百六十四段 世の人相逢ふ

【徒然草 百六十四段 原文】


 世の人相逢あひあふ時、しばらくも黙止もだする事なし。必ず言葉あり。その事を聞くに、多くは無益むやくの談なり。世間の浮説ふせつ、人の是非、自他のために、しつ多く、得少し。


 これを語る時、互ひの心に、無益の事なりといふ事を知らず。




【本文】


 期末テストも終わり、夏休みへ向けて一直線。

 の前に、教師を悩ませる苦行、保護者面談がある。

 三日間に渡り行われる面談の最終日、俺は近藤の母親と向かい合っていた。問題なく終わればいいなあと思っていたのだが。


「ホントに出来の悪い息子で恥ずかしいんですぅ」


「いえ、明憲あきのり君は成績こそ目立ちませんが、クラスの盛り上げ役として嫌な役回りも進んでやってくれます。紛れもない四組のムードメーカーでして、うちのクラスが明るいのは彼のおかげと言っても……」


「もうっ、親の前だからと言ってお世辞はやめてくださいな。上の子はいい高校に行ったっていうのにあの子は……」


 なんだこのババア。

 おっと、国語教師ともあろうものが汚い言葉を使ってはいけない。しかし、こういう親には言いたくもなる。たまにいるのだ。いや、たまにではないな、結構いるのだ。

 自分の子供をやたらと悪く言う親が。



『徒然ww 百六十四段 世の人相逢あひあふ』



 保護者面談の全日程が終了。職員室で一息つく。

 はあ、疲れた。

 結局、近藤のお母さんは俺の話をまるで聞いてくれなかったな。

 勉強しろと言ってもやらないだの、上の子と喧嘩ばかりするだの、ずっと近藤の事を貶めていた。

 確かに、今回の期末テストの順位だって後ろから数えた方が早い。数学なんか悲惨なものだ。でもアイツには集団を引っ張っていく才能がある。近藤のそれは、とても稀有なものだ。

 山田の件ではそれが悪い方向に行ってしまったが、アイツも反省してくれた。もう同じような事はしないはずだ。成績はよくないが頭は回るし、むしろ要領はとんでもなくいい。 

 お母さんにはその辺りを熱弁しておいたが、伝わってるといいな。


 常々思うのだが、日本人の身内下げって本当に悪習だと思う。

 謙遜は日本の文化だが、それはあくまで自分自身にするものだ。家族や仲間の事を他所様に悪くなんて言うべきではない。

 俺だったら嫁さんの事は誉めちぎるね。

 例えば、もし抄子先生と結婚したら、毎日生徒や同僚に抄子先生の魅力を力説する自信がある。

 朝のSHRショートホームルームを抄子ホームルームにする。

 給食の後の読書の時間には、抄子先生をモデルにした恋愛小説を書いて読ませようか。

 奥さんはどんな人? なんて聞かれた暁には、舞台を与えられた役者の様に生き生きと話し出すだろう。

 童顔巨乳なんです! うちの嫁、童顔巨乳なんです! 


「どうですか卜部先生?」


「はい! うちの嫁は童顔巨乳です!」


「え?」


「え?」


 危ない。つい反射的に思考を漏らしてしまった。俺の答えに抄子先生も目を丸くしてキョトンだ。


「あ、いえ。考え事をしていて聞いていませんでした。何だったでしょうか?」


「いつものコンビニに六時に来てもらっていいですか?」


「ああ、はい。大丈夫です。六時ですね」


 今日は同じ市の同期の教師達と飲み会があるのだ。抄子先生と俺は同期で、新卒でこの吉田中学に一緒に配属となった。これは縁があるに違いない。やはり俺の嫁は童顔巨……っと、妄想はこれぐらいにしておこう。その同期の飲み会に抄子先生と行くのだが、俺が車を出す約束をしていたのだ。


「本当に送り迎えして貰っていいんですか? 卜部先生も飲みたいんじゃ?」


「いえ、明日も学校がありますし、すぐ酔っ払っちゃうんで」


 酒に弱いとは以前に述べた。缶チューハイ一本で顔は真っ赤になりいい気分になってしまう。二本目には頭が痛くなってギブアップするほどに弱い。

 だが嫌いではない。むしろ好きだ。強い人が羨ましい。たまに家で飲むときも覚悟を決めて飲む、俺の酒との付き合いかたはそんな具合だ。

 

「ありがとうございます。じゃあ六時にお願いします」


「はい。迎えに行きますね」


 酔っ払っちゃった抄子先生が「帰りたくない……」とか言いながらしだれかかってきて、なんて懲りずに妄想に耽りながら、残りの仕事を片付けた。


 


 夜。同期との飲み会の席。

 自分が酔えないので飲み会はあまり好きではないが、それでも同じ年の同期と話すのは楽しい。中学校じゃ同い年は抄子先生しかいないからな。


「そういや卜部と蔵野さんは相変わらず恋人いないの?」


 同期の男、Aとしておこうか、Aが聞いてきた。


「え? ああ、いないな。忙しくて暇もないし」


 正直、抄子先生がいる場でそういう話題は困るんだよな。まさかここで抄子先生が好きだなんて言えるはずないし。


「蔵野さんは?」


「そ、そうね。いないよ。私も忙しいから」


 抄子先生も曖昧な返事。そうだよな、まさかここで卜部君が好きだからなんて言えないよな。って、自惚れすぎか。けど、恋人がいないっていうのは事実だろう。


「まあそうだよねー。学校っておっさんばっかだしさー」


 女性の同期Bが口を尖らせて言った。


「出会いはないよなー。おっさんも脂ぎった汚ならしいのばっかりだしな」


「そうそう! うちの主任なんて前歯ない上に口が臭くてさ、隙間風がものすごい公害なの!」


 何時の間にやら話題は同僚の愚痴に移行していた。まあ皆ストレスが溜まっているんだろう。しかし、ちょっと悪意が過ぎる。


「うちの教頭もさ、いつも鼻毛出てんの! なのに生徒にはいっつも身だしなみを整えろとか偉そうに言っちゃってさあ」


 女性Cも加わってヒートアップする。


「何それ! 超ウケるー!」


 何だか盛り上がっているが俺と抄子先生は苦笑いだ。悪口に追随しても録なことにならない。


「教師だけじゃなくて生徒もありえなくてー。内申点二十二しかないのに弁護士になりたいとか言ってる奴がいてー」


 ん? こいつ何言ってるんだ? まさか、生徒の事か?


「痛いなっ! いるよなーそういう奴。うちのクラスにも貞子みたいな女がいるんだけど、こいつが気持ち悪くて……」


 ドンッ! っと烏龍茶のグラスをテーブルに叩きつける。

 財布の中から取り出した一万円札を置いて俺は席を立った。


「帰るわ」


「お、おい! 卜部?」


 同期の顔を見る事もなく、サッと居酒屋を後にした。

 

 クソ、なんなんだよチクショウ。上司の悪口は、わからないまでも許せる。だけど、生徒の事を悪く言うのは絶対に駄目だろ。

 俺も生徒の悪い所を指摘することはある。しかし、あくまで本人にだ。他人に生徒の悪口を言うなんてそれでもアイツらは教師……あっ。


「抄子ちゃん置いてきちゃった」


 送って行く約束だったからな。どうしよう、その辺ブラブラして時間を潰そうか……。


 ガラガラッ


 メールを入れておこうとスマホを操作していたら、居酒屋の引き戸が開いて抄子先生が出てきた。


「兼好君」


 学校では敬語だが、二人きりの時には名前で呼んだり、言葉もフランクな感じになる。


「あ、ごめんね抄子ちゃん。つい耐えられなくてさ」


「ううん。私も頭に来たから抜けてきたの。大丈夫?」


「うーん、大丈夫じゃないかも。ショックだったなあ、同期の、まだ若い教師があんな事……」


「私達は恵まれてるのかもね、先生方にも生徒にも。お腹空いてるでしょ? 何か食べて帰ろっか。私奢るから。さすがに一万円は大金でしょ?」


 恵まれている。

 そうかもしれない。うちの先生達はいい人ばかりで、生徒達は素直な子たちばかりだ。そして同期の同僚は最高だ。童顔巨乳でしかも優しい、マジ天使。

 ……一万円置いてきたのはカッコつけすぎたな。


 こうして二人は夜の街に消えていった。いや、パスタ食って帰っただけだけどな。



 

 翌日、終業式が終わり一学期最後のホームルーム。


「じゃあ皆のお待ちかね、通知表を渡すぞー」


「えー!」

「誰も待ってないってー!」


 嬉しそうな悲鳴の中、出席番号順に名前を呼ぶ。


相田あいだ!」


「はい」


「バレー部、レギュラー決まったんだって? 頑張ったな」


「あ、ありがとうございます」


 誉められたのが不意打ちだったのか、相田はずいぶん照れながら通知表を受け取った。


「次、稲葉いなば! 期末テストの国語百点、やられたよ。百点は取れない様に作ったつもりだったんだけど、頑張ったな」


 全員に「頑張った」という言葉を添えて通知表を渡していく。皆少しだけ誇らしそうに席に戻っていく。


「最後、渡辺わたなべあん!」


「はーい」


 渡辺杏はなんというか、学年に一人はいる、いわゆるおませさんだ。色気ムンムンで男なんてイチコロ、みたいな感じ。でも俺はこの子の秘密を知っている。


「花壇の花の世話、毎日手伝ってるんだって? 用務員の先生から聞いたよ。ありがとうな」


 誰にも知られていないと思っていたのだろう。俺の言葉に渡辺はあわてふためいた。


「べべべ、別にトベセンセーにお礼言われる筋合いなんてないし!」


 顔を真っ赤にして席へ戻っていった。ツンデレか。

 さて、一学期の行事も終わった。


「よーし、通知表も渡したし、これで今日はおわ……」


「待って先生。まだ俺らから渡してないよ」


 ホームルームを終わろうとしたが、近藤が席を立ち、教卓に白い紙を置いた。


 ――通知表 卜部兼好――


 そう書かれた白い紙は見開きの通知表だった。


「通知表? 俺の?」


 返事がない。白い紙を開いて中身を見てみる。

 そこには縦軸に科目として三十六人の生徒達の名前が書かれており、横軸に一学期、二学期、三学期の項目。一学期の下には評価の数字が書かれていた。

 そう、紛れもない通知表。

 生徒達三十六科目の通知表だった。

 

「じゃあ一科目目、相田から!」


 近藤の音頭で相田が教卓の前までやって来た。


「部活中いつも塩飴くれてありがとう先生。優しいから5!」


 通知表に目をやると確かに相田の項目には5と書かれていた。


「次稲葉!」


「先生が読めって言ってくれた本無茶苦茶面白かった。ありがとう先生。だから5!」


 出席番号順に教卓にやって来て評価5とありがとうを伝えていく生徒達。正直、何が起こっているのか頭がついてこない。こんなサプライズ、脳が処理出来ない。


「次は俺、近藤! 昨日母親からすげー誉められたんだ。先生が俺のいい事ばっかり言ってくれたって。ありがとう先生。よって一学期は5!」


「お前が言い出しっぺか?」


「確かに言い出しっぺは俺だけど、皆先生にありがとうって言いたかったんだよ。俺もさ、先生の事は誉めて伸ばそうと思って」


 全く、要領のいい奴だよほんと。


 そして最後、渡辺杏が教卓の前に来た。


「清潔感あってサワヤカだから5! って言いたい所だけど、私がこんなにアピールしてるのに抄子先生の事しか見てないのが悔しいから4」


 最後になって初めての4。でも渡辺らしい。


「ま、私さ、他人のモノには興味ないから、彼女出来たら5になるかもね。だからさっさと告って抄子先生とくっついちゃえ」


 ほら、どこまでも渡辺らしくて、思わず笑ってしまう。


「フフン、余計なお世話だ」


「フラれたら拾ってあげるから」


 ウインクを一つ、俺の心に飛ばして渡辺は席に戻った。全員の評価が終わり、込み上げてくる感情を必死に抑えて俺は号令をかける。


「じゃあ一学期終わり! 起立! 礼! 解散!」


 



 その日の夜。

 缶チューハイ二本の入ったビニール袋をぶら下げてアパートへと帰ってきた。普段は避けるようなアルコール7%の俺にとっては強い酒だが、今日はしたたかに酔いたい気分なのだ。明日から夏休みだし、構わないだろう。


 真っ先にシャワーを浴びて、九畳一間のまん中に置かれたソファに座り、とっておきの通知表をテーブルに置いた。プシュッと音を立てて缶を開けると同時に通知表を開く。

 そして缶に口をつけ、一気に流し込んだ。

 通知表に並べられた5の数字を眺めていき、最後の4で目が止まった。


「二学期はオール5にしないとな」


 生徒達から貰った通知表を肴に飲む酒は、格別に旨かった。




【徒然草 百六十四段 現代訳】


 世の中の人というのは誰かといると必ず口を開き何かを話すものだ。

 しかし、そのほとんどが役に立たない与太話である。色恋や人の悪口ばかりだ。損はあっても得する事は一つもない。


 そしてそういう話は、心に悪影響を与えて自分達の品格を下げるだけだという事を、人々は知らないのである。


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