第27話 動揺


 お寺を出ると、山頂はもう目と鼻の先だった。


 しかしその道中は長い階段があったり斜面が急だったりで、僕は最後に太ももを痛めつけながらラストスパートをかける羽目になった。

 昨日の雨で水分が残る道を注意深く進む。

 暑さと筋肉の痛みのダブルパンチで心が折れそうだった。


 対する彼女は逆境に燃えていた。

 一歩一歩踏みしめるごとに勝気な笑みを浮かべて「この痛みこそ生きている証!」とまたわけのわからない言葉を発していた。

 余裕のない時こそ、その人の本性が垣間見えると言う。

 とすると、彼女はやはりネジの飛んでいる人なんだと思った。


 紅葉は相変わらず頭上を覆っていた。

 僕にそれらを堪能する余裕はなく、ただただ前を向いて歩くことだけを考えていた。

 一方の彼女は時々感想を口にしながら歩いていた

「あそこだけすごいカラフル!」とか、「あの紅葉、りんごより赤い!」とか。

 僕にとってはどうでもいいそれらも、彼女からすると宝石のような輝きを放っているのだろう。

 一体どんな光景が見えているのか、少しだけ気になった。


 ほどなくして、頭上を覆っていた赤が開けて一気に青が出現した。


 こんなにも広い空が見えると言うことはつまり、


「ついたーーー!!」


 僕の心中を、彼女が溌剌とした声で代弁した。

 全身から力が抜けていく感覚に膝が崩れそうになる。

 やっと終わったと、僕は今年で一番の安堵に包まれた。

 達成感よりも疲労が勝って、喜ぶ間も無くその場に腰を下ろそうとする。


「あそこから景色が見れるみたい!」


 座ろうとした瞬間、彼女がしゅたたっと走っていった。

 後ろでまとめられた髪が馬の尻尾のように揺れる。

 彼女に限界という概念はないのだろうか。


「すごーい!! 良い眺めー!! 望月くんも来て来て!」


 ぶんぶんと手招きして子供のようにはしゃぐ彼女。

 正直なところ休みたい気持ちでいっぱいだったが、無視してもこちらにやって来て強制連行されるのがオチだろう。

 疲労困憊の身体に鞭打って、展望スペースへと移動する。


「うお……」


 ひらけた視界に飛び込んできた光景に、僕は思わず声を漏らした。

 高尾山から見渡す東京は予想よりも遥かに絶景だった。

 昨日の雨で空気が澄んでいるのか、何十キロも離れた新宿の高層ビル群、そしてスカイツリーまで確認することができた。


 まさに一大パノラマ。


 絵にも描けない美しさに、僕はしばし疲れを忘れただただ圧倒されていた。


「来てよかったでしょ?」


 隣に立つ彼女の顔を見なくても、ニヤニヤと笑っていることは明らかであった。


「身体の痛みと疲労さえなければ最高だった」


 言うと、彼女はわかってないなぁとでも言うように肩をすくめた。


「この苦労がないと、この景色はここまで綺麗に見えなかったと思うよ?」

「普段飲むコーラよりも、たくさん運動した後に飲むコーラの方が美味しいってのと同じ理屈?」

「そういうこと!」


 彼女は満足げに頷いたあと視線を景色に戻し、んーっと両腕を伸ばして自然の息吹を感じ始めた。

 僕も正面を向いて、しばらくぼんやりと景色を眺める。


 どこまでも広がる広大な都市。

 地元の人口が10万人くらいだったから、比率だけで見ると東京は軽く100倍の規模があることになる。

 そんな街に来てもう半年も経つのかと思うと感慨深い。


「確か望月くんって、休学してこっちに来てるんだよね?」


 ふと、彼女が尋ねてきた。

 わかりきった事実をあえてなぞるような調子で。

 怪訝に思いつつも返答する。


「うん、そうだね」

「いつまでこっちに?」

「休学は1年だから、来年の3月までかな」

「じゃあ、あと5ヶ月か」

「10月も始まったばかりだから、実質半年だね」

「ふうん、そっか」


 珍しく、彼女の声にハリが無かった。

 不思議に思って横を見ると、彼女は交差させた両腕を手すりの上に乗せ浮かない表情をしていた。

 まるで、旅行帰りの夜行バスの車窓から、知らない街を眺めているような表情。


 どこか、憂いを帯びているように見える。

 

 しかしそれも数瞬のことだった。

 彼女は口元を緩めた後、身代わりの術のように表情を元に戻した。


「それじゃあ、望月くんが帰るまでいっぱい色んなところ行かなきゃだね!」


 いつもの弾んだ声でそう言って、ぱっと笑顔を咲かせる彼女。

 何事もなかったかのように振る舞うもんだから、僕は少々面食らった。


「今回みたいな肉体加虐系は勘弁してほしい」

「あれ、行くことに対しては意欲的?」

「拒否したところで強引に連れていくじゃないか、君は」


 非難めいた口調で嗜めると、彼女は小悪魔のような笑みを浮かべてぺろっと舌を出した。

 不覚にも可愛いと思ってしまったのは、疲れで理性が鈍くなっているからに違いない。


「でも最近、前みたいに本気で嫌がりはしなくなったよね」

「それは」


 口籠る。

 よっぽど無茶振りではない限り彼女の要求を受け入れるようになったのは、奥村さんとの取り決めの件があって……それだけ?

 

「今は、あんまり嫌じゃないから」


 気がつくと、口にしていた。

 嫌じゃなくなった、というよりも何も感じなくなってきた、という方が正しいかもしれないけれど。


 多分、慣れだ。

 以前よりも彼女の振り回しに対し抵抗がなくなってきた。

 その様相はまるで荒波に身を任せる木の葉のごとし。

 今となっては自然に夕食を共にしているし、今回の登山みたいに急な予定にも同行するようになった。


 という背景もあって、僕は先の「嫌じゃない」発言にこれといった深い意味を持たせたつもりはなかった。


 なかったんだけど。


 彼女はきょとんとした後、喜びの方向に感情爆発したような笑顔を咲かせた。

 そして、顔に出力し切れなかった感情を吐き出すかのようにバシバシと僕の肩を叩いてきた。


「痛い痛い、なにするの」


 抗議の目を向けると、彼女はにんまりと喜色を湛えたまま健康的な白い頬を人差し指で掻いた。


「ごめんごめん。ちょっとだけ舞い上がっちゃった」


 ゆらゆらと左右に身体を揺らす彼女。


「深い意味はないから」


 釘を刺しておくも、彼女はしばらく身体を左右に揺らしていた。

 彼女に妙な勘違いをさせてしまった気もするが、それを訂正するには今更過ぎる。

 このやりとりがきっかけとなって、今後さらなる無茶振りが敢行されないか祈るばかりである。


 しばらく、彼女と山頂でぶらぶらした。

 観光地価格の自販機で飲み物を買って二人で飲み、山頂を示す立て看板で彼女を撮影してやり、椅子に座って紅葉をぼんやりと眺めているうちに割と良い時間になった。


「そろそろ帰ろっか」


 彼女の声を皮切りに、僕たちは下山することにした。

 最後に展望スペースから景色を一望した後、上級者コースから下山する運びとなる。

 平和に初心者コースから下って帰ろうと提案してみたものの、蚊を叩き落とすかのように却下されたので渋々である。

 

 登りと違い下りは重力の仰せのままなので、上級者コースといっても楽なもんだった。

 とはいえ上級者コースは道も広くなく地面もゴツゴツで、石につまづいたりしたら怪我をするので注意しなければならない。


「人、いないね」


 登りの初心者コースとは打って変わって、視界の範囲に自分達以外の人の姿はなかった。


「わざわざ高尾山まで来て上級者コースに行こうって人は少ないんじゃ? ガチな人は別の山に行くだろうし」

「ガチな人ってどんな山登ってるのかな」

「その思考は非常に危険だからやめようか」


 高尾山とは比べ物にならない断崖山を死にそうになりながら登る自分の姿が思い浮かんだ。

 その未来だけはなんとしてでも阻止しなければならない。


 彼女はぷはっと笑って「冗談だよー」と手をひらひら揺らした。


「でも、なんか良いよね」

「なにが?」

「都会の喧騒から離れて、大自然の中を友達と二人きりで歩くなんて、すっごく素敵じゃない?」


 素敵はどうかはさておき、いつも満員電車や無機質な建造物に囲まれて過ごす身としては、こうして自然の息遣いに耳を澄ませるのが心地が良いことは確かだった。

 と思ったことをそのまま口にはせず、無難な返事をしておく。


「まあ、悪くはない」

「もぉー、そういう時は素直に素敵って言うもんなんだぞー」


 コップを割った子供をめっと叱りつけるように人差指を向けてくる彼女。

 僕は彼女の指を振り払って顔をしかめた。

 彼女はくつくつと笑った。


 平和なやりとりだった。

 あまりに平和なもんだったから、僕はこの後にちょっとした事件が起こるなんて夢にも思わなかった。


 いや、事故と言うべきか。


 後から思い返せば予兆はあった。


 高尾山を登ってい最中、彼女と”ヤツの存在”について触れていたし、登り口の立て看板にも注意書きが記されていた。


 ただ、この時の僕は彼女と足元ばかりに注意がいっており他の外的要因に対してあまりに無防備だった。


 故に、これから起こる出来事については、完全に僕の不注意が招いた悲劇に他ならない。


 ──蜂が一匹、背後からぬっと姿を現して向かって来た。


 地元が田舎でこの手の羽音には敏感だった事もあってか、先に存在に気づいたのは僕の方だった。


 振り向く。


 ミツバチではない、明らかに刺されたら痛そうなタイプの蜂が迫っていた。

 

 とはいえ僕は、下手に刺激をしない限り蜂は滅多に攻撃してこない事を本の知識で知っていた。


 だからそのまま騒ぎ立てず、事を済まそうとする。


 しかし、彼女はそうではなかった。


 蜂との遭遇は、彼女を混乱に陥らせるには充分だった。


「うえっ、ハチ!?」


 彼女の裏返った声が反響する。


 混乱に陥り、慌ててその場から距離を取ろうとした彼女。

 

 それだけなら良かったが、大吉を引いたはずの彼女にさらなる不運が舞い降りた。


 急に動いて体重が片方の足に偏ったためか、昨日の雨でぬかるんだ地面に彼女は足を取られた。

 

 華奢な体躯の軸がぶれ、前のめりになる。


 その様子が、僕にはスローモーションのように映っていた。


 僕はとっさに、彼女の腕を掴んだ。


 脊髄反射とも言うべき判断。


 以前、家の玄関のリュックに躓いた僕を彼女が引っ張って支えてくれた時のことを思い出す。


 ただあの時の床は平坦で、お互いにこける事なく踏ん張ることができた。


 しかし、ここは不幸にも傾斜のある下り坂。


 彼女の体勢を戻した代償として、僕の重心がずれた。


 浮遊感、急激に上を向きブレる視界。


 咄嗟に手を下に向けたまま、僕はお尻から地面に墜落した。


「だ、大丈夫!?」


 動揺を含んだ彼女の声が上から降ってくる。

 手をついたため臀部への衝撃はそこそこだったが、代わりに手のひらが痛い。

 そんなことよりも、彼女のことが気がかった。


「無事?」

「どう見ても無事じゃないのは望月くんの方でしょう!」


 叱責に怯むことなく見る限り、彼女はこけてもいないし蜂に刺されてもいなかった。

 ほっとするも束の間、彼女が正面にしゃがみこんで来て僕の両腕を自身の方に引っ張った。


「血、出てるじゃん……!!」


 緊迫した声で言われて、気づく。


 お尻は無事だったが、とっさに下に向けた手が外傷を負っていた。

 左の手のひらは少し血が出ているくらい。

 しかし右のほうが尖った石にでも当たったのか、わりと深い傷を負っており血が流れ出ていた。

 どうりで痛いはずだった。


「待ってて、すぐ治すから!!」


 すぐに彼女は目を閉じ、真剣な面持ちで唇を動かした。


「この傷を癒して」


 彼女の言葉が紡がれてから、じんじんとしていた痛みが潮のように引いていった。

 次の瞬きの後には、ボロボロだった両手のひらはすっかり元どおりになっていた。

 この感覚は、風邪を治してもらった時以来だ。

 見るのは3回目となる超常的な現象。

 本来であればその力の凄まじさに再度驚くべきだったのだろう。


 しかし、僕はこの時、別のことに思考を奪われていた。


 少し話は変わるが僕は普段、彼女の端麗な容姿によって非論理的な判断を下さぬよう、理性をガチガチに固めている。

 だがこの時、僕は怪我を負い生物の生存本能が理性よりも優位に立ってしまっていた。

 そして彼女が急接近してきた事も重なり、僕は理性が不安定な状態で彼女の容貌を間近で目にしてしまった。


 彼女は、可憐だった。


 後ろでまとめられた、きらきらと輝く黒髪。

 透明度の高いクリーム色の肌。

 じんわりと汗が滲み出たシミひとつない額。

 スッと通った形の良い鼻筋に、綺麗な線を描く眉毛の下には底深く澄んだ黒い瞳。

 人形のように微細で美しい顔立ちから視線を下に晒すと、しゃがんだことによって強調された二つの膨らみが伺えた。


 脆くなった理性がそれらの情報を受け止め切る筈がなかった。

 自身の両腕に触れるひんやりとした彼女の手の感触や、頭がくらくらしそうな甘い匂いが研ぎ澄まされた本能を直撃する。


 臨界点を、何かが突き抜けたような気がした。


「痛く、ない?」


 目と鼻の先から心配そうに聞かれて、はっとする。

 眼前には彼女の端正な顔立ち。

 その瞳には憂虞と動揺が浮かんでいた。


「大丈夫? まだどこか痛みが……」

「あ、ああっ、大丈夫」


 もう一度尋ねられて、言葉を返すことができた。

 驚いたことに、自分の声は裏返っていた。

 その事に彼女は目敏く気付く。


「なんか変。もしかして、まだどっか怪我を……」

「大丈夫だって」


 立ち上がり、両手でお尻を払う。

 彼女と距離ができたことによって理性が呼び戻された。

 手のひらを見せ、再度どこも痛む箇所はない旨を伝えると、彼女は「よかったああぁぁ」っと心底安堵した。


 その後、彼女は僕に謝罪と感謝の言葉を贈った。


「気にすることでもない。君が怪我するより、僕が怪我したほうが良いという合理的な判断をしたまで」


 素っ気なく返した。

 理性を再構築した故に出て来た返答だった。

 

 僕の言葉に彼女は背中に冷たい氷を入れられたかのように表情を強張らせた後、静かに俯き、


「ありがとう……」


 小さく呟いた。


 どこか様子がおかしかったが、僕にそれを気にする余裕はなかった。

 顔が熱くなっていることを悟られぬよう、僕は彼女に背を向け頬を手で覆い隠す。

 

 なぜ自分は動揺しているのだろう。


 なぜ。

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