第28話 さらなる動揺


 中腹から山麓まで結ぶケーブルカー駅まで降りて来た。


「可愛いー!」


 黄色く小さい車両を目にした彼女は、両手を胸の前で合わせ今にも飛び上がりそうな勢いだった。

 一方の僕は登山口でこの車両と引き離された記憶が蘇ってきて、生き別れた娘と再会したような心持ちになっていた。


「早く乗ろ!」

「その前に、チケット買わなきゃ」


 はやる気持ちを抑えきれない彼女と共にチケットを買い求め、ケーブルカーに乗車する。

 木や草の香りに変わり電車の匂いが漂って来た。

 縄文時代から現実に帰って来たかのような気分になる。

 出発時刻ギリギリだったこともあり席は空いておらず、僕らは扉付近の空いたスペースを確保した。


「楽しみだねー!」


 まるで、ジェットコースターに乗っているような調子でわくわくしている彼女。

 

「よくそんなに元気でいられるね」

「そりゃあ、まだ元気だし!」

「本当に?」

「と、言いますと?」


 僕は先ほどから、いや、正確には彼女が力を使った時からあることが気に掛かっていた。

 話を聞こうじゃないかと向き直る彼女に、僕は尋ねた。


「前に力を使った時、君はかなり消費しているように見えた。今日は山を登った上に、力も使っている」


 区切って、一番伝えたい事を言う。


「疲れてるなら、休んでていいよ」


 きっと彼女も疲労が溜まっている。

 彼女の体力は無尽蔵のように思っていたけど、そんなことはない。

 テンションに差があるだけで、彼女の体力の持ち合わせは年相応の女の子くらいだと思う。

 事実、彼女は明るく振舞ってはいるものの、時たま表情に疲労の色が垣間見えていた。

 もっと言うと、無理に明るく努めようとしているように見えた。


「ぬはっ」


 彼女が変な声をあげた。

 そして、口元をだらしなく緩めニマニマし始めた。


「疲れで頭おかしくなった?」

「違うわようー!」


 今度はぷりぷり。

 相変わらず表情の変化が忙しない。

 と思ったら次はにっこり笑って、嬉しそうに言った。

 

「心配してくれてありがとう、でも大丈夫! 疲れた時こそ明るく、でしょ?」

「……ああ、そう」


 でしょ、と言われてでも同意しかねる。

 どうやら疲労時の振る舞いに関しても彼女の反りが合わないらしい。

 僕はそれ以上何も言わないことにした。

 一応、疲れがあることは認めていたので、これからの会話は最小限にとどめておこうと思う。


「ねぇねぇ!」

「君は僕の気遣いを一瞬で踏み躙るね」

「何の話?」

「なんでもない。で、なに?」

「今日、楽しかった?」


 自信作の料理の感想を求められているような、期待に満ちた眼差しを向けられた。


 僕は考え込む。

 山登りなんて提案された時にはどうなるかと思っていた。

 蓋を開けてみると、足は痛いし、こけるし、とても疲れた。


 でも、なんだかんだで充実した1日だったとは思う。

 これを楽しかったというのだろうか。

 あまりその方向に感情が向いたことがない僕には、それが正しいのかどうかわからない。

 かといって嫌な気分ではなかった。

 だから僕は、以前映画に行った後、彼女にRINEを送ろうとして消した文面をそのまま伝える事にした。


「それなりには」

「もー、素っ気ないなぁ」

「君は何を求めているの」

「もっとこう、楽しかったー! とか、また行きたいー! とか、ないの!?」

「タノシカッタ」

「心が篭ってない!」

「僕にどうしろと」

「自分で考えなさーい」


 言われてまた少し考えて、僕はこういう風に言い換えた。


「修学旅行の時よりかは、楽しかった」


 これは本心である。

 あの、一人で本を読みながら紅葉に眺められていた修学旅行の時よりも、今日は楽しかった。

 こんな表現で彼女が満足するかどうかはわからなかったが、それは杞憂だった。

 僕の返答は彼女が望んだものではなかったようだったけど、これはこれでアリ、という風な反応を返してきた。


「ぬふふっ、それはよかった!」

 

 春の日だまりのような笑顔の彼女

 僕は思わず息を呑む。

 彼女の笑顔なんて見飽きているはずなのに、なぜか体温が上昇し鼓動が弾んだ。


 おかしい。

 先ほどの下山途中、彼女に傷を癒してもらった時からどうも胸の調子が芳しくない。

 これはよくないと、理性にさらなる厳重体制を呼びかける。

 そして彼女から視線を逸らすため、僕は特に調べ物があるわけでも無くスマホを取り出した。


 その時、ケーブルカーが発車の汽笛を鳴らした。


 わんぱくな子供達や仲睦まじいカップルが一斉に窓の外へと目を向ける。

 その様子を微笑ましく眺める彼女を、スマホの陰からちらりと伺う。

 やっぱり可愛いな、と思った。

 って、何見ているんだ、僕は。


「ん、なになに? なんか面白い呟きでも見つけた?」


 視線に気づいた彼女が新しいおもちゃを見つけた子供のように聞いてきた。

 

「別に」


 僕は努めて素っ気なく返した。


 車両が動き出す。

 ゆっくりと、がたがたと音を立てるケーブルカーはそのまま落っこちてしまうのではないかという怖さがあった。

 運転手さんが、これより急斜面に差し掛かる旨のアナウンスを車内に響かせる。

 

 構える間も無く、ケーブルカーが件の傾斜に差し掛かった。


 高尾山のケーブルカーは、世界一の急斜を誇る事でギネスにも登録されているらしい。

 駅の案内板に書かれてあったその情報を、もっと重く受け止めるべきだった。


 想像していた以上に急な斜面だった。

 ゆえに、重力の方向が下方向から斜め方向に向いた。

 その重力の転換は、彼女の華奢な身体を僕の方に引き寄せるには充分だった。


「あっ」


 彼女のはっとした声。

 見慣れたシルエットが胸に飛び込んできて、僕は思わず両腕を胸の前から退いた。

 身体の前面部に軟接触する柔らかい感触。

 汗と埃の匂いが甘ったるい香りに塗りつぶされてから、彼女が僕に抱きつくように寄りかかってきた事に気づいた。


 彼女と僕との身長差はほんの少し。

 だから、彼女の頭が僕の肩口に乗るようにしてしな垂れている。


 周りの喧騒もケーブルカーのガタガタ音も、全て切り離されて僕と彼女しかない空間に迷い込んだかのような錯覚に陥った。

 耳を澄ませば、彼女の息遣いや心臓の音まで聞こえてきそうだ。


 あまりにも突然の出来事に、僕は思考と身体が硬直してしまう。

 こんなにも柔らかくて良い匂いのものがこの世に存在するのかと、語彙力の乏しい感想が頭に浮かんだ。


 彼女も動かない。

 僕の肩口に顎を乗せたまま動作を停止していた。


 接触していた時間はほんの5秒くらいだったと思う。


 掴むという意思が緩んで開かれた手から、スマホがこぼれ落ちた。

 ゴンッと決して小さくはない音が合図となる。


 周りの喧騒が蘇ってきて、僕らは正気に戻った。

 

「ごっ、ごめん!!」


 最初に声をあげた彼女がバッと身体を離す。

 彼女は驚いた顔をしていた。

 

「こっちこそ……ごめん」


 僕も半ば反射的に謝罪した。

 冷静に考えたら僕は何もしていないのだけれど、なぜか芽生えた罪悪感がその言葉を口にさせた。

 自分の心臓がうるさく鳴り響いていたので、彼女に僕の詫言が聞こえているかどうか憂慮した。


 彼女はこくこくと頷いた。

 ちゃんと伝わっていたようだ。

 不可抗力とはいえ、僕なんかと身体的接触をして不快に思わなかっただろうかと不安になったが、表情に嫌悪の色は見られず安堵した。


「また、助けられちゃったね」


 僕がスマホを拾ってから、彼女はえへへと照れくさそうにはにかんだ。

 

 その表情を見ると、僕の胸が再び不調を訴えた。

 頭の奥が一瞬、じん、と熱くなったような気がした。


「こんなの、助けたうちに入らない」


ごまかすように、無愛想な返答をする。

もう慣れっこだと言わんばかりに、彼女は口元を緩ませた。


「いやはー、びっくりした。すごい急斜面だったねぇ」


 彼女がおどけたように言う。

 おかげで微妙に気まずかった空気が緩和されたが、僕の内心は不安定なままだった。


 まさか、たった数秒の身体接触でこんなにも思考が乱されるなんて。

 きっと疲労のせいもあると思うが、己の理性の脆弱さを危惧すると同時に、今後はより一層注意して彼女との物理距離を測らなければならないと、僕は強く決心した。

  

 ちょうどそのタイミングで、車掌アナウンスが終点に到着した旨を車内に響かせた。

 

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