第2話 身替わりの義弟
逃げようとした脚に夜着の裾がまとわりついて体が傾ぐ。床へと倒れそうになった体をレジェスの腕が受け止めた。抱きしめられて、心が恐怖に委縮する。
「嫌!」
「大丈夫だ。何もしないよ」
腕はすぐに解かれた。見上げると緑柱石の瞳には憂いが滲み、口元には苦笑が浮かんでいる。
「……ごめんなさい……」
そうだ。レジェスには婚約者がいる。兄の妻である私を抱くことは嫌なはずだ。
「教えて! レアンドロは何を考えているの? 誰も私に教えてくれないの」
問い掛けた私をレジェスも憐れみの目で見つめるだけだ。
「……それも含めて話をしようか」
レジェスの手が私の手をそっと包む。幼い頃とは違う大きな手。細い指や手はあちこちが硬い。
「どうかした?」
「……昔とは違うのね……」
「ああ。護身用の剣術を習っているんだ。騎士と同等まではいかないけど、まぁ、それなりってところかな」
レジェスが昔のように明るく言葉を紡ぐ。明るい表情の中、瞳の中には陰りが見える。
私の為に無理をしている。そんな気がして、私は抵抗することをやめてカウチへと並んで腰かけた。
「何か飲む?」
「……いいえ」
断ったのにレジェスは私の前に銀のカップを置いて、陶器の瓶から淡黄色の液体を注ぐ。
「林檎の果汁だ。昔、好きだっただろう?」
カップに口を寄せると爽やかで豊かな芳香に包まれる。ほんの一口のつもりが飲み干してしまった。
「あ……」
羞恥が頬に集まっていく。飲み物を一度で飲み干してしまうというのは、貴婦人にはあるまじき醜態だ。
「私の……僕の前では昔のままで構わないよ。ろくに食事をしていないと聞いていたから心配していたんだ」
そう言ってレジェスは私のカップに再び果汁を注ぐ。
「……ええ」
レアンドロが行方不明の間も食事量が減り、帰って来てからも戻らなかった。滋養の薬を飲んで生きてきたようなものだ。
「随分痩せてしまったね」
「……レジェスだって、痩せてしまっているわ」
「僕は少し忙しかっただけさ。すぐに元に戻るよ。それよりもリカルダだ。昔みたいに、もう少しふっくらした方がいい」
そっと頬を指で撫でられると子供の頃を思い出す。幼い頃、レジェスに会うたびに頬を優しく触れられた。それがなくなったのは、私がレアンドロと婚約した十三歳の時からだ。
「……そうね……痩せすぎたのかもしれないわね」
レアンドロが行方不明になってから、私は痩せてしまった。もしかしたら、レアンドロの好みから外れてしまったから、気持ちが冷めてしまったのだろうか。
差し出されるままに果汁を飲み干し、テーブルに用意されていた果物を口にする。食べやすい大きさに切られて美しく盛りつけられた果物が喉を潤し、胃を満たしていく。
はしたないと思いながらも手が止まらない。四分の一を食べた所でようやく体が満足感を示した。いつもの食事量に比べるとかなり少ないものの、十分食べたように感じる。体が温かくなり、眠気が押し寄せてきた。
「今夜は眠ろうか」
微笑むレジェスが、私の手を濡れた布で優しく拭いている。そういえば、幼い頃に寝込んだ時もレジェスはこうして私の世話をしてくれた。
大人になってしまったのだから、夫以外の男性の世話を受けるべきではない。そうは思っても一度自覚してしまった体の疲れが抵抗する気力を削いでいる。
「……でも……」
私は初夜の務めを果たさなければ。明日の朝、宰相や大臣たちに初夜の血を確認されると聞いている。
「心配しなくていいよ」
レジェスは自分の左手の小指を噛んで、滲んだ血を枕元に置かれていた白い布に染み込ませた。
「あとは兄が何とかするだろう」
それでいいのだろうかと疑問に思いながらも、私はレジェスに促されるままベッドで眠りに落ちた。
◆
人の声で目が覚めると、ベッドの天蓋から垂れた布越しに数名の人影が見えた。誰がと考えた所で「初夜の血を確認致しました」という宰相の声が聞こえ、人影が扉の方へと向かって出て行く。
部屋の中央に一人佇んでいるのは、間違いなくレアンドロだ。垂れ布越しでも、私が彼を間違うはずがない。
溜息を吐いたレアンドロも扉へと向かっていく。私は飛び起きて垂れ布を開いた。
「レアンドロ! 待って!」
「今日は君の公務は何も入れていない。眠っていればいい」
私の呼びかけに微かに振り向いたレアンドロは、その一言だけを残して出て行った。
結婚式の翌朝が、これ程までに寒々しいものだとは想像もしていなかった。レアンドロに言われたとおりにもう一度眠ろうとしてみても、目が冴えている。
一体私の何が悪かったのだろうか。やはり痩せすぎてしまっているからだろうか。落ち着いて自分の手を見ると骨が目立つと気が付いた。この三年と三カ月、レアンドロのことで頭がいっぱいで、自分のことを考える余裕は全くなかった。
もとの健康的な体に戻れば、レアンドロも私を見てくれるかもしれない。希望を見出した私はベッドから出て呼び鈴を手に取った。
王妃になっても、部屋が変わっただけで私の日常に特に変化はない。生まれてすぐに王族との婚姻が決められていた私には、王城に居室を与えられ、公爵家から侍女が、王家からは護衛として騎士が付いている。
慣れ親しんだ侍女たちに身支度をされ、背筋を伸ばす。私は王妃になるために教育を受けてきた。今日からは王妃として貴婦人を率いる責務を背負う。
「王妃様、ご成婚おめでとうございます」
「ありがとう」
並んだ侍女たちの祝いの言葉に、辛うじて微笑んで返す。昨夜、何も無かったとは決して口に出せない。愚痴の一言すら許されないことが、心に重くのしかかる。
王城内に掲げられていた喪章はすべて祝いの紋章へと変わり、華やいだ雰囲気が漂う。王城内を歩いていると、実の娘のように目を掛けてくれた先王のことが今更ながらに思い出される。
本当に突然の死、だった。レアンドロが戻ってきたことに喜び、次代の王はレアンドロだと宣言した翌日、晩餐会の途中で胸を押さえて倒れた。事前の兆候が一切なく、一時は毒殺も疑われたものの、料理は完全に毒見されておりワインや飲み物からも毒物反応は出なかった為に、病死と判定されている。
王城内の王族専用の食堂へ向かうと、一人分の朝食の席が整えられていた。レアンドロは自分の部屋で食べているらしい。広い部屋の中、たった一人での味気ない朝食を終え、私は居室へと戻った。
「騎士アルムニアの替わりに、新しい護衛がつく? 何故かしら?」
「昨夜、勤務直後に倒れたと報告を受けています」
薄茶色の髪、緑の瞳の侍女のベロニカが静かに答える。幼い頃から仕えてくれている信頼のおける二十六歳の女性だ。
「それは大変だわ。すぐに回復できそうな病なのかしら」
「それが……先代の王と同じ心臓の病らしく、医術師から長期の静養を指示されたそうです」
心臓と聞いて背筋が冷える。体が悪くなったのなら仕方ない。よく休むようにと手紙を添え、見舞いの品を手配するようにベロニカに頼み、護衛の入室を許可した。
「おはようございます。本日も御身の盾となりお護り致します」
茶色の髪、茶色の瞳の護衛ベルトラン・サラゴサは今年28歳になる騎士。騎士団の制服である紅い詰襟の服が凛々しい。
成婚の祝辞と毎朝のお決まりの挨拶の後、手渡された新しい騎士の身上書に目を通すと、その年齢に目が留まる。
「十六歳?」
この国の騎士としては若すぎる。そうは思っても、三年前の〝黒い森〟での捜索で、長年勤めた騎士が何名も命を落とし、大きな傷が原因での引退を余儀なくされている。王族を護衛する人数すら足りずに、平民の優秀な兵士を騎士として登用することも頻繁に行われている。
「隻眼なの? どうして?」
「六年前に起きたイレウト山の山崩れに巻き込まれ、両親と妹、左目を失ったそうです」
「それは……痛ましい話ね……」
イレウト山での件は、この国の者なら誰でも知っている災害だ。一夜にして一つの山が崩れ、多くの村が被害にあった。今でも免税措置が続けられる程、被害の回復は遠い。
被災後は孤児の為の救護院や神殿を転々とし、独学で五カ国語を習得した秀才。昨年、騎士団による巡回採用試験を最高成績で通過し、身体能力も優れている。貴族ではないものの、家名を持っているということは古くから続く家の者。これまで見た騎士の身上書の中では、身分を除けば最高水準だ。
「優秀な者なのね。いいわ。呼んで下さい」
二十歳の私は子供の頃から家庭教師がついてやっと三カ国語を身に付けた。独学でというのは驚きもあり、興味もある。
血赤色の髪に茶色の瞳、左目には茶色の革で出来た眼帯を掛けた少年騎士が部屋に入って来た。紅い騎士服が不思議と体に馴染んでいる。まだ成長途中なのだろう、私と身長がほとんど同じ。細身の剣を身に付けている。
「騎士クレト・イリアルテと申します」
片膝を着き、差し出された白い手袋を着けた手へ私の手を乗せると、クレトが目を見開き頬に赤みがさしていく。
「……何か?」
護衛騎士の誓いの言葉が続くはずなのに、クレトの右目は私を見つめたまま。よく見ると茶色の瞳の中に赤が混じる不思議な色だ。
「……クレト!」
ベルトランの鋭い声に、クレトは大きく体を震わせて顔を真っ赤にしてしまった。
「あ、あ、あの……いえ、その……申し訳ありません。緊張し過ぎて誓いの言葉が頭から消えました」
眉を寄せ頭を垂れる姿は子供のようで可愛らしい。
「忘れてしまったのなら構わないわ。騎士クレト、今日からよろしくお願いしますね」
「はい! 僕の命に代えても必ず王妃様をお護り致します! 安心して下さい!」
クレトの笑顔が何かに似ていると考えて思い出した。子犬だ。目を煌めかせ、ぱたぱたとしっぽを振っている子犬のよう。強く握る手は子供としか思えなくて不快には感じない。
「王妃様、申し訳ありません。他の者に交代を求めます」
私の手を握りしめていたクレトの手を掴んで引いたベルトランの表情は硬い。
「慢性的に人員が足りていないと聞いています。替わりはいるのですか?」
「……それは……」
ベルトランが言い淀む。
「騎士クレト、後程騎士ベルトランから騎士の心得をしっかりと教わりなさい。それで今の無礼は不問とします」
「はいっ!」
背筋を伸ばし直立する姿は怒られた子供のようで、思わず苦笑が漏れてしまう。
「それでは、お茶を」
朝食後のお茶も、これまでと変わらない習慣だ。ベロニカがガラスで出来たポットにお湯を注ぎ、時間を計る。お湯の中で色とりどりの花が開き、色付いて行く。
今日のお茶は淡い緑色。疲労回復と血を増やす効果がある花茶だ。ベロニカが私の顔色を見て判断したのだろう。
お茶はガラスで出来たカップと、毒見用の二つの容器に注がれる。容器に入れられたお茶に毒と反応する薬を入れても何の変化もない。毒が入っていれば赤や紫に変色すると聞いてはいても、これまで一度も見たことはなかった。
毒見役の侍女がカップから一口を飲み、味を確認してからテーブルに戻される。私がレアンドロの婚約者となってから、何かを口にするたびに行われる儀式のようなものだ。
カップを持ち上げた途端、ほんの一瞬小さな青黒い光が目に入った。何がガラスに反射したのだろうと考えながらも、口元へと運ぶ。
「王妃様、ちょっと待って」
素早く近づいてきたクレトがカップを持った私の手を止めた。ベルトランが顔を青くしてクレトを咎める。
「騎士クレト、何か理由があるのなら聞きます」
貴婦人に騎士が不用意に触れてはならない。騎士であるなら、それは理解しているはずだ。
「お茶の色が異常に見えました」
「このお茶の色が?」
そうはいっても、皆の目の前で毒の検査は行われている。
「……もう一度検査をお願い」
ベロニカが私のカップを受け取り、再び同じ動作を行う。それでも全く異常は見られない。部屋の中にいた誰もが安堵の息を吐いた時、異常が起きた。
「……っ!」
毒見役の侍女の顔が赤くなり、胸を押えて倒れた。控えていた他の侍女の悲鳴で部屋の中が騒然とし、私はクレトとベルトランに護られながら別室へと移される。
ベロニカが椅子を整え、私はすぐに移動できるように浅く腰掛けた。
「……何が起きたの?」
「んー。たぶん、毒じゃないかなって思うんだけど……」
「クレト、言葉を改めろ」
ベルトランが厳しい声で咎めると、クレトは肩をすくめて天井を仰ぐ。
「……僕の見た所、あれは土属性の精霊の毒です」
「精霊の毒? そんなものは聞いたことがないぞ」
ベルトランの瞳が探るようにクレトを見つめる。私も初めて聞く言葉だ。
「僕がいた村では有名でした。怒りの感情に染まった高位の精霊が作る毒は人が作る薬では癒せない。だから精霊を絶対に怒らせてはいけないと」
昔、高位精霊を激怒させた村人がいた。井戸や泉に精霊の毒が入れられて、村人の多くが病に倒れ命を落とし、村長の娘が精霊に嫁いで怒りを鎮めたという話がクレトの村に伝わっているという。
「何故、それがわかったんだ?」
「王妃様は強い神力をお持ちですよね? 精霊の毒は神力に反応して一瞬青黒く光ると子供の頃から聞いています。その光が見えました。土属性の精霊の毒は胸を傷めるんです」
ベルトランの問いにクレトが答え、私とベルトランは視線を合わせた。
「……まさか……先代の……」
私の不用意な呟きにベルトランが反応して言葉を遮った。
「王妃様、それ以上は口になさいませぬよう」
ベルトランも気が付いたのだろう。その毒が騎士アルムニアに使われたのではないかという疑いと、そして……先王の死因になったのではないかということに。
「一体、誰が?」
先王を殺して一番得をしたのは夫であるレアンドロだけ。先王の死後、仕えてきた宰相や大臣たちの慌てふためいた様子は、先王がまだまだ健在だと信じていたからだ。
アルムニアは強い神力を持つ騎士だ。神官になる資格も持っていたのに騎士を選んだ。精霊の毒が神力に反応するというのなら、私が飲む前に気づかれる可能性を排除しようとしたのだろうか。
それなりに強い神力を持つ私もあの青黒い光に全く気を留めず、クレトがいなければお茶を飲んでいただろう。そう考えると、背に嫌な汗が流れる。
部屋の扉が叩かれ、毒見役の侍女の意識が戻ったと報告が入った。騎士アルムニアと同じ、長期の静養が必要と診断されている。
「命まで奪うつもりはないとしても、私が狙われているということだけは、はっきりしているのね」
王妃になった途端に起きた毒の混入事件。誰が私を狙っているのか。誰が得をするというのか。
まさか、という一瞬の疑念を私は無理矢理に払い落とした。
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