亀を投げる

高野ザンク

第1話 三十歳の別れ

 30歳になった日に、私は崇と別れた。


 またもや婚期を逃してしまったのかもしれない。

 女は25歳と28歳の時にいわゆる結婚適齢期を迎えるそうだ。社会一般常識に照らすとそうらしいし、個人的な出来事としても、なんとなく自覚がある。25歳の時に同級生の半分があらかた結婚していった。28歳の時、残りの半分がまた結婚した。親友の律子もこの時にお嫁に行った。


 私は昨日30歳になった。

 去年の誕生日(なにせ20代最後なのだ)に崇にそれとなく今後のことを切り出してみたが、色よい返事はもらえなかった。

 当たり前と言えば当たり前で、まだ付き合って半年も経っていなかったのだ。崇は私の3つ上だから結婚というものを考えないことはないだろうけれど、まだまだ私たちはお互いに「この人だ」という確信がなかったのだ。私のほうはこの人かなー、ぐらいの予感はあったけれど、それはいわゆる婚期への焦りからくる思いこみみたいなものも加味されていたようにも思う。

 ただ、それから1年経って「崇のお嫁さんになる」という思いは強くなったし、彼も当然のようにそう感じていると思っていた。だから、30歳の誕生日になんのアクションも起こさなかった彼に私は心底がっかりした。食事をして、それなりのアクセサリーを買ってもらって、私の部屋でセックスして、私のハレの30歳初日は終了した。


「別れよう」

 寝入り端に唐突に切り出す。多分、怒りと失望とくそったれ精神のせいだ。


「なんで?」

 少し間があってから、彼は静かに言った。あまり声を荒げることのない人だ。ただ、動揺がベッド伝いに感じられる。切り出してしまったものの、次の言葉を出すには、私はひどく疲れていた。

「おやすみ」

 彼に背を向け、眠気に身を任せる。


 翌朝、二人無言で朝食をとり(こういう時にちゃんと二人分を用意する自分を健気だと思う)、それから玄関先で出勤する彼を見送る(そして律儀でもある)。何度も見てきた光景だし、ここだけ切り取れば夫婦にしか見えないのに、どうしてだろう。私たちはまだ赤の他人だ。しかも、夫婦になるための距離を私は自分で伸ばしてしまった。


「さっきの……別れるっての、ちょっと保留にしてくれない?」

 玄関先で、いたたまれなくなったというふうに崇が言った。


 保留。

 これ以上ないぐらい、冷たい響きに思える。


「急すぎて考えがまとまらないんだよ」

「貴方には急かもしれないけど、私にはそうじゃない」

 思った以上に声が上ずったので、自分でもびっくりした。

「もしかして結婚のこと?」

 図星だ。図星なはずなのだけれど、なにか違うようにも思えた。真芯からほんの少しズレたような感覚。自分でも不思議な感覚。


「いや、そうじゃないよ」

 反射的に口から出た。

 そうじゃない、というか……それだけじゃない気がする。


「結婚のことも、その……」

 言い淀みながら彼は言った。

「それも含めて保留にしといてくれ」


 衝動で切り出した別れだったけど、この時、私は崇と本気で別れようと思った。



 彼を見送って、再びベッドに横たわる。

 二人で過ごした1年半はいったいどういうものだったんだっけ?そもそも28歳と31歳で出会った二人だ。年齢的に「結婚」というものを意識していないわけはないし、私はそうだった。少なくとも、彼が私に「付き合おう」と言ったときは、当然「その先」を見据えて、だと思っていた。崇は、なんとなくとか、ノリで、とかでそういうことを言う人ではないし、カラダ目当てとしてなら、私はその対象になるようなタイプではない。

 私たちはきちんとデートを重ね、きちんと段取りを踏んで、そして今の関係に至った。「人生ゲーム」みたいに「結婚双六すごろく」というものがあるなら、私たちは王道のマスをきちんと進んできたのだ。ときにはダイスが6だったり、1しか進まなかったり、イベントマスによっては別れのピンチもあったけれど、二人で上手く乗り切ってきた。でも、今の私はゴール直前でふりだしに戻ったようなものだ。「人生ゲーム」の“それ”を理不尽だと思っていたけれど、案外「人生」というものをきちんと投影しているのかもしれない。

 それとも私だけがゴール間近だと思っていただけで、初めからプレイヤーの車には私しか乗っていなかったのかもしれないな。



 考えているうちに、いつのまにか眠ってしまった。

 時計を見ると午後1時になっていた。せっかくの有給休暇を無駄に過ごしたことに後悔する。こういう無駄な時間の積み重ねが、私を30歳でひとりぼっちにしてしまった原因のような気もする。


 いけない。思考がネガティブだ。ひとりでいると気が滅入るので、誰かにこの出来事を伝えたくなって、私は律子にLINEを送る。


「崇と別れました」


 続きを打とうとしていると、既読がついて、その後すぐに電話がかかってきた。


「もしもし」

 自分の口から気が抜けた声が出たが、これは予想通り。

「大丈夫?」

 律子がデキる女上司みたいなハッキリとした口調で尋ねた。

「うん、多分、大丈夫」

 自分のことだというのに、確信がない。

「とりあえず、話してごらんなさい」


 私は、昨日の誕生日の出来事、別れを切り出した場面、今朝の彼の言葉をできるだけ客観的に伝えた。律子はときどき「ふん」とか「ふーん」とか相槌を打つだけで、あとは黙って私の話を聞いてくれた。


「よくわかった。それは崇さんが悪い」

 キッパリと言う。

「でも、今朝の崇さんの言葉からすると、別れる気はないんじゃないかな?それとも、彼、他に好きになった人がいるのかしら」

「いや、多分、それはないと思う」

 返事をしながら、その可能性を全く考えていなかったことに気づく。崇は、そういうことを隠せないタイプではあるが、そういうことも私のただの思いこみでしかないような気がしてくる。私はなんて愚かで浅はかなんだろう。

「とにかく、今は崇さんの反応を待ちなさい。それから今日、私、6時過ぎなら時間作れるよ」

 メッセージよりも話したい。電話よりも会いたい。そういう思いをわかってくれる。律子はやっぱり頼りになるなーとじんわりと嬉しくなる。

 あ、私、ひとりぼっちじゃないんだ。それがわかっただけで今の私には十分だった。

「いや、今日は大丈夫。でも、できれば直近で会いたいよ。しばらく会ってないもんね」

 それから私たちは次に会う日の約束をした。流れで他愛もない無駄話もした。気がつけば、1時間以上も話していた。

「じゃあ、そろそろ私、仕事に戻るね」

「うん、サボらせてゴメンね」

「いいの、いいの。上司なんかしょっちゅうタバコ休憩でいなくなっちゃうんだから。たまには私のような優良社員の姿が見えなくなれば、ありがたみがわかるってものよ」

 律子がまた、デキる女の声を出す。

 二人して笑いながら電話を切った。暖かな気持ちは残るが、ひとりの部屋はやっぱり静かで冷たい。


 それから私はベッドに突っ伏して泣いた。

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