第2話 職場ですから

 それから5日ほど経って、失恋の傷は少しずつ癒えてきた。正確に言うのなら、痛みに慣れてきたんだと思う。その間、崇からの連絡は一度もなかった。私から連絡することは、当然ないのだけれど(まあ意地みたいなものもある)。

 

 自分で別れておいてなんだが、一回ぐらい連絡してきたっていいじゃないか。貴方は「保留」って言ったのだから。そんなことしてるうちに、ほら木曜日になったぞ。第2木曜日には、私たちは嫌でも顔を合わせなきゃいけないんだから。


 この街にあるこじんまりした病院での医療事務、それが私の仕事だ。木曜の診療は午前中で終わる。第2と第4の木曜の午後には医療器具メーカーの営業が、新しい商品の宣伝やら、今ある器具の様子を伺いに先生に会いにくるのだ。そして、その営業マンが他ならぬ崇だった。


 私たちは、2年前にこの病院で出会った。

 職場の人たちに合コンをセッティングされたとかではなくて、2週に1度顔を合わせる度に、少しずつ会話をするようになり、半年ほどたって食事に誘われて、そのままデートをする間柄になったのだ。

 彼の印象は“真面目な中堅営業マン”だったし、先生や看護師だけでなく、私たち事務スタッフにも誠実に対応する彼に好感を持っていたことは確かだ(付け加えるならば塩顔の彼は、私の好きなタイプだった)。

 付き合った後も、彼の誠実さだけは確かだったと思う。でも、それだけでは物足りないというのはぜいたくな悩みなのだろうか。


「城所さん、お見えになったわよ」

 先輩の事務員である田代さんが私に声をかける。私たちが付き合っていることは、職場の人は知らないはずだが「お互いに好意をもっているらしい」という感じで扱われていた。それがよくもまあ、2年ものあいだ情報更新されずにいるものだと思うが、みんな案外、他人の恋愛にそこまで興味を持つものではないのかもしれない。

「ああ、はい」

 私は、いつものように気の抜けた返事をして(付き合っていることを悟られないように、いつもそんな感じでいた)、崇を迎える。

「お世話になってます」

 取りようによってはぎこちなさも感じられたけれど、崇もいつもと変わらない挨拶をして、診療室に向かっていった。


 先生との話が終わると、崇は再び私のいる事務局へ顔を出す。

「今日はみなさんにお菓子を買ってきました」

 これも恒例のことだ。

 彼は時々自腹でこういうことをする。私はそんなのいい、と言っているけれど、気持ちだからと譲らないし、なにしろ、それでみなさんと話すきっかけができて祥恵と付き合うことができたんだから、いいんだよ。と言われてしまうと、それは崇にとってだけでなく私にとっても大切なルーティンであるような気がした。


 デパートの包み紙を開けると、じゃあみんなで食べましょう、ということになって、田代さんや手すきの看護師が集まってちょっとしたティータイムになるのが決まりになっていたのだ。


 崇はそれとなく、私の隣に来た。

「こないだはどうも」

「こちらこそどうも」

 お互いに目を合わせずに話す。


「こないだの話だけどさ……」

「職場ですから」

 崇が小声で切り出すのをピシャリと制止した。


 職場ですから。


 職場ですから、他人行儀でいましょう

 職場ですから、男女の話はやめて

 職場ですから、本心は言えません


 その後に言いたい言葉は、なんなのだろう。

 出かかった言葉を飲み込むけれど、その先の言葉はなんだったのか、よくわからないまま消えてしまう。


 しばらくたって、崇はつぶやくように言った。

「俺、結婚するなら祥恵となんだと思う」

 プロポーズかと思ってドキリとする。いや、まさかこのシチュエーションでありえないよね、と理性が火照る頭を一瞬で冷やしにかかる。


「ただ……」

「まだ、覚悟ができてない」

 意外なセリフにキョトンとした。

 覚悟とはどういうものなのだろう。それは死地に向かう兵隊が持つ覚悟と同じ感じだろうか。

「その……家族になるってことに」


 その時、私はふとお互いの家族のことを考えた。

 彼は中流家庭の長男として、ごくまっとうに育ってきたらしい。「順風満帆」ということではないのだろうけれど、戸籍が変わったり、里親に出されたり、ということはなく、いわゆるの家族の人だ。

 私の場合は、今のお父さんが実の父ではない。私は母の再婚相手の戸籍に入っている。

 もしかすると、そういうあたりが私との結婚を逡巡する理由になっているのではないのだろうか。彼はそういうのを気にする人でなくても、彼のご両親はどうなのだろうか。「家族になる」というのは、私と彼だけが良ければそれで済む、ということではないのだ。当たり前のことを今さら痛感する。


 私は思わず、彼の顔を見上げた。彼も視線に気づいて私のことを見る。見慣れたはずの崇の顔は、なんだか別の人のようにも思えた。


「城所さん、お茶入ったわよ」

 田代さん呼ばれたほうを振り向くと、彼は「じゃ、また」と言ってそちらに向かっていった。


 別れよう、と言った私に対して、崇はまだ気持ちを離さずにいてくれる。それは少し安心したし、ありがたくもあったけれど、私たちに「その先」があるのかどうかはわからない。もし「その先」がないのだとしたら……


 私たちのこの関係はいったい何なのだろうか。



 それから、私も崇も同僚たちとの世間話に加わり、二人の話は進展することもなく、崇は営業用のバンに乗って帰っていった。

 見送る時も、彼と一瞬目があった。その時、彼は私に何かを伝えたかったのだろうか。いろいろなことが頭をめぐって、仕事が手に付かない。患者さんのいない休診時間で良かったと思う。


 その時、私の携帯電話に着信があった。発信元は父だった。平日のこんな時間にかかってくることはめずらしい。

 田代さんに許可を得て、病院の裏手で電話に出た。

「もしもし」

「さちえさんですか?」

 父ではない、知らない男性の声が聞こえた。一瞬とまどった後、「はい」と答える。


 父が倒れたと電話口で言っていた。

 はつみさんの存在を知ったのはその時だった。

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