百三十七段 咲きぬべきほどの梢
【徒然草 百三十七段 原文】
花は盛りに、月は
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去さらでも、月の夜は
さやうの人の祭り見しさま、いと
何となく
かの
【本文】
三学期の終業式も終わり、職員室で最後の
早いものだ、もう一年経つのか。働き出したら本当に時間というのはあっという間だ。
「さあ、行こうか」
二年四組全員分の通知表を持って、吉田中学での最後の授業に向かった。
『徒然ww 百三十七段 咲きぬべきほどの梢』
「一年間ありがと、来年もよろしくね先生!」
キュートが爆発しそうな笑顔で俺に労いの言葉をかけて、渡辺は席へと戻っていく。
三学期も生徒達は俺に通知表をくれた。オール5の評価と供にそれぞれ手書きで俺への感謝を綴ってくれている。
宝物だ。
人は忘れていく生き物だ。勿論この子達の事を忘れるつもりはないが、それでも忙しさに追われてつい自分を見失う時があるかもしれない。そんな時にこの通知表が
他の学校に行っても頑張る力になるだろう。
「皆に言っておかなければならない事がある」
本当は言いたくない。でも、言わなければならない。
「来年度から、南部中に転任することになった。だからお別れだ」
あくまで軽く、何でもない事のように言った。
「えーーっ!?」
「マジで?」
この子達が入学して担任になって、そのまま今年度も持ち上がりで担任を続けさせて貰った。来年度もこのまま担任として卒業を見届けられると、そう思っていた。
「俺はいなくなるけど、北条先生や蔵野先生はそのまま三年生のお前達の担任として残るから安心してくれ」
初めて担任になった生徒だ。俺だって卒業まで一緒にいたい。だけど、さよならだけが人生だ。
「トベ先生は三年になっても担任をやるもんだと思ってたのに」
「やだよ、寂しくなるよ」
「そうだよ、行かないでよ先生」
口々に落胆の言葉をこぼしてくれる生徒達。
ありがたい事だ。
いつだって、俺は俺のやりたいようにしかやってこなかった。生徒達を第一に考えているつもりだったが、お節介も多かったかもしれない。自分が正しい事をやっているのかなんてわからなかった。だけど、これだけ皆が別れを惜しんでくれているのだ。これが答えなのだろう。
「もう決まった事だ。だから、今から最後の授業を始める。しっかり聴いて欲しい」
最後の授業という俺の言葉に、生徒達は皆真剣な顔になって姿勢を正した。
「来年は受験がある。恐らく皆初めての受験だろう。煽るつもりはないけど、今から不安に感じている者もいると思う。重い話になるが、俺がどうしても伝えたい事だ。どうか聴いてくれ」
黒板を使う事もなく、生徒達の目を見ながら話し始める。
「俺は今まで二回、大切な人との死別を経験してきた。一人は中学からの親友でバイクの事故で亡くなった。そしてもう一人はよく面倒を見ていた後輩で、自殺だった」
自殺、というショッキングな単語に生徒達は息を飲む。
「一つ下の後輩で、高校、大学、それにバイト先の居酒屋も一緒でさ。バイト終わりによくそいつのアパートで二人で飲んでた」
二人とも金がなくて、バイト先々から残り物のつまみを黙って持ち帰って食費を削ったりしてた。
「後輩は薬剤師を目指してたんだ。薬剤師になるには大学の薬学部に六年通って、その後の国家試験に合格しないとなれない。そいつの家は貧乏で、大学に行く金がなかった。だから奨学金を借りた」
大学からじゃなく、薬局から奨学金を借りられる場合がある。大学を卒業したらそこの薬局で働くのを条件に薬局がお金を出してくれるのだ。契約年数などはあるが、実際に勤めだしたら返済する必要はなく、実質学費免除で薬剤師になれるというありがたい制度だった。
これも人材不足の業界だからだろう。
「だけど、後輩は薬剤師の国家試験に落ちてしまった。でもな、国立病院と違って薬局は本当に人材不足だ。卒業した後、働きながらになるけど薬局が予備校なんかのお金も出してくれて、次年度の試験を受けようと頑張っていた」
実際、薬剤師の国家試験の合格率は七割程で、毎年千人以上落ちる人がいる。でも、薬学部を卒業してるなら何回でも受けられる。薬局の方も一回で受かれば御の字だが、落ちることも可能性の一つとして考えているのだろう。
「でもあいつはプレッシャーに負けた。二回目の試験も落ちた時に、首を吊って死んだ」
今でも後悔がある。
俺がもっと支えてあげていればあんな事にはならなかったんじゃないか。あいつの心のSOSを見逃していたんじゃないか。
「借金を抱えてと言っても、薬局が肩代わりしてくれていたし、薬剤師になった時点で免除になる借金だ。深刻になる話じゃない。誰も追い詰めてない。だけど、あいつを一番近くで見てきたあいつ自身が、自らを追い詰めてしまったんだ」
真面目な奴ほど、自分への目が厳しくなる。人から機会を貰っているのに何回も失敗してしまった自分が許せなかった。生き恥を晒したくなかった。
「俺なんて生き恥ばかりだ!」
薬剤師と違って、教師には薬局みたいに学費を出してくれる学校はない。だから俺は母の姉夫婦に土下座をして金を借りた。快く伯父さんは金を出してくれたが、内心自分の両親を恨んだ。
「この先、いくら頑張っても、どれだけ準備をしても、思うようにはいかない事があるかもしれない。行きたい高校にも行けないかもしれない。なりたい職業にもつけないかもしれない。だけど、それだけが全てじゃない。咲き誇るだけが花じゃない」
俺の言っているのは綺麗事だ。でも、本心だ。
「俺は見てきた! お前達がいつも頑張っているのを! 傷付いても歯を喰いしばって、泣いて、笑って、努力しているのを。花を咲かせようと蕾をつけたお前達を、この二年間ずっと傍で見てきた! だから! 例え、結果が出なくても」
この子達はいつも一生懸命だ。だから、この言葉も贈る事が出来る。
「自分に価値がないなんて思うな。生きている意味がないなんて思うな」
一人一人の顔をゆっくりと見ていく。俺のこんな話を、真剣な表情で受け止めてくれている。
「どれだけお前達の自己評価が低くてもな、俺にとっては、お前達一人一人が」
今だって、輝いていて直視出来ない程に。
「眩しい眩しい一等星だ。俺をこの二年間、教師でいさせてくれて本当にありがとう。忘れることはないよ。以上だ。聴いてくれてありがとう」
生徒達はいつか、今日話した事を思い出してくれるだろうか。こんなに鬱陶くて暑苦しい教師の事を思い出してくれるだろうか。
ははっ、思い出すに決まっている。この子達が素直でいい子なのは俺が一番よく知ってるんだから。
「今日は二十二日か。出席番号二十二番、富田、号令っ!」
「は、はいっ! 起立! 気を付け! 礼! ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
目から汗が出ているのを悟られないように、深く、長く、二年間分頭を下げた。
【徒然草 百三十七段 現代訳】
桜の花は満開の時だけを、月は満月の時だけを見て素晴らしいと言うべきものだろうか。勿論それは素晴らしいが、秋の雨が降る夜に雲に隠れた月に恋焦がれ、簾を下ろしてカーテンの閉めきった部屋の中に引き籠って、春の過ぎゆくのも存ぜぬというのもまた、しみじみと思い深い。
今にも花の咲きそうな梢や、花が散りしおれた庭などは逆に満開の時よりも見るべきものが多い。
短歌の詞書きに「花見に来たのですがすでに散ってしまっていたので」とか「用事があって、花見に行くことができませんで」などと書いてあるのは「花を見て」と書かれているのに、単純に劣っているものだろうか。
花が散り、月が傾くのを惜しむのは当然のことではあるが、特に教養もなく物の情趣がわからない人は「ああ、この枝もあの枝も花が散ってしまってもう見る必要はない」などと言ってしまう。
どんなことでも、その始まりから終わり、全てがよいのである。
男と女の間にしても、ただただ逢って体を重ね合うことを恋と呼ぶのだろうか。逢えずに終わった寂しさを思い、果されぬままに消えた泡沫の約束を嘆き、一人、恋の思いに悶々と長い夜を明かし、はるか遠くに住む人に思いを寄せ、かつての楽しい日々を思い出したりする中にこそ、男と女の間の熱情の真実があるのだと言えるだろう。
夜空を華やかに照らす満月を眺めているよりも、暁近くになって下弦過ぎの細い月がのぼり、それが深い山の杉の梢の先にかかって、趣深く少し青みがかったように見えている木の間にかかる光や、それが流れる雲に隠れるさまなどのほうがいっそう趣深いものだ。
つややかな葉を持つ椎や白樫の木のその濡れたような細やかな葉のひとつひとつに、月の光がきらきらと漂う様子を見ていると、侘びさびが目にしみて、友人が近くにいたら語り合うのになんて、友が住んでいる都が恋しくなる。
そもそも、月や花といったものはただ目でのみ見るものであろうか。
春はたとえ家から出ることがなくても訪れた春に思いを寄せ、月の夜は寝室に中にいながら照る月を思うことは、誰でもできることだし、それを思うことこそが情趣というものである。
教養のある人というものは何かを好きになるにしても、それをひたすら好むというようにも見えず、それを愉しむ事さえもあっさりしている。
逆に田舎者というのはどんなことでもその楽しみ方があからさまでしつこいものだ。
たとえば花見に行っても、遠くからさりげなく眺めるのではなく花の真下に立ち、その下で酒を飲みバカ騒ぎをして、あげくには大きな枝を何の躊躇いもなく折り取ってしまう。
そのような人は、神社のお賽銭もカード払いでとか情緒もへったくれもないことを平気で言うのだ。
そういった人たちが加茂の祭を見物する様子と言ったら、珍妙この上もない。「行列がやって来るまでは桟敷にいて待っていてもしかたがないんじゃないか」などと言って、桟敷のしつらえられた家の奥に入って、酒を飲んだり物を食べたりしながら、囲碁や双六で遊んでいて、桟敷に置いておいた見張りの者が
「行列が来ましたよ!」と知らせると、それぞれが、あわてふためいて争うように桟敷に走って登り、桟敷の縁から落ちそうなくらいに身を乗り出して、押し合いながら目を血走らせて「あんな事をしている、こんな衣装を着ている」などと、目に入る物全てを言葉にしてやかましく、行列が通り過ぎれば、「次の行列が来るまで」と言ってまた家に入り宴会を始める。
こういう人たちは祭の行列だけを見ようとする。
一方、都の人で身分が高貴な方々は目を閉じたりして、祭にそんなに見入ったりはしないものだ。
そしてその貴人に仕えている身分が低く若い人たちだって貴人にならい、無理に祭りを見ようとはしない。
祭の日は辺り一帯に葵を掛けてあって優雅な感じがするものだが、そんな中、夜も明けきらないうちにあまり人目に立たないように道路の脇に寄せる車が何台もあって、あれはいったい誰の車だろう、あの方のだろうか、この方のだろうか、などと推測してしていると、中に自分が見知っている牛飼いや召使いがいたりして、あのお方の御車だったのだとわかる事がある。
そのような牛車が風雅に、きらびやかに飾り立てて行き交う様子を見ているだけでも退屈することもない。
しかし、そのように華やかな祭りの通りも、夕暮れともなればそこに並んでいた車も、どこからわいてきたのかぎっしりだった人波も、やがてまばらになって、帰りの混雑も終わってしまえば、桟敷に垂らされていたすだれや敷かれていた畳も取り払われて、すっかり寂しくなってしまう。それを見ていると、栄えたものも必ず衰えゆくという諸行無常の世のありさまが思い出されて、しみじみと感じ入る。祭の行列そのものではなく、そのような大路の様子を見ることこそが、祭を見るということなのだろう。
あの桟敷の前を大勢行き来する人々の中に、自分の顔見知りがたくさんいることから、実は世の中の人の数はそれほど多くはないのだということがわかる。
仮に、あの人たちが皆亡くなった後、死は長くは待たせずに私にやってくるだろう。
大きな器に水を入れて小さな穴をあけておけば、そこから滴り落ちる水はほんの少しずつだとしても、途絶えることなく漏っていけばその内に水は無くなって。
都の中にたくさんいる人が一人も死なない日というなんてあるはずがない。
死んでいくのは一日に一人二人だけであろうか。
火葬場のある鳥部野や舟岡、あるいはそのほかの野山にも死んだ人を送る数が多い日はあっても、葬送の行なわれぬ日はない。
だから、棺を売る者は、それを作って置いておく間もない。若いからといって死は遠いものではない。強いからいって死なないのでもない、予測できないのが人の死期である。
今日まで生きてこられたのは逆に不思議なことなのだ。だからこんな日がずっと続けばいいのになんて呑気な考えが浮かぶのだ。
人が死を逃れられないことは、双六の石を並べてそれを取って遊ぶ「ままこ立て」という遊びの中で、最初並べたときは、取られるのはどの石かはわからなくても、よしよしと思っているうちにどんどん自分の石をとられていつの間にかピンチになっていることに似ている。
武士が戦に出かけるときは、死を覚悟して、家のことも自分のことも忘れる。
一方俗世に背を向けて隠遁している庵で静かに水や石を眺めているからといって、そのような武士の身の上の事など、よそ事のように思っているとすれば、それは実にたわいもないことだ。
どこにいても死というものは息を潜めて忍び寄ってくる。
川に遊びに行くのも、山に鹿を追いに行くのも、戦場に出かけていくのと同じ事なのだ。
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