第25話 彼女と高尾山
電車が京応高尾山口駅に到着する。
ここは高尾山の玄関口で、京応線の終点駅だ。
にも関わらず未だ多くの人々が乗車していることに驚きつつ、波に従い席を立つ。
「おおーっ、今日はウッディーデイだね!」
電車から降りてすぐ、彼女のテンションが急上昇した。
「わざわざ英語に直さなくても」
「木の日、って言うと語呂悪いじゃない?」
彼女の言葉の意味するところは、当駅が同沿線の他の駅と違い木をメインに建設されていることに起因する。
ホームと改札をつなぐ階段を降りている途中に木の香りが漂ってきたくらいだ。
「意味が同じならどちらでもいい」
「だめだめー! こういう小さなところで遊び心を持って、人生を豊かにしないと!」
「充分豊かだから別に持つ必要はない」
「それって私と一緒にいるから? きゃー照れちゃう!」
「からかわないでよ」
山を目の前にしてテンションがおかしい彼女。
胃が痛くなってきたのは、スープカレーのせいではあるまい。
「わっ、すごい!!」
改札を抜け広場に行き着くと、赤と黄色の世界が僕たちをを迎えてくれた。
神様が秋色の絵の具を天上から落としでもしたのか、地面も頭上も、色鮮やかな紅葉に染められている。
「駅前でも充分見頃だね」
「うんっ、すごく綺麗!」
「じゃあ帰ろうか」
「聞かなかったことにしてあげる」
踵を返そうとすると肩をがっしりと掴まれたので、仕方なくその場に留まってやる。
従順な僕を誰か褒めて欲しい。
「紅葉を見るのはいつぶり?」
彼女が尋ねてきたので、記憶の糸を手繰り寄せる。
糸は思った以上に長くて、返答までに数秒を要した。
「高校の修学旅行で京都に行った時以来かな?」
「いいねー京都! クラスのみんなと?」
「いや、僕は早々に班の人たちと別れたから一人だった」
「えっ?」
「もっと言うと、別に紅葉を見に行った訳じゃなく、読書をしていた場所にたまたま紅葉があった、というほうが正しい」
「それ、楽しいの?」
「別に普通。部屋で読書するのとそう変わらなかった」
「ふーん、そっか」
彼女は何か考え込むような表情をしていた。
なんだろう、と思う間も無く一迅の風が吹いた。
隣で彼女が歓声をあげる。
「望月くん、上!」
つられて顔を上げると、形の良い無数の紅葉がひらひらと舞い降りてきた。
空から紅の星々が落ちてきているかのような光景。
「きれいだねえ」と、彼女がしみじみとした声を漏らしている。
「よおっし、テンション上がってきたー!」
上がるわけがなかった。
紅葉狩りはそこそこに、彼女のメインは登山に切り替わったようだった。
広場を見回すとバッチリ登山仕様の格好をしている人も多く、自分達の装備で大丈夫なのかと不安を覚える。
「登山口は」
「みんなが向かってる方向に行けばいいと思う!」
「いや、こういうのはしっかりと地図を見てから行った方が確実」
「もー、慎重だなあ」
「人間は嘘をつくけど、公共案内は嘘つかない」
あたりを見回して、エリアマップがデザインされた木の看板を発見する。
どうやら駅を出て右方向へ歩くと登山口に至るらしい。
山頂まではどういうルートがあるのかとマップに視線を這わせていると、僥倖なことに登り口から山腹あたりまで伸びているケーブルカーを発見した。
「提案があるんだけど」
「ケーブルカーは使わないよ?」
死刑宣告を食らったような気分になる。
「まだ何も言ってない」
「ケーブルカー以外の提案なら聞いてあげる」
悪魔が宿っているとしか思えない笑みを浮かべる彼女。
ケーブルカーの利用を主張しても却下される未来しか浮かばなかったが、ここで押し黙るのは敗北を意味する。
「……この、一番楽な初心者コースで行きたい」
文明の利器を断ち切られた僕のささやかな反抗であった。
彼女は予想していたのか、頭にぴっと手をかざして「りょーかいっ」と答えた。
悪魔にも3寸の仏心が残っていたようだ。
「本当は上級者登山コースで登りたかったんだけどね」
「殺す気?」
「まー、下るときに通ればいっか」
「どうして玄人になりたがるの」
「せっかく来たんだから、最低と最高を見ておきたいじゃない?」
「足るを知る者は富む」
「なにそれ?」
「自分の能力に見合ったところで満足する人は心が豊かだって意味」
「豊かなの?」
「知らない」
「普通、逆じゃない? 自分の能力以上の事にも、どんどん挑戦していったほうが豊かになると思う!」
「その結果、僕の足の筋肉が豊かじゃなくなるんだけど」
「大丈夫だって。最悪、転がりながら降ればいいんだし」
「だから、殺す気?」
真顔で訊くと、彼女は大口を開けて楽しそうに笑った。
登山口にやって来ると、ケーブルカー乗り場が僕を手招きしているように見えた。
是非とも甘言に便乗したかったが、彼女の有無を言わさぬ推進力で歩行者コースへと引っ張られていった。
愛する娘と引き離される父の気持ちって、こういう感覚なんだろうか。
◇◇◇
雲ひとつない快晴に見舞われた今日は、11月にしては気温が高く全身から汗を拭き出るほどだった。
こまめに水分補給をすることで脱水症状を免れているが、ペースを乱そうものならすぐにぶっ倒れる自信がある。
初心者ルートとはいえしっかりと角度がついた砂利道は、普段運動しない僕の体力を確実に削りつつあった。
もう、1時間は過ぎただろうか。
時間を確認するとまだ20分ほどしか経っておらず絶望を覚える。
「風が気持ちいねー!」
彼女も額にじんわりと汗を滲ませていたが、僕と違って足取りは軽く、上機嫌に鼻唄まで歌っている。
体力の差というよりも、気力やテンションの差だろう。
「呑気で羨ましいよ」
「望月くんも、言ってた割には楽勝そうじゃん?」
「これで楽勝そうに見えるのなら脳神経外科に行ったほうがいい」
「眼科じゃなくて?」
「視覚情報を処理しているのは目じゃなくて脳だから、脳神経外科の方が……くっ……」
急に脳が不調を訴えた。
行くべきは僕の方だったか。
「もーっ、登山中に難しい話しない! はいっ」
「いらない」
彼女が飲みかけのスポーツドリンクを差し出してきたが、僕は受け取りを拒否した。
こんな時に甘いものを口にすると余計に喉が乾いてしまう。
僕は自分で買ったお茶を飲んだ。
「所々、泥濘(ぬかる)んでるから気をつけてね!」
「滑るようなスピードで歩いていないから大丈夫。それよりも、蜂の方が危険」
「蜂?」
「下の看板にあったけど、高尾山はよく出るらしい」
「へえぇ! じゃあもし、刺されでもしたら私が治してあげる」
「君のほうこそ気をつけるんだね。君が怪我した時、僕からは素人の応急処置しか提供できない」
彼女は自分自身を回復できない、という事実から放った何気ない一言のつもりだったが、彼女は予想以上に嬉しそうにした。
近くに寄ってきて、ニヤニヤと機嫌良さそうにし始める。
「なに?」
「んーん! 心配してくれるんだなーって」
「面倒事を増やさないで欲しいだけだ」
「むっふふー、そかそっかー!」
彼女がくるりと舞うと、甘ったるい匂いが漂ってきた。
僕は僅かに身を引いた。
またしばらく歩くと、前方に今までの傾斜とは比べ物にならない角度の坂が登場した。
僕は思わず歩みを止める。
「あれなに?」
「坂?」
「見ればわかる」
「あの坂を越えたら、山腹のケーブルカー駅みたい!」
「他のルートないの?」
彼女はにっこり笑って首を横に振った。
すっ転べばいいのにと思う。
「行こう」
「おぉっ、男だねぇ」
「どうせ苦しみを味わうなら、早いうちに行った方がいい」
だらだらとぐずっていると、登る気力さえも削がれて余計しんどくなってしまう。
僕は意を決し、そそり立つ急斜面に挑んだ。
歩くにしては角度が高い道を一歩一歩、重心を前にして登る。
さきほどよりも両足に乳酸が溜まっていく感覚がダイレクトに伝わってきた。
筋肉にしびれを感じて表情を曇らせる僕に対し、彼女は自身の両太ももをぱんぱんと叩きながら「いやー、今生きてる私!」と訳のわからないことを発していた。
暑さで頭がどうにかしてしまったのだろうか。
僕は彼女の体調を憂う。
急斜の距離は長くはなく、そこまで時を経ずにケーブルカー駅に到着した。
今日は紅葉シーズン休日のということもあって、駅は人でごった返していた。
これまでの道中でも多くの人とすれ違い、追い抜かれて行ったがここは比べ物にならない。
ど田舎出身の僕にとって、東京は山も人が多いんだなと軽い驚きを覚える。
「お疲れ! とりあえず中間地点だね!」
「まだ半分なのか」
「もう半分じゃん。どうする、休憩する?」
「飲み物だけ買っていく」
自動販売機の飲み物はどれも地上に比べ50円ほど高い観光地価格だった。
山に設置するだけで利益率35%も上がるんだなーと妙な感慨に浸りつつお茶を購入する。
「帰りはケーブルカーだね!」
「今から乗ってもいいよ」
「よし、行こっか!」
「聞いてないし」
山頂を目指してずんずんと歩みを再開する彼女。
僕は大きな息を吐き、重い足に鞭打ってついていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます