第7話 彼女と通勤? 通学?

 

 休日はこれといった波もなく、平穏に過ぎていった。

 元々風邪を引こうが引くまいが、休日にどこか遊びに行くような友人はいないため、いつも通りといえばいつも通りである。


 土曜の朝の時点で熱は下がっていたけど、自分のためにも彼女の言いつけを遵守し、食材の買出し以外ではマンションから一歩も出ることなく過ごした。

 加えてカップ麺も自制し、健康志向の象徴である生野菜を頬張った。

 散らかっていた部屋もそれなりに片付けられたし、本を10冊も読了できたのでそれなりに充実した休日だったと思う。


 あまりにも平和な休日だったから、先日の出来事は幻だったんじゃないかとすら思った。

 

 もちろん、それは思い過ごしだった。


 実際のところは、嵐の前触れに過ぎなかった。


 月曜日の朝。

 体調はすっかりと良くなっており、これならばいつも通りに出勤できそうだぞと安心する。

 身支度を整えリュックを背負い、部屋の電気を消したところでインターホンが鳴った。

 どこかで聞いたようなリズムに嫌な予感を抱きつつ、ゆっくりとドアを開く。


「やっ、おっはよ!」


 生命感に満ち溢れた声。

 制服姿のお隣さんは、感情がプラスの方向にしか向いていないかのような笑顔を浮かべ手のひらをこちらに向けた。

 対する僕は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


「どちら様?」

「あっ、ひっどーい! 夜を共にした私のこと忘れたの?」

「誤解を生むような発言はよしてよ」


 にししっと無邪気に笑う彼女は相変わらず可憐だった。

 後ろから差し込む朝陽すら彼女を引き立てるバックライトのように見える。


「そんなことより、体調はどう?」

「君が来たおかげで頭が痛くなってきた」

「うん! すっかり元気になったみたいでなにより!」

「人の話聞いてる?」


 スルースキルも健在なようだ。

 彼女に対する建設的なやり取りは諦めて、僕はさっさと本題に入る。


「なんの用?」

「一緒に学校いこ!」

「誰が? 誰と?」


 彼女はふふーんと、人差し指を自分と僕に向けた。


「どうして」

「友達と一緒に登校するのはおかしいこと?」

「君と友達になったつもりはないんだけど」

「もー、そういうこと言わない。私は君と一緒に学校に行きたい! それだけ!」

「僕はゆっくり自分のペースで行きたい」

「じゃあ私が歩幅を合わせてあげる!」

「…………」


 彼女の提案に対する反対意見を僕は持ち合わせていなかった。

 というより、あまりにも唐突な提案すぎて、頭が追いついてなかった。


 大きなため息をついた後、とりあえず外に出て玄関に鍵をかける。

 その間も、返答をまだかまだかと身体を揺らす彼女に一言だけ告げた。

 

「……勝手にすれば」

 

 どうせ断ってもついてくるのだろう。

 そんな諦めと共に呟かれた返答に、彼女は破顔一笑して後ろからついてきた。

 彼女が嬉しそうにするのが、息遣いとステップの音で伝わってくる。


 僕なんかと一緒に居たところで何も面白くないだろうに。

 彼女がなぜこうも構ってくるのか、謎だった。



◇◇◇



「……なに?」


 織田急線下北沢駅の地下ホーム。

 僕の全身をじーっと見つめてくる視線が気になって尋ねる。


「や、望月くんって、どこの高校に通ってるのかなーって」


 言われてすぐに、合点がいく。

 彼女は平日にも関わらず私服を着用している僕に疑問を抱いたようだ。


 僕の会社には制服の規定がない。

 流石に営業部の方々はジャケットやスーツを着用しているが、僕の部署の服装は自由となっている。


 またそれと同じように、都内では制服の指定がなく私服OKの高校も多い。

 だから彼女は勘違いしたのだろう。


「僕は高校生じゃない」

「え! そうなの!?」


 彼女が大仰に驚く。

 端正な顔立ちには動揺の色が見て取れた。

 

「じゃ、じゃあ……歳は……」

「21」

「まあまあ上だった!」

「どういう意味」

「いや、だって、歳同じくらいかなーって思っていたから」


 彼女の言わんとしている事はわかる。

 僕自身、自分がいわゆる童顔である自覚はあるし、他者からもそのような外見的評価を受けている。

 今だにコンビニで酒類を買おうとすると身分証の提示を求められるのだから、身内贔屓無しで実年齢より若く見えるのだろう。


 とはいえ流石に高校生くらいに見られていたとは思わなかった。

 これは喜んでいいのだろうか釈然としないでいると、彼女がむむむと腕を組んで考え込んでいた。


 心なしか、ちょっぴり残念そう。


「歳上さんだったかー。じゃあ、望月さんって呼んだほうがいいかな?」


 急によそよそしくなったのは彼女なりの年上に対する敬意だと思うけど、さんざん歯に衣着せぬ物言いをしておいて今更年長者扱いされるのはむず痒い。


「今さら態度変えないでよ。タメ口で構わないし、呼称も好きにすればいい」


 僕の無愛想な返答に彼女はしばしきょとんとしていたが、すぐに満面の笑顔に返り咲いた。

 この切り替わりの速さは電子回路並みかもしれない。


「ふふっ、ありがと! じゃあ、もっちーで!」

「それはやめようか」

「ええー! なんでさ!」


 なんでもである。


 説得の結果、普通に「望月くん」と呼ぶ事で両者合意協定が結ばれる。


 電車がやってきた。

 ドアが開き客が降りてから、通勤ラッシュの波に二人して押し込まれる。

 朝の急行新宿行きの車内は相変わらずの混み具合であったが、辛うじて人半分ほどのスペースは確保できた。

 この電車に乗っていれば10分ほどで新宿に着く。 


「今日もすごいねー」


 つり革にぶら下がりながらぼやく彼女。


「織田急はまだマシな方じゃ?」

「確かに。最京線とかほんと地獄ー」

「新宿で乗り換え?」

「そ! 学校の最寄りが池袋だから、苦しみは一瞬だけどねー」


 池袋駅といえば、渋谷、新宿と並ぶ都内有数のターミナル駅だ。

 やはり彼女は根っからの都会っ子なんだなと改めて認識する。


「望月くんは?」

「会社は新宿から歩いて10分」

「へ、会社? 望月くん、働いてるの?」

「うん、一応」

「へえー! そうだったんだ、てっきり大学生かと」

「大学は休学してる」

「えええ!? なにそれ、どういうこと!?」


 彼女が人目を憚らず大きな声を出すもんだから、隣でソシャゲに興じていたサラリーマン風のおじさんがチラリとこちらを見てくる。

 努めて申し訳ない表情を浮かべ軽く会釈しておく。


 向き直ると、彼女は手のひらを横に向けて顔の前に掲げる「ごめん!」のジェスチャーをしていた。


 僕はため息をついた。


 彼女に身分を説明しているうちに、電車が代々木上原駅に到着する。

 中央官庁街へと繋がる千代多線への乗り換えで多くの乗客が降りていく。

 先ほどとは打って変わってガラガラになった車内。

 僕は少しだけ、彼女と距離をとった。

 

 電車が発車する。

 代々木上原を出ると、新宿まではノンストップ。

 彼女との会話時間も残りわずかである。


 彼女が不意にトントンと肩を叩いてきた。

 振り向くと、ああ、これ、また例の顔だと察した。


「ねぇねぇ、今日の夜空いてる?」

「なにするつもり?」

「この前の約束! 一緒にご飯食べに行こうよ」


 首を後ろに倒して、ああ、そういえばそんな約束したんだっけと思い出す。


「あー! その顔、忘れてたでしょ!」

「忘れてたと言ったら?」

「お詫びとして、今夜は私が満足するまで付き合ってもらうよー」


 どうやら彼女のスケジュール帳には、すでに僕とのディナーが書き込まれてしまったようだ。

 正直、全然乗り気じゃない。

 しかし、今さら断ろうものなら想像を絶する糾弾が待っているに違いない。

 半ば諦めに近い心持ちで、彼女の引き起こす大波に大人しく流されることにした。


「そのお詫び、僕にはハードルが高いかもしれないね」


 せめてもの抵抗として、ささやかな皮肉を口にする。


「へ? どうして?」

「君の舌を満足させられるお店は、僕の中には無さそうだ」


 女子高生がマンションで一人暮らしという裕福さと、彼女の料理の腕前からして、舌の肥え具合も相当なものだろう。

 根っからの庶民舌の僕が選んだお店じゃ、彼女が満足するような評価は得られないに違いない。

 という意味を込めて放った発言に対し、彼女はぷくーと頬を膨らませていた。


「もー、わかってないなぁーっ。お店はぶっちゃけどこでも良いの!」

「どこでもいいんだ」

「大事なのは、そこじゃないから」

「どういう意味」


 率直な疑問を投げかけると、彼女は顔を近づけてきて、にへらっと表情を崩して言った。


「望月くんと、もっとお話しできたらなーって」

「僕と?」

「そ、君と」


 にっこりと笑う彼女から、嘘や欺瞞といった色は感じられない。

 その瞳には、純粋で無垢な期待が浮かんでいるように見えた。


 ぽっと胸に沸いた疑問が、ひとりでに僕の口を動かす。

 

「ねえ」

「んぅ?」


 ──なんで僕に構うの。


 喉まで出かかっていたその問いは、間も無く新宿に到着する旨を知らせる車内アナウンスによって阻まれた。

 

「……なんでもない」

「ええー、気になるう」


 半ば勢いで聞こうとした問いを改めて尋ねる気概の持ち合わせは、僕には無かった。


「ま、いいや。じゃあ、今夜よろしく! 何時になりそうかRINE入れといてね!」


 彼女の返答に、ほっとする。

 深く追求されないことを助かったと思う反面、結局明かされることの無かった答えに一抹のモヤが残った。


 新宿駅に到着する。

 世界一の利用者数を誇る当駅は相変わらずのごった返しぶりで空気が重くなった。

 乗り換えの時間があるのか、彼女はドアが開くなり「それじゃまたっ」とだけ言い残して人混みの中に消えて行った。


 僕は他の人々と同じ速度で、新宿駅構内を歩く。

 そして、彼女が僕に言ったことを小さく反芻した。


「もっとお話しできたら」


 僕みたいになんの面白味のない人間と話してなんになるんだろう。

 彼女の真意を会社に着くまで考えてみたけど、結局分からず終いであった。

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