第29話 彼女に潜む不穏な

 下北沢に帰って来た頃にはすでに6時を回っていた。

 流石に今から夕食を作るのはしんどいだろうから、僕は彼女に今晩は近所の定食屋で済まそうと提案した。

 

 彼女は僕の提案を快諾し、そのまま定食屋を訪れた。


 僕は疲労回復には豚肉が良いという科学的根拠に準拠し豚の生姜焼き定食を食べた。

 彼女は僕の意見をガン無視してオムライスの特盛りを頬張っていた。

 

 店を出た後、腹を摩りながら苦しそうにする彼女に言わんこっちゃないと苦言を呈しつつマンションに帰ってくる。


 お互いの部屋の前で軽く挨拶をした後、僕は彼女と別れて自室に帰った。

 たった10時間程度しか部屋を開けていないはずなのに、実家に帰省して戻って来た時みたいな感覚だった。


 リビングに入ってすぐ暖房をつける。

 今日は軽装だったこともあり身体が冷えていた。

 11月に入ってから冬の気配を頻繁に感じ始めた気がする。


 その後シャワーを浴び、寝巻きに着替えて時計を見ると8時。

 まだ早い時間だが、かすかに眠気が来ていた。

 慣れない登山で身体を酷使したことや、彼女との物理的な接触による精神疲労によるものだろう。


 それにしても本当に柔らかかった、って、何を思い出しているんだ。


 煩悩を振り払うかのように、先日買った5冊の文庫本のうちの2冊目を手に取る。

 これを読んだら今日は寝ようと思った

 ソファに腰掛けページを捲る。


 しばらく読み進め、右手に全ページの3分の1ほどの重なりができた辺りで無遠慮なインターホンが耳を劈いた。

 無視しようと思ったが、このインターホンを無視すると後がうるさい。

 RINEを開くも、インターホンのな鳴らし主であろう彼女からのメッセージはなかった。

 

 再び、インターホン。


 一体なんなんだと、僕は本を持ったまま立ち上がる。


「や、さっきぶりっ」


 ドアを開けると、寝巻きにサンダルを履いた彼女が片手をぱっと開いて立っていた。

 夜なのにここだけ太陽が出ているかのような笑顔を浮かべている。


「なんの用?」

「用がないと来ちゃいけないの?」

「ということは、用はないんだね」

「ちょっとちょっと、閉めようとしないでよ」


 ドアを掴まれた。

 寛大な心を無理やり作って、彼女の言い分を聞いてやることにする。


「友達なんだから、部屋に遊びに来る事だってあるじゃん」

「便利な言葉だね、友達」

「というわけで、おっじゃまー」

「あ、ちょっと」


 するりと腕の間を抜けられて、僕は彼女の侵入を許してしまう。

 頭を掻きながらリビングに戻ると、彼女はソファに陣取りテレビにリモコンを向けていた。


「つけていい?」

「だからそれ、つけながら言う事じゃ。ああ、もう」


 僕の困り顔を見て彼女が悪戯っぽく笑う。

 どうやらしばらく居座る腹づもりだ。

 なんなんだと思うもおそらく些細な風の吹き回しだろうから、そこに論理的な意味はおそらく無い。


「しばらくしたら帰ってよ」

「はいはいさー」


 彼女は疲労を気遣った僕の言葉を軽く流し、バラエティにチャンネルを固定しけらけらと笑い声をあげ始める。

 僕はふーっと疲れを吐き出すように息をついて、彼女の隣に座る。

 少し距離をとって。


「あれ、今日は珍しくソファ?」

「なんか腰が痛いから」


 おそらく登山で変な負担がかかったのだろう。


「あいやー、それはタイヘン。私が治してあげよっか?」

「いいよ、このくらい」


 これ以上、彼女に力を使わせるのは気が引けた。

 そんな僕の内心を知ってかしらずか、彼女は「そうかー」と口角を上げて応えた。


 お風呂に入ったばかりなのか、彼女の髪はかすかに湿り気があった。

 心なしか僕の使っているものとは違うシャンプーの香り漂ってくる。


 それらに気をとられないよう理性を固め、再度文庫本を開く。


 10分ほど経った。

 どうしたことか、なかなか物語の世界に入り込めないでいた。

 なぜだと考えた時、隣に座る彼女の笑い声や衣擦れの音が妙に気になっていることに気づいた。


 それも、なぜだ?


「望月くんって、普段テレビ見るの?」


 彼女が中身の無い質問を投げかけてきた。


「一切見ない」

「うぇっ? じゃあなんで買ったの」

「買ってない。実家に余ってたのを送られて来た。たまーに母親が襲来するから、その時の暇つぶしに置いとけって」

「なにそれウケる」


 彼女は口に手を当てて笑った。


「望月くんのお母さんって、どんな人?」

「地元企業の役員」

「へえすごい! 女性進出社会だねえ……じゃなくて、ここで聞きたいのは職業じゃなくて性格っ」

「性格は」


 もう久しく会っていない母について思い起こす。

 僕を育ててくれた肉親の片割れは、端的に言うとこういう人だと思う。


「のんびりしてて抜けてる」

「へぇー、意外!」

「そうかな?」

「役員さんやってるくらいだから、きっかりした人だと思ってた」

「僕も、なんであれで上に行けたのかわからん」

「望月くんもわかってないんかいっ」


 なんでやねんっと、彼女がチョップを放ってきた。

 お笑いの影響だろうか。

 テレビ禁止令でも出してやろうかと思った。


「というか、望月くんの親っていうと、もっとこう……」


 そこで彼女が言葉を切る。

 視線をうろうろさせ、えーとかあーとか言っている。

 おそらく失礼にならないような言葉を選んでいるのであろう。

 わかりやすい。


「ロボットみたいに無感情だと?」


 先んじて言ってやる。


「そこまでは思ってないけど」


 彼女は語尾に「笑」がつきそうな返答をした。


「多分、ロボットだったのは父親の方だね」

「お父さん?」

「うん。顔は母親、性格は父親ってよく言われてる」

「へえー、そうなんだ!」


 新事実発見っと、彼女は嬉しそうに手を合わせた。

 会話の流れ的には彼女の親についても振るべきなんだろうけど、僕はここで口を噤む。

 彼女の場合、自身の親に関連する話題を避けているように感じたから。

 おそらくそれは当たっていて、彼女はすぐに別の話題に移した。


「次はどこに行こうねえー」

「行く場所はもう決まってるんだ」

「もちろん!」

「今度はどこに?」


 訊くと、彼女はぬっふふーと不敵に笑った


「内緒! 当日のおっ楽しみー」


 明かされて然るべき情報だと思うのに、黙秘権を行使された。

 僕は眉を真ん中に寄せる。


「本気で行きたくないんだけど」

「大丈夫! 山登りじゃ無いから!」

「当たり前でしょ。何が楽しくて連続で身体を虐めなきゃならないの」


 至極もっともなツッコミを入れると、彼女はそうだねぇと言って笑った。

 笑えない僕は大きく息を吐いて彼女に尋ねる。


「これだけ教えて。インドア系?」

「お、察しがいい。ばっちりインドアだよ!」

「ほう」

「ちょっとヒントをあげると、もっと寒くなってからの方がシーズンかな」

「ほう?」


 スキーにでも連れていかれるのだろうかと思ったが、がっつりアウトドアなので多分違う。

 首をかしげるも、彼女はもうこれ以上の情報を明かす気はないようだった。

 僕は悩んだが、渋々ながらも行く方向へ気持ちが傾きつつあった。

 彼女がよっぽどクレイジーな思考回路をしていない限り、僕が絶対行かなさそうなセレクトはされまい。

 バッティングセンターや卓球場なんかに連れて行かれた時は速攻で帰ればいいだけだ。


 そしてここまでくると彼女がどこへ連れて行くつもりか答えを知りたいという知的欲求も湧いてきた。

 悩み考え抜いた末、最終的に少しばかり前向きな判断を下した。


「検討しておく」

「よし、決定!」

「検討の意味知ってる?」

「イニシャル同じだから似たような意味じゃない?」

「そんな理屈が通るわけ」


 完全に了承したわけではなかったのに、彼女の中では予定として刻まれてしまったようだ。

 ここ最近、彼女に流されっぱなしな気がするが、大丈夫だろうか。

 そのうち落ちたら洒落にならないレベルの滝に落っこちてしまいそうで不安になる。


 日にちはまた追って連絡するとのことで、この話はおしまい。


 それから他愛のないやり取りを終えた後、彼女は自然とテレビに集中し始めた。

 僕もようやくテキストの世界にのめり込み始め、残りのページをサクサクと読み進める。


 どのくらい経っただろうか。


 ピピッと、部屋の時計がお知らせ音を鳴らす。

 見ると、0時ちょうどだった。

 もうそんな時間かと思ったところで、僕は右肩に柔らかな衝撃を覚えた。


「えっ」


 温かい重みが肩に乗ったまま動かない。

 暖房の風にさらされた黒髪が鼻先で揺れる。

 くすぐったい、シャンプーと何かが合わさった甘ったるい匂いがする。


 現実に強制送還された思考が、僕の肩に彼女が頭を預けてきた事を理解した。


「な、なに、を……」


 してるんだ、と言おうとして口を閉じた。

 普段の息づかいとは違う、深めのリズムで奏でられる息づかい。

 もしやと思い、重たい門を開けるようにゆっくり頭を動かす。

 

 思わずハッとするほど整った顔立ちが、目の前にあった。

 しかしその表情はいつもの活き活きとしたそれとは対極的。

 目は両方とも閉じられており、形の良い唇から吐息がすうすうと漏れ出ている。


 要するに、寝てた。


 ……いやいや。

 いやいやいやいや。


 このタイミングで?


 冗談でしょと思うも、冷静に考えてみればおかしな話ではない。

 高尾山に登り回復能力も使用し疲れていないはずがないのだ。

 諸々の疲労が積み重なった結果だろう。


 ただでさえ僕も今日、何度も理性が崩壊しかけて大変な目にあっているのだ。

 この状態を維持するのは、僕の精神衛生的に非常によろしくない。


「ねえ、起きてよ」


 まず僕は声をかけた。

 起きない。


「風邪ひいちゃうよ」


 次に声をかけながら彼女の肩をさすってみた。


「んぅ……」


 いつもとは違う色っぽさを含む声が漏れ出る。

 僕の心臓が飛び上がりそうになっただけで、彼女の瞼が上がる気配は無かった。


 このまま一気に離れ、彼女がソファに頭を墜落させる衝撃で起こそうとも考えた。

 しかし、気持ち良さそうにすやすやと眠る彼女の寝顔を見るとそれも気が引けた。


 僕は思い悩んだ末、苦肉の策として彼女をそのままソファで寝かすことにした。


 そうと決まれば僕はまず、文庫本を机に置く。

 次に、幸いにも手の届く範囲に放置されていたリモコンを手に取りテレビを消した。 

 そしてそのまま彼女の横腹のあたりに右腕を滑り込ませる。

 腕を固定したままゆっくりと、彼女から身体を離した。

 拠り所を失った彼女の頭が鹿脅しみたいにカクンと傾く。

 ぎょっとしたが、彼女が目を覚ます気配は無かった。

 眠りが深いタイプなのだろうか、それともあの力を使ったら強制的に目が覚めない特性があるのだろうか。


 僕はひとまず密着状態から脱出できたことに安堵した。

 そのあと腕を慎重に下へ移動させ、彼女がソファに横になるようにしてやる。

 腕を抜き、身体が完全に自由になったところで大きく息を吐いた。

 

 心を落ち着かせた後、僕はクローゼットからスペアのかけ布団を引っ張り出して彼女にかけた。

 これで風邪をひくこともないだろう。

 念のため暖房は二時間後に切れるようにタイマーをかけておく。


 任務を終え、僕は座椅子に座り込んだ。

 なんだかどっと疲れてしまった。

 小説は残り30ページほど残りていたが、読む気は消え失せていた。

 

「むにゃ……」


 ソファから彼女の寝言が聞こえてくる。


 呑気なものだ。


 夜更けのリビングで異性が寝ていることは自分史において間違いなく一番の大事件だが、不思議と僕は落ち着いていた。

 現実味が無いだけだろうか。

 だとしたら妙な気分にならないうちにこの場から退散しなければならない。

 僕は自分のベッドで寝ようと立ち上がった。


 その時、意識を失っているはずの彼女の口から明確な意味を持った言葉が紡がれた。


「……おかあさん」


 一瞬、彼女が目を覚ましたのかと思い肩がびくっとなった。

 どうやら違うらしいとわかるも、彼女がなぜその単語を口にしたのが疑問が湧いた。

 

 いや、そもそも寝言に深い意味なんてないんだろうけども、それでも。


 明るい方向にしか向いていないと思っていた彼女の表情が僅かに歪んでいるように見えて、僕にはそれが妙に引っかかった。


 いつもは元気で明るくて笑みを絶やすことのない彼女が、この時はやけに弱々しく、放っておいたら消えてしまいそうに見えた。


 ざわざわ、ざわざわ。

 

 僕の中のなにかが、朽ち果てた吊橋のように揺れはじめた。


 まるで、雨の中に捨てられた子猫を発見した時のような──。

 

 ふと、自身の右手が彼女の頭に伸びた。


 僕の指先が、彼女の髪先に触れるか触れないかの距離まで伸ばされたところで、はっと我に帰る。


 ……今、何をしようとしたんだ、僕は。


 我に返らなかった場合の先の行動を想像し、僕は頭を振った。


 僕らしくない。

 どうやら相当疲れているようだ。

 でないと、先の自分の行動について論理的な説明がつかない。


 これ以上、ここにいるのは良くない気がした。


 リビングの電気を消した後、僕はのろのろと自室へと引っ込み、そのまま糸の切れた人形のようにベッドインする。


 眠気はすぐにやってきて、僕の意識を深淵の闇へと誘った。


 意識が途切れるまで、僕の中ではなにかが揺れ続けていた。

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