顔立ちは幼く体躯は小柄。
ブラウンカラーの髪に、へにゃりとした優しげな瞳。
極め付けは、身長の割にやけに強調された胸。
「なんの用」
僕の呆れが混じった声に、女性はむむっと口を尖らせた。
「んもー、せっかくはるばるやってのになんの用って。会社でそんな言葉遣いしてないわよね?」
「してないから。質問に答えてよ」
「遊びに来ちゃった! うふふっ」
女性の後ろに見覚えのあるキャリーバックが鎮座していた。
僕はこめかみを押さえて大きな溜息をつく。
「来るときは連絡してって言ったよね?」
「あらあら、びっくりさせちゃったかしら? ごめんね、驚かそうと思って」
てへっと悪ふざけが成功した子供のように笑う女性。
この人はそういえば、サプライズとか悪戯とかが好きな部類だった。
僕が何度その被害を被ったか、数える気力も湧かない。
「とりあえず中に入れてくれるかしら? 長旅でもう疲れちゃって」
「あ」
まずい。
今この女性に部屋に入られるのは、非常にまずい。
何がまずいって理由はいろいろあるけど総じてまずい。
僕は思わず右腕を上げて女性の行く手を阻んだ。
「どしたの?」
僕がバリケードに、女性がかくんと小首を傾げる。
「いや、あの、部屋めちゃくちゃ汚いからさ。ちょっと片付けをさせてほしいというか」
「おさくんの部屋が破茶滅茶なのはいつものことでしょう?」
「それは、そうなんだけど……」
ぐうの音も出ない。
「安心して。そうだと思って、今日は部屋をピッカピカにするつもりで来たから! 電動ブラシっていうの? 最近買ったんだけどこれがすっごく優れもので……」
「わかった、わかったから。とりあえず、3分でいいから待ってくれない? ほら、男の一人暮らしって、いろいろと見られたくないものがあるというか」
「そんなことじゃ驚かないわ。おさくんが高校生の時に如何わしい絵本を買って来たときも、私、何も言わなかったじゃない?」
「いや、あれは自分みたいな人間にも性的な欲求があるのか調べるための実験材料で」
「新品のまま捨ててたわよね?」
「ほっといてよ」
「おさくん」
女性は何かを察したのか、僕の目をじっと覗き込んで来た。
この目は、昔向けられたことがある。
「私に、何か隠し事してない?」
「…………なんのこと?」
視線をふいっと逸らす。
それがまずかったか。
いや、多分僕がどんなにポーカーフェースが上手かろうと、この人は最初から気づいていたのだろう。
「このサンダル」
「あ」
「見た感じ女の子のものだし、足のサイズだっておさくんのより小さいわよね?」
万事休す。
僕は心の中で、タイミング良く目を覚ました彼女がこのやり取りを聞いてどこかに隠れてくれる事を祈った。
しかし同時に、僕の期待に沿う行動を彼女が取った試しがないことにも気づく。
むしろ、一番されたくない選択を取られ続けたような。
そしてそれは現実となる。
「おはよぅー……誰か来てるのー?」
どのタイミングで起きたのかはわからない。
ただ結果として、寝ぼけ眼の彼女がリビングと廊下をつなぐドアを開け僕と女性を視認した。
時間が止まったかのように彼女の動きが静止する。
余計ややこしいことになった。
僕は頭をかち割りたい衝動に駆られる。
彼女は僕を見て、母を見て、何か合点の言ったようにはっとした後、あわわわと動揺しながら叫んだ。
「望月くんが中学生に淫行しようとしてる!!」
「ちょっとちょっとちょっと」
僕は慌てて彼女の方に駆け寄る。
「言い訳なんて聞きたくない! 私、望月くんがそんな人だなんて思わなかった!」
「違うって、君は今、もの凄い勘違いをしている」
彼女の表情を真正面から見据え、強調して告げる。
「この人は……僕の母親だ」
僕の言葉に、彼女は一瞬きょとんとした。
そして、
「うえええ!!?? お母さん!? 望月くんの!? 嘘でしょ若すぎじゃん!!」
女性──母の幼い顔立ちが、彼女の納得を阻んだ。
そのため彼女の疑念を晴らすのにまた数刻の時を要した。
母は彼女の言葉に「あらあら嬉しいこと言ってくれるわねぇ」と頰に手を添え呑気な事を言っていた。
三連休の二日目は、休息日とは程遠いドタバタで幕を開けた。
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