第3話 彼女の訪問

 

 ──ピンポーン。


 無遠慮なインターホンの音色が、深底に沈んでいた意識をゆっくりと浮上させる。


 どれくらい寝てたんだろう。


 立ち上がろうとして、自分がまだリュックを背負ったままである事に気がついた。

 意識を朦朧とさせながら断片的な記憶を探り出し、帰ってそのまま玄関で寝落ちした事を思い出す。


 変な体勢で寝たためか、やけに首が痛い。

 やっとのことで立ち上がり、重い動作でリュックを下ろす。

 相変わらず絶不調だが、睡眠を取ったことによってほんの少しだけマシになっていた。

 

 ピンポーン。


 もう一度、インタホーンが鳴った。

 寝ぼけた頭のまま亀の動作でドア開けて──目を疑った。


「やっ、昨日ぶり!」


 元気の良い声。

 屈託のない笑顔。

 長く、絹糸のように繊細な黒髪がさらさらと揺れる。


 お隣の女子高生が、そこに立っていた。


 学校からそのまま来たのか。

 細身で女の子にしては身長が高めだが、出るところはしっかり出ている彼女の体躯にブレザーの制服はよく似合っていた。


 体調を崩している様子はなく、とても血色の良い顔をしている。

 だいぶ雨に打たれていたのに、僕と違って風邪は引かなかったようだ。

 生活習慣の差なのか、彼女がもともと風邪なんか引かない健康体なのか。

 おそらく後者だと予想する。

 

 視線を下に移すと、見覚えのあるビニール傘が目に入った。

 

「それを、返しに?」

「ご名答! いやはー、お隣さんで良かったよ、ほん……と?」


 彼女の表情が静止する。

 おそらく昨日の僕の顔の血色を思い出し、今のそれと見比べて、明らかに異常だという結論を下したのだろう。


「なんか、すごくしんどそうなんだけど、大丈夫?」

「ん……あぁ、問題、ない。いつも、通り」


 そう取り繕うのにはあまりにも無理があった。

 顔は真っ赤で息を荒くし言葉は途切れ途切れ。

 その上身体を支えるように壁に手をついている僕の状態を見て、彼女はすぐに察しがついたようだ。


「ほんっとごめん!! 」


 小さな頭が勢い良く下げられ、甘ったるいシャンプーの匂いが玄関に散らばる。

 謝罪はいいから少し声のボリュームを下げて欲しい、なんて場違いな思考を抱いた。


「私のせい、だよね……」


 恐る恐る上げられたその表情には、焦りと罪悪感の色が浮かんでいた。

 ずっと笑った顔しか見てなかったから、こんな表情もできるのかと妙な心持ちになる。

 同時に、この流れは非常に良くないな、と思った。


「違う……君のせい、じゃ」

「でも! 私に傘を貸したから……」

「僕が勝手に、やったことだ……だから、気にしないで、ほしい」


 傘を貸したのは完全にこちらの自己満足だ。

 それなのに罪悪感を持たれるのは非常に居心地が悪い。

 

 しかし、彼女は納得がいかないと、形の良い唇をきゅっと結んでいた。

 折り畳み傘を握る手に力が篭っている。


「今日のところは、帰ってほしい」


 自分でも驚くくらいローテンションな声で懇願する。

 正直なところ、これ以上言葉を発するのも辛かった。

 仮眠をしている間にチャージされたわずかなエネルギーを振り絞って、今すぐ布団に包まれなくてはならない。

 流石に家の中までは入ってこないだろうと、リアクションを待たずして彼女に背を向けた。


 ──ちゃんと足元を確認しておけばよかったと、後になって思う。

 

 一歩踏み出したところで何かに躓いた。 


 先ほど床に置いたリュックサック。

 熱と倦怠感で注意力が散漫になっていたのだろう。

 我ながらなんと迂闊な。


 後悔先立たず、受け身はもう間に合わない。

 そのまま床に倒れるだろうが、フローリングの床だし、怪我することはないだろう。

 多少の痛みはあるかなと思いつつ、重力に身体を任せて力を抜いた。


 しかし、後方からぎゅっと手首を掴まれ強制的に元の体勢に戻された。


 重力に争う感覚。


「これで放って帰れるわけないでしょう!?」


 どうやら彼女は怒っているらしかった。

 力が抜けて倒れそうになる僕を、細い腕が支える。

 ふわりと甘く良い香りが鼻腔をついて、さらに熱が上がりそうになった。


 もはや言葉を発する力も残っていない。

 ぼんやりとした頭で状況を整理しようとするも、熱と倦怠感に邪魔されて思考が働かなかった。


 僕は彼女に引っ張られるまま、部屋へと誘導されていった。


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