其の拾壱 His psychological trauma
二十九年も生きてきてしまえば、人生はそんなにうまくはいかないものだと言う事も、嫌でも悟ってくる事になる。つとめて俺は冷静である事に努めようとはしていたのだ。ただ、あの日、あの時、間違いなく手ごたえはあれば、それは、再び、バイト漬けとされていく日常の中で、尚、意識させてしまうものだった。それに俺には、最早、完全に「時間」がなく、これが「最後の賭け」だったのだ。
プロダクションサイドから、近日中には合否結果を連絡すると言われた、その当日まで、俺のスマホは鳴り響く事はなかった。
「大丈夫だよ。……きっと。まだ、わからないよ? あれだけ練習してたんだし……。ナーモ君の歌、素敵だもん。大丈夫……! 大丈夫…………!」
既に顔も青ざめ、茫然自失とうずくまるようにしている俺の隣では、未だPコートすら着込んだ、学校帰りの姿のままのリーンが、じっと正座したポーズのままに励まし続けていて、
(……………)
俺は、何も答えられず、こわばるような顔のまま、目の前のちゃぶ台に置かれた液晶の板を見つめ続け、
「…………」
その視線につられるように同じ方を向いたリーンの顔は、ためらう事しかできなくなっていたのだった。
時間は刻一刻と過ぎいく。やがて、リーンがコートを脱いで、膝の上にたたみ、正座から足を組み直すように座り直しても、ちゃぶ台の上ではなに一つ、音がする事はなかった。そしてとうとう「発光」ははじまってしまったのだ。
「あ……」
自らの体の変化に、無念な様子の少女の嘆息が、すぐ隣で聞こえた瞬間、
(………………!)
最早、うずくまり、凝視したままの姿でいたはずの俺は、気づけば、そんなすぐ側にある、光る腕を掴んでいたのだ。そして、驚いてこちらを向く碧眼に口走ったのは、俺、来訪による三時間延長戦で、
「ナーモ君?! その間に、大事な電話、かかってきちゃったら……!」
「一人に……一人にしないで……!!」
諭し始めた少女を遮るようにしてでた声音は、まるで子犬の哀願のように甲高く、不安が今にも決壊しそうに響き、そんな大人の横顔を、じっと光の少女は見つめていたりしたのだが、
「……スマホは、充電、忘れちゃダメ、だよ…………?」
未だ困惑した顔つきながらも、俺よりも勝負を諦めていない微笑みがそこにはあったのだった。
一体、どんな激務の仕事なのだろうか。幼き日に一度きりしか会った事はないけれど、会長職である、あの気さくそうなリーンの母親は今宵も帰宅は遅く、もしかしたら帰ってこないかもしれないという事だった。
(…………)
全てから逃げるように訪れたリーンの、そのお姫様のような部屋では、満ち溢れている芳香を噛みしめるようにして目をつぶる俺の姿があって、
「…………」
困惑した少女の瞳は、すっかり精神を薄弱にしている大人の表情を、じっと見上げていたのだが、
「……ご飯、食べよっか」
と、微笑みかけてきたのには、俺は、無言でコクッと頷く事しかできなくなっていた。
最低限の照明しか灯っていない暗闇の巨大な階段を降りる事すら、緩慢にしかできなくなっている俺の側では、リーンは歩調を合わして見守り、やがてリビングに辿り着けば、即座に慣れた風に室内を明るくし、声音もつとめて明朗に、俺にテーブルへの着席を促すと、台所へ駆け出すようにしていって、
(………………)
俺は、そんな赤毛の後ろ姿を、ぼんやりと見つめる事しかできなくなっていた。
湯気香るリーンの手作り料理は、今宵も俺の腹の音を豪快に鳴らす事なぞ容易なほどの出来栄えである。
(………………)
ただ、今の俺には、目の前を見つめるだけで、箸に手をつける事しかできなくなっていれば、
「……ナーモ君……少しでいいから、食べよ?」
今宵も、かつて俺が、彼女の母親と初遭遇した席にリーンは着席していて、眼前の俺の姿に困惑し続けていたが、とうとう、そっと促してきた。
(………………)
思えば、折角の手料理だ。残す事もこれまた面目ない。俺は、コクリとし、口に運べば、暖かいものが体中に広がった。
いつものペースではないにしろ、俺の食事がはじまっていくと、見届けるふうにした後に、少し安心したような笑みを浮かべ、リーンも箸を動かしはじめたのであった。なんだかんだで喰らいつきはじめてしまえば、俺は何かの「飢え」を満たすかのように平らげてしまい、
(…………)
まるで、随分、なにも食べていないかのような感覚で、思わず、俺は、シャンデリア煌めく天井を見上げれば、ゲップと共にひと心地をついたのである。リーンは未だ、箸を手にしたままであったが、そんな姿に目を細めるようにして微笑みを形作っていた。だが、やがて、自らも食事を終え、皿洗いのために再び席を立つと、
「あの……私、勉強、しないと」
またもや深刻そうな顔つきに戻ってしまった俺に、彼女は言葉を選ぶようにしてきて、
「あ~、……そっ」
あいかわらず、ある一点を見つめたままではあったが、とりあえず、口で返事する事はできた。
今や、自らの室内の机にて、教科書やPCすら開き、勉強に打ち込みはじめるリーンがいて、その足元に座り込むようにして佇んでいるのは、最早、家庭教師もできなくなってしまった俺だった。
(…………)
相変わらず、視点は思い詰めたように一点を見つめるだけで、
「…………」
幾度となく複雑な表情で、リーンはそれを見下ろしていた。
(…………)
四方八方から、不安はせまりくるようだ。俺は全てから逃げ出したくなっていた。それは、やがて頭を傾けるようにさせては、椅子に着席しているリーンのスカート越しにすがるようにして、押し付けている有様だった。
「…………!」
気づいた彼女が見おろせば、それはひどく驚いた様子だったが、俺はなに一つ気づく事はできないままに、目をつよく瞑り、額をすりつけはじめさえし、
「…………!」
更に碧眼の瞳は驚きに満ちたが、お構いなしで、
「…………」
やがて、リーンは手にしていたシャーペンを離すと、俺を見つめたまま、そっとその頭に手をのせた。そうしてからゆっくりと撫で始めたのだが、
(…………!)
不安に取り憑かれた俺は、その愛撫にすら気づく事なく、むしろ当たり前のように享受していったのだ。
俺の頭を優しく撫で続けるリーンの白い頬は、今や、桃色のように染まりながらも、瞳は切なげではあったが、口元は何かの喜びを噛みしめるかのように、ほのかな笑みを作っていた事など、彼女の腿の付け根に、まるで子供がイヤイヤを繰り返すかのように目を瞑っていた俺が知る由もなく、暫くそんな時間が続いた。
「ナ……ナーモ君……」
そして、吐息のように俺の名を呼ぶ声がしたのだ。先に、切り出したのは彼女の方だった。
(………………)
もう、彼女が何者でもよかった。正直、この、不安からもたらされる苦しみから解き放ってくれるなら、誰でも、なんでも良かったのだ。今や、俺は、身を乗り出し、まるで彼女の膝に、完全に抱き着こうとすらしていて、スカートから覗くむきだしの腿の肌の触感を、もっと欲しがるかのように顔面をなすりつけている有様だった。
「…………ナーモ、君?!」
彼女は、驚き、戸惑った。だが、次に彼女がとった行動と言えば、椅子の位置を自らずらしていく事で、まるで自らの足元に縋り付くようにしている、俺の全てを受け入れるようにした事だったのだ。
とうとうそこあったのは、座る母親の膝に泣きついている子供のような、リーンと俺の、二人の姿だった。今や、俺の頭を撫でる白い指先は優しさそのもので、多少のぎこちなさはあれど、躊躇いは微塵もなく、蒼き瞳は、惜しみなく愛おし気に、俺を見おろしていたのだ。
何も知らぬ俺は、多少の安堵感を感じると、彼女のスカートが汚れる事も構わずに、グスン……グスン……と、涙ぐんでいて、
「ナーモ君…………」
涙を感じれば、流石に、彼女の表情も複雑さ一色に一瞬そまったのだが、少し考えた風にした後に、
「ナーモ君…………」
幾度目かの呼び声は、まるで我が子をあやす母親であるかのように、落ち着きに満ち溢れたトーンを醸し出していたのだ。
(………………!)
俺は、まだ、まだ、不安で一杯で、だから、もっと愛撫をねだるかのように縋り付きを強めた。だが、すっかり落ち着いた彼女は、ひくつく背中すらも撫でるようにし始めると、
「大丈夫…………大丈夫、だよ…………」
まるで聖母であるかのように静かに語り掛けてきて、
「……もし、今回がダメだったとしても……また、受ければいいんじゃない、かな。…………良くは、知らないけど、オーディションって、沢山、あるんでしょ?」
その優しい囁きは、彼女なりの精一杯の思いやりに満ち溢れていたはずだったのだが、
(………………!)
その瞬間まで、リーンのきちんと並んだ腿の隙間に顔を埋めるようにすらしていたくせに、俺はカッと目を見開くと、
「ダメなんだ! これが最後のチャンスなんだよ!」
驚く碧眼の大きな瞳には、何かに取り憑かれたような顔をして反論する俺が、すっかりそのまま映りこんでいるような距離感で、
「だって…………だって…………」
年端もいかない少女を前にそのままうなだれるように俯くと、
「俺…………俺は…………」
肩を震わすようにして、俺は自らの出自を語りだすのであった。
二十九年前の一月二十六日、俺は生まれた。先に生まれていたのは勉強もスポーツもできる兄で、そいつは両親の自慢の子供だった。少し変わり種であった俺への対応に、親は苦笑交じりに思いあぐねている矢先、今度は弟ができた。こいつはスポーツがよくできた。やがて父親も母親も俺にだけ態度を一変させ、その分、他の二人を溺愛していった。
ともかく俺は学校の勉強も体育も、まるでダメだったのだ。教室の窓の外の青空があまりに綺麗だと、それだけに心奪われているうちに、授業時間など気づけば終わってしまうような子で、他の兄弟のように「学校」というシステムにうまく馴染めなかったのだ。子供を使って「見栄」をはりたい両親は、兄弟を引き合いにだしては俺につらくあたり、それは進級する度に、さらにひどいものとなっていった。
ただただ、図工と音楽だけの成績はやけに良かった俺は、中学にあがると、こっそり貯め込んでいた、祖母からもらったお年玉や小遣いをつぎ込んで、ギターを手にしようとしたのである。それは、俺が俺という少年であるが故の、冒険への片道切符のようなものだった。
だが、張り切ってギターケースも背負い、帰宅した夜、抱きしめるようにしながら眠っていると、怒号と共に襖は開き、
「オレのオフクロからもらった金で、生意気なものを買いやがって!」
酔っ払った勢いのままに父親は部屋に侵入してくると、泣いてすがる俺を殴り飛ばせば、ギターを引きはがし、目の前で木っ端みじんに破壊し、その背後では、酒の入ったグラスを転がしつつ、そんな旦那の姿を妻が応援していた。
今も使用しているギターは、高校時代に寝る間も惜しんでアルバイトをして購入したものだった。この時は、流石に、父親も手を出してこなかったが、いかにも憎々しそうな顔つきで、
「そんなこと、三十までしかできねーんだからな!」
と、捨て台詞をはき、
「……なんで、この子たちと同じように、分かりやすい事ができないのよ! あんたがやってる事はわかりにくいのよ……!」
母親は、爬虫類のような目付きで他の兄弟と見比べた嫌味を塗り込み、兄弟は皆、みてみぬふりに、すました顔をしていた。
俺は、悔しかった。そして、こんな連中と一緒にずっとは暮らせないとも思い、いつしか家を出る事をも決意していた。だが、どこかで親に愛されたかったし、一度でいいから誉めてもらいたいと思う感情も否めなかったのだ。
ある時、優等生であったはずの兄が大学受験で失敗した姿を見た。間もなくして、進学を考えなければいけなくなった年ごろとなり、俺は一代奮起で猛勉強し、難関校への入学を果たせば、途端に両親の態度は手のひらを返したように「軟化」した。在学中に、弟がスポーツ推薦で入った高校になじめず中退すれば尚更の事だった。正直、俺も、この時までは悪い気はしておらず、まるで今までの「鬱憤」を晴らすかのように、家の中で傍若無人に振る舞ったら、途端に、そのどれもが許されたのだ。
事件は、そんな気持ち悪い生ぬるさの日々の中での、ある日の、見せかけだけの家族団欒の晩飯時に、
「……これで、おめーには、後は、どこかの大手企業の、会計だか、経理だか、手堅く就職してもらって~、初任給は、焼き肉でもおごってもらうとすっかな~。あ、給料の三分の一は毎月、よこせよ?」
と、父親が口走った事が発端で、隣の席では、さも当然であるかのように母親が頷いている、その時だった。
(…………!)
思わず俺の箸はとまってしまったのだ。ちょっと待て。俺は音楽で試したい事があるのだと更に口走れば、途端に家の空気すら変わり、
「あんた……いい加減にしなさいよ? 前からジャカジャカうるさいと思ってたのよ! 誰が産んでやったとおもってんのよ! この私が産んでやったのよ! お母さんの『見栄』を晴らしてあげたい! そう思わないの?!」
母親の叱責は続き、だが、尚も俺は何かを言い返そうとした、その瞬間だった。
とうとう大学もろくすっぽいってないはずの父親から鉄拳が飛んでいたのだ。だが、この日、話はそれだけで終わらなかったのである。それまでやられっぱなしだったはずの俺は、咄嗟に殴り返していたのだ。
何度も会社をやめ、挙句に、実の母、俺の祖母には金を無心するばかりでとうとう仕事すらもいかなくなり、母親と共に一日中、酒ばかり飲んでは、酔いどれ、自分は反社からスカウトされた事もあるのだと自慢げに語っていた父親は、反撃に転じればあっけないほどに弱く、果てに殴るだけにとどまらず、このままいけば血だらけの父親を蹴り殺すんじゃないかというタイミングで、それまでただただ傍観者だった兄弟たちが、ようやく止めにはいったのだった。
ギターを一心に奏でる俺に、自分はギターのような「普通」な楽器は演らない。チェロをはじめるんだと、からみ酒をしてきては何もせず、挙句、つぶれたカエルのように毎日眠りこけてた母親は、その時も自ら何もせず、できず、ただ、うろたえているだけだった。
父親は、生前なにかと有能だった祖父の遺したコネクションに頼っては、広告会社等を転々とする自称「クリエイティブなCMプロデューサー」で、母親は、地方から上京して、モデル、女優を目指していた某有名芸能事務所の研修生だった。
とにかく見栄をはりたい、成りあがりたい母親が、その厳しい下積みに嫌気がさして飲んでいたところ、丁度、自分の親が持つ財力をひけらかしてはナンパして近づいてきたのが父であった。
出会いの場は、お互いの共通の知り合いだったミュージシャンがライブを開催していたライブハウスであり、玉の輿を狙って結婚した我が母でもあったが、馴れ初めはどうあれ、そんなユニークな経歴の二人は、音楽自体の造詣は趣味が豊富だったりで、俺の物心ついた時には、実家のこだわりのオーディオ機器からは様々な音楽が溢れるように流れでていたものだったのだから、俺が音楽に興味を持ってギターを握るようになったのは、至極当然な環境だったとも思うのだが、何故に俺の活動に水を差すように妨害し、つぶしにかかるかのようにつらくあたってきたのかと言えば、自分たちが、その場で一番に、いつまでも「ギョーカイ人気取り」、「アーティスト気取り」でいたいのに、俺が本格的に演っていってしまうと、自分たちの「立場」が危うくなるからなどといった卑小な理由故だろう。
そして、俺は家をでた。
それから出会った数多くの仲間たち、とりわけ恋人たちに、談笑ついでに、つと、家族の事を語ると、その誰もがドン引きした表情の指摘をしてきて、漸く、自分が「虐待」を受けてきたのだ、という「実感」を俺は知る事となるのである。
俯いて怒涛のように話し続ける俺は、気づけば肩で息をするようにしていて、それでも尚、止まらなかった。
「だから! 見返してやるんだ! 復讐してやるんだ! あいつらに! 絶対に三十までに成功しなきゃダメなんだ! 成功してやるんだ! あいつらの事だから、俺が売れたりでもしたら、手の平かえしたような態度にもなるんだろうけどさ! そん時、頑としてはねのけてやるんだ! 『ざまあないぜ』ってばかりにさ……!」
一通りを話し終えれば言葉に酔うようにして、未来を夢想し、どす黒い悪魔のような笑みすら浮かんだ。
「…………」
すぐ目の前にある少女は、すっかり沈黙しきってしまい、俺は、尚、息は荒いままであったが、未だ、視界は下にあったので、つい、先ほどまで、自分が枕を涙で濡らすようにしていたスカートと、そこからスラリとのびる腿のラインが、微動だにすらしなくなっている事に、漸く気づきはじめていった。
考えてみれば、さっきから大の大人が子供相手に、みっともない事のオンパレードではなかろうか。
(まずい……)
怖がらせたかもしれない、そんな風に思えば我に返り、
「あ……てか」
何かの言い訳を考えようとしながら顔をあげようとした、その時だった。
ふぁさ…………
そんな音がしたかのような力が俺を丸呑みしていたと思えば、すぐ眼前でしかなかったはずのリーンの香りと赤毛が、俺の周囲を覆うようにしていて、その谷間の中に、顔面は完全に埋もれてしまっていたのだ。
(え…………?)
直ぐに事態は把握したにしろ、赤面と心地よさの間で、俺は大混乱し、
「グスン…………」
少女は涙し、その度に胸が震えるのを耳元で感じる事となった。
(え…………?)
いつしかのようにリーンの胸の中に抱かれ、俺はすっかり狼狽しつつも、頭の中はどんどん冷静になる最中、
「グスン…………」
おまけに少女は涙しているのだ。もうわけが解らなかった。
「話してくれて……ありがとう!」
そして脈絡もない謝意を述べてきたので、ますます意味が解らず、
「辛かったね……淋しかったんだね……可哀想……!」
今までで一番強い負荷が顔全体にかかると、流石に、苦しかったりしたのだが、男として全然悪い気はしなかった。ただ、
(……この状況、大人として、どうなの?)
と、頭の中のどこかはどんどんと冷静になっていく有様だ。
「…………」
そしてリーンは、涙声のままに吐息をひとつつくと、そっと顔を離した。覆うようにしていた髪の束は離れ、彼女の部屋の間取りが見える。ただ視界の片方は、未だ完全に優しい柔らかさの中に埋もれたままだったし、辛うじて見える方も、大きく穏やかな曲線の地平線の先の僅かな世界にあった。
(…………)
男としての本能が(美味しい!)と感じ取っているからなのか、大人として、子供にここまでしてもらって慰められてる事に、俺は、固まった猫のように、一点を凝視したまま、そこを動けずにいたのであった。やがて、最早、まるでいつものように、指先はのびてきて、少女は自らの胸の中に抱き寄せているその者の髪の毛を、まるで優しい手櫛であるかのように、そっと撫でまわしはじめれば、
(…………!)
その愛撫はあまりに強烈すぎていて、思わず俺の体は、一瞬、びくついた。少女は未だ、グスン…と、吐息まじりであるようで、その度に、耳元にある彼女の胸元が微かに揺れる。
(…………)
俺は未だ、何をどうしたらいいか、最早、わけが解らなかった。ただ、この時、俺個人がもつ年齢へのアンバランスな感覚が危険信号を放ち始めていたのも確かで、やがて、少女の涙声は吐息まじりに口を開くと、
「私……ナーモ君の……」
一際にもう一度、抱きしめられれば、再び、リーンの髪の香しさが世界を覆い、
「……お母さんに、なってあげたい……!」
(……子供になんてこと言わせてるんだ…………!)
その一言で、俺は、この甘い呪縛から断ち切るようにして、自らの顔をなんとかしてひっぺがすのであった。
胸の鼓動もなりやまぬまま、見上げれば、
「…………?」
その蒼い瞳はとても潤んで見下ろしていて、もっと、此処にいていいんだと、まるで自らの胸元に誘うかのように首を少しかしげてみせた。
少女と言い聞かせども、その上気した白い肌と唇が、美女である事もあいまって、いやでも俺に「女」として意識させ、
(ダメだ……ダメだ……ダメだ……!)
俺は、自らに言い聞かせるようにかぶりをふると、すっくと立ち上がり、
「こ、こういうことは~、クラスメートの恋人でも作ってやってあげなさ~い」
「……え?」
取り繕うようにおどけて答えてみせた時には、今度はリーンが狼狽して見上げているのであった。
(あ、そっか、女学校は女子校だ)
言った時には、時、既に遅かったのだが、
「そ、そ~んな~、軽々しいことは、滅多に言うもんじゃ~、あ~りませ~ん~」
今度は、今日日、こんな日本在住外国人いないぞと言わんばかりの、怪しい口ぶりを伴って、俺は道化を続けたのである。
「私は……!」
熱っぽい視線のままに少女はこちらを見上げて、何かを告げようとしてきたが、
「まぁ、なんだ! あの~。きもちよかったよ! ありがと!」
遮るように言った側から自分がもうわけがわからなくなっていた。
(……俺は、何を言ってるんだ!……撤退だ……!)
三時間というタイムリミットもどかしく、俺が念じれば、即座に体中は光と化し、
「待って……!」
いつになく強い感情を伴った口調を彼女の声で聞いたのだが、まともに相手も見れないままに世界中は白一色に輝いていったのであった。
周囲の視界は、真っ暗となっている、売れないミュージシャン一人暮らしの男の部屋が顔を覗かせた。
(…………)
とりあえず、充電コードをさしっぱなしにしていた我がスマホに視線をうつしたのだが、帰還してなお、履歴にはなにも残っていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます