張り詰めていた緊張の糸が切れ力が抜けたせいなのか、足元に張り巡らされている木の根に躓いたからか、踏みしめていた筈の地面が近づいてくる。

「──ッ!?」

 ドシャリ、とすんでのところで受け身をとる。

 足と腕に痛みを感じながら、鬱蒼と生い茂る木々の一部に身を隠し、死体からかっぱらってきた血液混じりの水を飲みながら小休憩をとる。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 ああ、あの時からどれだけ走ってきただろうか。

 息を整えるために上を見上げると、空を覆う漆黒が見える。森の地形なぞ全く分からない上に世界地図も持ち合わせていないので何とも言えないが、少なくとも多少は北へ向かっている……はずだ。

「はぁっ……はぁっ……」

 心臓が早鐘を打ち、血が全身を巡る音が耳に響く。

 それと共に荒々しい呼吸が少しずつ、だが確実に緩やかになっているのが分かる。

「はぁっ……ふぅ……にしても、静かすぎやしねえか? その上未だ俺に一切の危害が無いと言えるなんて……どういう事だ? 奴らなら一体でも来れば確実に俺を捕縛するなり……煮るも焼くも好きにできるってのに……」

 そう、この黒い森も広がっていた屍山血河同様、いやそれ以上に静寂に満ちた空間と化している。

 また、何処までも黒い葉は一切の陽光を受け付けないため非常に暗く、更に静けさを際立たせる。

「……おかしいな。一体何が起こってるってんだか……まぁ、一先ずそんなわかんねえ事考えたって意味ねえし、飯にでもするかな。野生動物すらも居ないってなると不味いけど……何かしらはいて欲しいなぁ……まじで」

 一切の生命の気配を感じない木々の間で、一人呟いてはみるが……やっぱり何もいる気配は無い。

 苦肉の策だがやってみるか。

 無駄だったらそこまでだし、仮に魔王軍が来ても多少なら逃げられるくらいに体力は回復した。

 運動後の気持ちよさも相まって、俺は名も知らぬ同僚からくすねてきた鉄剣を自らの左手首にあてがい──無造作に引く。

 手首からとめどなく溢れ出る鮮血が地面を赤黒く濡らし、辺りに血の香りを充満させる。

 自分を自分たらしめる何かが抜けていく虚脱感。

 それに従ってその場で寝転がると同時に目を瞑り、五感の中でも聴覚に意識を集中させてみる。

 ……

 …………

 ………………

 無音。圧倒的なまでに無音。

「何も来ないか。本当にここは戦線から外れてるんだな。取り敢えず背に腹は変えられないし、エネルギー補給も兼ねて携帯食料でも食いますかな」

 赤黒く染まった包装紙を雑だが極力音は出さずに破り捨て、パサパサのそれを無造作に食らう。

 やはり、不味い。

 非常に不味いし、口の中の水分の大半が持っていかれる。例えるならばアンチョビにケーキ、酢を混ぜて煮込んだような味がする。

 その上、配給される量も少ないときた。

 可能なら二度と食いたくはないが……ここら辺に生物の気配がない以上暫くはこれで食いつなぐしか無いだろう。

「………………よし、行くか」

 若干赤いコンパスで方角を確認。クソみたく見にくいけどギリギリ方角を判別できるので、そちらに従って歩み始める。

 急がないと再びここが戦場になる可能性が高い。

 そうなる前にさっさと移動しないと……

 生への執着か、何かへの恐怖かは分からないが、自然と足が早く動く。

 効かない視界とゆらゆらと動くコンパスを頼りとし、静寂と暗闇の中を駆け抜ける。

 話し相手も、生き物も、何も存在しない孤独と戦いながら、次第に足は走り始める。

 孤独が、絶望が、寂寥が……様々な感情が湧き上がってくるが、胸を掴んで必死に抑え込む。

 止まってしまえば、狂気に堕ちてしまう。

 それは嫌だ。絶対に嫌だ。

 大丈夫、俺は正常だ。常に俺は正気だ。

 次第に呼吸が荒くなり、息を吸って吐くことすらも辛くなる。

 まともな水分を補給してないから、口の中がネバネバしてくる。

 でも、走らなければ生き残れない。

 ただ一つの希望絶望である生だけが『俺』を『俺』として成立させてくれる。

 生きるため、どうにか命を繋ぐため、背筋を伝う怖気を無視して逃げなければならない。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 ──何時からだったろうか。

 血を、臓物をみて恐怖を感じにくくなったのは。

 復活した時、安堵と絶望を同時に感じたのは。

 何度も、何度も何度も死に続けて、恐怖に背を向けるようになったのは。

 次々と事切れていく彼らを見て──

「──ッ!?」

 突如、目の前が爆散。

 光は無く、音も無い完全な奇襲。

 当然身体は爆風に煽られ、吹き飛ばされる。

 片腕片脚が吹き飛ばされ、内臓が空気に触れている感覚がある。火傷は無いが、打ちつけた背中が非常に痛い。

 爆風によって出来た穴から光が漏れ、今が何時か大まかに推測出来る。

 ──そうか、もう夜になっていたのか。

 その穴から、何かがゆっくりと降りてくる。

 散り散りになる意識を何とかかき集め、数刻ぶりの光によって消えかかっている視界にソレはいた。

 人のような形をしているものの、その背には大きな羽が生えている。

 あぁ、こんな特徴的な種族なんてたった一つしかない。畜生。ここでババを引いちまったか……

「ははっ……クソッタレ……」

「……」

 ──夜の支配者たる数少ない種族。『吸血鬼』。

 魔王軍の中でも随一の能力を保持するバケモンの中のバケモン。

 圧から違う。生物としての格が違う。

 ソレが、フワリと目の前に降り立つ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る