其の玖  聖夜の夜に

 レコード会社の一角の会議室で、時に、スタジオで、所謂、ギョーカイ人のおっさん共のずるがしこそうな視線にさらされる中、感情が上ずるせいでいつも通りの演奏ができないままに、歌の事、演奏の事でダメ出しをされる事は悔しく、もったいぶったような質疑応答にはうんざりすらされたが、どんなに「音痴」だの「ギターもターヘー」だの平然とした顔で言われ続けようと、ギリギリのラインで喰らいついていく日々が続いた。

 ただ、「加齢」という「恐怖」への焦燥感も、いよいよ真に迫る所まできていて、こんな状態では、果たして「最終審査」とされる日にはどうなってしまうのか、既に不安で心の何処かは押しつぶされていた。それでいて、俺は、自分一人で食ってもいかなきゃいけないのだ。うずくまりそうな心と体を、なんとか鼓舞させ、バイトには赴いた。そんな長い戦いは、とうとうクリスマスイブまで続いていて、今日も肌寒い高円寺の夜の、自宅までの階段を、労働に疲れ切った俺の足音が響いているところであった。


(…………)

 俺は、眺めた自らの部屋に強烈な違和感を感じれば、立ち止まってしまっていた。冷え冷えとした夜の空気の中、窓からは暗闇であるはずの灯りは灯っているし、換気扇からは室内からの暖気すら排出されているのである。それは、まるで在りし日の何かを俺に思い起こさせた。

(…………!)

 次の瞬間、すっかり思考停止していた俺が思いついたのは、昔の女が戻ってきたんじゃないかという錯覚だったのだ。そう思い込めば、駆け出すようにして自室に飛び込んでいて、ただ、玄関で靴を脱ぎ散らかすのも惜しいほどにしてから、なだれ込んだ台所には、あの日のあの娘の姿ではなく、つい、最近まで、最早、見慣れた風でもあった「お姉ちゃん」の赤毛の姿が立っていたのだった。


「…………」

 呆然と見つめ続ける俺の方に碧眼は振り向くと、

「おかえり、なさい……」

 目を泳がせるようにしてから、やがてはにかみ、上目遣いに語りかけてきたのだが、尚も、ジッとしていたせいであろう。

「あの……ごめんなさい。玄関で待ってようって思ったんだけど……!」

 今度は、弁明を一所懸命に訴えようとしはじめたところで、

「や……んな、寒いところに立たせてたら、俺がダメでしょ」


 俺は答えながら徐に室内に入っていくと、未だ、付けられていないエアコンのコントローラーに手を伸ばし、この日は特別とばかりに、暖風が久方ぶりに稼働を始めた。

 よほど神経が参っているせいであろうか。本人がこちらの世界にやって来た「気配」は全く感じる事ができなかったし、いろんな意味で、眉間を指でつまみ、目を強くつむってみたり、開いたりを何度か繰り返していると、

(…………)

 ふと、部屋の雰囲気が変わっている事に気づいたのだ。山積みになっていたはずのゴミ箱の中身は空になって、小分けにされた収集袋に収められていたし、埃まみれとなっていたフローリングもカーペットも掃除機がかけられた事は一目瞭然だった。


「あ、あの!……きっと、忙しかったんだろうな、って思って……!」

 台所に立つ少女は、またもや必死に弁明をはじめ、

「勝手な事して、ごめんなさい! けど!……大事な本、とかは触ってないよ……」

 弁明の最後の言葉の選び方の迷いのトーンが、いつにもまして俺は気になり、やがて視線を移した先では、綺麗に掃除された一室の中で、俺が日ごろ、「お世話になっている」品々のみが、未だ無造作に置かれたままだった。


「な…………!」

 一気に仰天した俺は、そいつらを万年床の、布団とマットの間に挟み込みはじめては、

「こんなイブに! なにやってんだよ! 彼氏と遊んでろよ!」

 最早、赤面の塊と化しつつ、悪態の様な口調しかでてこなかったのだが、

「彼氏、なんていないもん……」

 彼女は真面目に答えてきていて、

「……学校、女の子だけだし……友達は、青春コンパで、男の子と遊びにいったりしてるケド」

「青春コンパ?!」

 思わず懐かしい言葉を聞けば、俺が素っ頓狂に振り向いた。大学時代、祖母の家に立ち寄った時の世間話で、「合コン」とは、かつてそんな呼称であったと言う事を聞いた事があったのである。気づけば、こちらを見るようにして答えていた彼女のエプロン姿を見やりながら、

(……『古き良き日本』、息づきすぎでしょ……)

 なんて思っていると、その赤毛碧眼の向こう側から醸し出されている湯気の数々の美味そうな匂いが、一際に嗅覚を刺激し、俺の腹は、「グ~~~~~~ッ」と、物凄い音をたて、舌なめずりをするではないか。


 解りやすすぎる反応に、一瞬、驚くような顔をしたハーフの少女であったが、すぐさま、フッとした笑みを浮かべ、

「お腹、すいてるんじゃないかな、って思って……お口にあうといいけど……メリークリスマス……!」

 と、聖夜に祝盃をあげるのであった。


 雑巾がけまで丁寧にされたちゃぶ台の上には、やがて、ところせましとリーンの手料理が並べられていき、そのどれもこれもが、クリスマスを着飾った細かなデコレーションすら彩られたものばかりで、

「…………」

 未だに目をまん丸にあけている事しかできない俺の目の前にて、リーンはどこまでも手際がよく、その家庭的スキルには驚く事しかできなかった。そんな俺の姿に何を思ったのか、

「やっぱり、大和撫子たる者、ね」

 給仕を続けながら少女は答えてみせ、やがて一通りのものが揃え終わると、

「ごめんね。ジュースとかしか、買えないから」

 注がれるグラスさえ綺麗に洗われた事を物語り、

「……よいしょっ、と」

 ゴソゴソとビニール袋から、クリスマスグッズの帽子を取り出せば頭にのせ、

「……ナーモ君」

 おずおずと差し出してきた手には、帝国製のクラッカーが握られていたのだ。


「メ、メリークリスマース!」

 俺は、明るく振る舞う声に合わせ、クラッカーを鳴らす事くらいはできた。

「さ! 食べて! 食べて!」

 そして、お次は手料理への催促である。

「……ただきやす」

 心ここにあらずなままに、俺は手元にあるピカピカに磨かれたフォークに手をのばすと、間近にある一品を口に運んでみせた。途端に豊潤な香りと味と温もりが、冷え切った五臓六腑に沁み渡った。

「どう……かな……おいしい? かな……」

 万年床に座して咀嚼を続ける俺の斜め横では、座蒲団に腰かけた、心配げな碧眼がこちらを見つめている。

「うん……」

 先ずはコクリと頷くと、

「よかった……!」

 いつしかのように途端に顔をほころばせた彼女も、続くようにして食事をはじめ、

「うん……」

 俺は、もう一度、頷くようにしていた。暖かなものは体内の中を次から次へと舞い降りていくようである。

(…………)

 それらは、かつて、元カノ達とこのアパートで過ごした、俺の在りし日を思い起こさせるには充分な材料だった。ただ、あの日、あの時、共に笑い楽しんだ席には、縁もゆかりもない、年端もいかない少女が座しているだけだ。だが、このこみ上げてくる感情は、一体、なんなのだろうか。


 俺は、何かにずっと張りつめていた気持ちだったのだろうか。温もりを前にして、どこかが瓦解した感覚をおぼえた、その瞬間、

「グ……フっ!!」

 頬張ったままに嗚咽は途端に吹き出し、

「!……ナーモ君?!」

 無論、突然の事に、リーンは驚いてこちらを見つめたが、口いっぱいに食らいついたまま、俺の嗚咽は止まらず、とうとううずくまるようにしては、涙は止まらなくなってしまった。


 リーンは、最初こそどうしていいか解らず、うろたえるようにして眺めているだけだった。だが、少しずつ近づいていけば、そっと背をさすりはじめ、それでも叶わぬと見ると、意を決したように膝を折って身を起こし、まるでその全てを受け止めるかのように、フワリと俺を抱き寄せたのだ。


(…………)

 一瞬、何が起きたかは全く俺には解らなかった。感じるのは、驚くほど柔らかい弾力と、周囲を覆う赤毛の髪と、いつにも増したリーンの芳香で、

「……ナーモ君」

 硬直したままでいる俺に、やがてリーンは囁くようにして話しかけてきたのである。


「……私は、知ってるよ」

 抱きしめたままに語りは続き、

「……ナーモ君は、頑張ってるよ。……えらいよ。……大丈夫……お利口さん、だよ……」

(…………!)

 とうとうその一言に、完全決壊した俺の涙は怒涛のようで、

「ん……ン……」

 自らの胸元が汚れていくのに構う事もなく、リーンは、時に、吐息まじりに頷きながら、抱き寄せている事を止めようとはしなかった。

(嗚呼…………!)

 とうとう、自分の感情のたがは外れようとしていた。見上げれば、ほのかに頬をそめたリーンの蒼い瞳も、潤んだようにしてこちらを見おろしている。

(嗚呼…………!)

 もう、自分の目の前にいる者の姿は、年端もいかない少女ではなかった。俺たちの視線は熱っぽいままに絡み合い、今や、その唇と唇が触れようとした、その時。


 RRRRRRRRRR!

 途端に、一時休戦を告げるように、電話の着信はけたたましく室内を駆け巡り、ハッと二人は我に返った風になれば、俺は、慌てるようにして液晶を耳にあてていた。


 電話の向こう側では、既に酔っ払った仲間共が、今から街に出てこいと食い下がってくる内容だった。あまりにひつこいので、最後は怒鳴るようにして切ってやったが、舌打ちしながら振り向くまではよかったものの、髪や衣服を直すようにして座り直すリーンの姿を目の当たりにしてしまえば、物凄い恥ずかしさと気まずさで、部屋の空気は充満していくようではないか。

「……く、食うか」

「……うん」

 お互いの気恥ずかしさの中で再び始まった食事ではあったが、俺は、先ほどまで自分の心の中にのしかかっていたはずの重しが、嘘みたいに消え去っているのを感じていた。すると会話も弾んでいき、穏やかな聖夜のパーティーは、漸くはじまったのだ。


 それは、あの「システムマイスター」なる「老婆」が、とうとうこの部屋にもやってきたって話をした時の事だった。

「そっか……来たんだ」

 聞けば、相変わらず、リーンの前には、とんと現れていないらしい。

(…………)

 俺は、リーンが、どこまで「真相」を知っているのかが気になり、問うと、

「ん~……」

 彼女は真剣に困っているような顔を見せた後、

「……よく、わからなかったんだケド……一生懸命、話してくるし、なんか、かわいいな、って、とりあえず、ウンウンって。頷いてたのっ!」

 肩をすくめて片目を瞑り、舌先を小さくだして笑いかけられた時には、今まで見た事もない表情に、思わずドキリともさせられたのだが、

(な~んにも、解ってないやんけ~!)

 笑い返しながらも、俺は心の中のツッコミは忘れなかった。


「……ナーモ君、オーディションは、どう?」

 そして質問は、今度、リーンの番だ。

「あ~。それがさ~。ちょっと、聞いてよ~……」

 会話もたけなわとなれば、食事も更に進み、時間は穏やかに進んでいった。


「はい! これ!」

 お手製でラッピングされた袋の中身は、ギターをアンプに繋ぐシールドであったりで、

「うわ。リーン、これ、高かっただろ~。……ありがとう……」

 何の用意もしてない自分の気まずさに頭をかいていると、彼女の「発光」ははじまりかけ、

「どうしよ……これじゃ、お皿、洗えない……」

 光り続ける自分の腕なんかを見回しつつ、リーンは呟いていて、

(…………)

 当初こそ、俺は、自らの感情を押し殺してみる事に努めようともしてみたのだが、このまま、彼女が実体もないままに消え去っていく事は、どうしても許す事ができなくなっていた。

(……………!)

「キャ……!…………?!」

 気づけば、眼前にて、自らのタイムリミットを素朴な理由で嘆いている彼女の腕を、俺は、思わず、掴んでしまっていて、驚いたように見返す碧眼に口走ったのは、このままリーンの世界への久々の俺の来訪による、三時間延長作戦だったのだ。


「……ナーモ君、それはダメ……お母さん、もう少ししたら、帰ってくるかもしれないし」

 ただ、一通りを聞き終えた光の少女は、穏やかな笑みをこちらに向けていて、まるで諭すように語り掛けてきたのだ。どれだけ夜遅くまで働いてる母親なんだ、と、思わず、呻きたくもなったが、当然、本当の理由はそこじゃなかった。深沈な光の少女を前に、どちらが年上なのかも解らないような、しょげた面を惜しげもなく見せていると、

「……明日の、お昼は?」

 微笑みの口元から放たれた提案には、ウンウンと、惜しげもなく頷く自分がいたのであった。そして、一気に心は華やぎ、今や、リーンは光そのものと化した、その時だった。思わぬ不可抗力をリーン側から感じると、ままに視界はガクンと下方に落ち、光の中で目をつむるリーンの顔が、すぐ目の前にあったと思う。

(……………!)

 今や、久方ぶりに見た光は、その際に消え去ってしまい、それが口づけであったと解るまでは、随分と時間がかかってしまった。


 厳寒な修羅場の日々の最中で、ポッとわいたように咲いた小春日和のようなひと時だった。

(…………)

 今宵、起きた事を反芻するようにして消灯した天井をみつめつつ、やがて身を横たえた布団からは、ながらく忘れていたファブリーズの香りすらし、

(…………)

 俺は、未だ、いろんな事が信じられないままに天井を凝視していて、やがて眠りについていったのだが、翌日、リーンの部屋に赴く直前、昨晩のことを思い出して口についた一言は、

「……なにやってんだー。俺」

 と、頭を抱える事だった。


 神様が生まれたとされる日の昼、俺は自らの高校時代ぶりに、ティーンエージャー女子の部屋にお邪魔する事になったのだが、

「…………!」

 ただ、その部屋は、俺が入りこんできた女子たちの部屋レベルを凌駕する光景で、ただただ、口を開けるようにして驚く事しかできなかったのだ。


 リーンの部屋は、中世のヨーロッパを思わせるような白を基調とした家具の類に、カーテンやクッションはアンティークローズがあしらわれ、巨大なベッドなど天蓋まで付く代物で、部屋の主は、赤毛碧眼に、透き通るような白い肌のハーフの持ち主の少女なのだから、最早、俺は、おとぎ話の世界にでてくる一国の姫の部屋に紛れ込んだかのような気分だった。


「お待たせ……」

 やがて、紅茶をトレイにのせた主が、少し恥ずかし気に一階からあがってくると、

「あれ……」

 俺は部屋の一角にあったピアノを指さしていて、

「弾けるの……?」

 ボソリと掠れるように問うていた。昨夜の余韻のままに来訪してみたはいいもの、俺も非常に緊張していて、一度はまるで包み込まれるように味わった彼女の芳香がそこら中で漂っているのだから、まるで何かに酔っているようだ。

「ちょっとは、ネ」

 答えたリーンは、まるで、その質問を待っていたのかもしれない。

「……ナーモ君の歌も、覚えたよ」

 やがて着席し、おもむろに鍵盤蓋を開けた繊細な指先はメロディと和音を奏ではじめ、それが「月光」であったりすれば、

「完コピじゃん……」

 作者としては、こんなに嬉しい事はなかったりで、

「…………!」

 無言ながら、お姫様のような碧眼も喜びを隠せないようにしていた。


 夕べはあれだけ近づいた二人であったのに、一日が経ってしまえば、冬の昼間の陽気の中の俺たちのお茶の時間は、なんだかギクシャクもしていたが、やがてリーンは、最後の一滴を飲み終えるようにすると、

「お、お腹すかない……?」

 空気を切り替えるように切り出してきたのだ。


「……………」

 今や、子供の頃のあの日のように大理石のテーブルに座した俺の目の前には、昨夜と同じエプロン姿をしたリーンの後ろ姿があったのだった。多少、手伝ってやりたいとも思ったのだが、改めて眺める、棚に整頓された食器の、そのどれもが高級感がありすぎていて、割ってしまうのも怖いとも思えば、大人しくしている事にした。


「ナーモ君、細いから……」

 手際よく台所を動き回りながら、やがて後ろ姿は話しはじめ、

「ご飯、食べてるかな。大丈夫かな。って、思ってたんだよ……」

(……母親かっ!)

 いつも通り、照れ隠しのツッコミは心の中に留めながら、

「……どーも」

 平静を取り繕うと、俺はわざと無愛想に謝辞も述べてみたが、そっぽを向くようにしながらも、思わず見入ってしまう赤毛の後ろ姿には、思わず縋り付きたくなるような衝動にかられてしまうから慌てた俺は、自らにかぶりを振るようにすると、

「し、しっかし、広い家だよな~! なーんか、女中とか召使いとかいてもおかしくなさそう!」

 明らかに虚勢でどもっては話題を取り繕うとするのであったが、

「……前は、いたみたいなんだけど」

 それは冗談にも似た話題のつもりであったのに、平然と答えられた時には、

(え……そうなの? え?……令嬢?!)

 驚愕の事実は、またもや繰り広げられるのだった。


 なんと光野家とは光野財閥なる代々連なる大名家の主だったのだ!

「詳しい事は教えてもらえてないんだケド……」

 現会長である母親の仕事自体は不明だが、帝国政府、果てはアメリカ政府等とも密接に連携した、重要な「何か」の業務に当たっているらしい。

「特に、ここ最近は大忙し、みたい」

 やがて皿を並べはじめたリーンの話は続く。

「だからお婿さんだったお父さんはね、ちょっと、息苦しかったのかも。私が小さい頃に離婚して、国に帰っちゃった、みたい」

 語り続ける彼女の表情に、今まで見た事ないような一抹の淋しさがよぎれば、俺の中を、なにかくるおしいような感情も突き抜けたのだが、

「そ、そっか~……」

 俺は、そこで留めておかなければならないものだと思えたのだ。平静さをなんとか維持しようとすれば、気の利いた言葉の一つもでてこなかった。やがては、誤魔化すようにして頭をかきながら、

「……ま。けど、おばさんとは仲良くやってんだろ~」

 幼き日に見た彼女の母親の事を思い出し、話題を変える事で精一杯で、

「うんっ! 私が一番、尊敬してる人、かな!」

 今や、ランチメニューが運ばれたテーブルの俺の目の前で、碧眼は迷う事なくこちらを真っ直ぐに見つめ、答えていた。母子家庭であるとはいえ、親子関係は良好な様子だ。ただ、やがて、リーンは少し恥じらうような素振りで視線を泳がすと、

「夕べ、もね……私が、お母さんにされて、安心した事、思い出して……」

(……………!)

 それが、あの優しさ溢れる抱擁であった事なんて、すぐに合点がいくというものではないか。俺は、一気に恥ずかしさでのたうち回りそうにもなったが、かぶりをふるように目の前の手料理に視線をうつすと、

「……く、食うか」

「……うん」

 まるで、やりとりは前日の焼きまわしだったが、最中、

「……ナーモ君の、お母さんは、どんな人?」

 皿から口に運びながら、少女としては、なんてことのない質問だっただろう。


(………………)

 だが、俺は、せわし気に動かしはじめたはずのフォークやらスプーンやらを握りしめるようにして、押し黙ると、もう一度、彼女の方を見たのだ。

「……?」

 突然困惑した俺の表情に、リーンは屈託もない笑みを浮かべたまま、首をかしげてみせたりする。

(………………)

 異性に自分の生い立ちを語る時、俺は、自らの中に巣食う「母性」への「飢餓」のようなものが常につきまとうのを感じていた。自分すらも未だに中高生程度の年齢であったとしたら、ここまでの躊躇いはなかったのかもしれない。ただ、これだけ年の離れた状態で、語りだすのははじめての経験だったのだ。

「……えっと、まぁ……なんつーか。なんだ……あれ、鬼畜?」

「…………!」

 選びながらも言葉を編んだつもりが、積もり積もった怨念の感情は、一口目からものすごい例えをしてしまい、当然、碧眼の瞳は、驚きに大きく開かれる有様となれば、

(……ダメだ!)

 途端に俺は目をつよくつぶるようにすると、

「……その件についてはノーコメントで」

 おどけるように、苦笑まじりに答えるので精いっぱいで、

「そ……か。…………ゴメンね」

 困惑したままに、リーンは、じっとこちらを見つめるのみだった。冬の日だまりのキッチンで、ジェネレーションギャップがもたらす、ギクシャクしたランチタイムは続いていった。


「……ナーモ君、ここ、なんだけどさ」

「……お~、ほいほい」

 今や、午後のひと時の只中、お姫様のようなリーンの自室の机には、ノートや、プリント、教科書の類が開かれ、冬休みの宿題に望むリーンと、そのすぐ傍らで、昔とった杵柄のように家庭教師と化した俺が、共に肩を並べて問題にあたっているところだった。課題のおかげで、先ほどまでのギクシャクが嘘のように会話はスムーズになったし、この時ばかりは、大学に入るためだけに勉強していた事も、その後の学生時代の思い出にも、心底感謝する事ができたし、

「すごい! ナーモ君の説明、先生よりわかりやすいかも……!」

 なんていう少女の歓喜の声には、

「まっかせてよ~! 俺、2の子を5にした事ある、元プロよ!」

 と、おどけながら嘯く事もできるほどのいつもの余裕が戻っていた。


 ただ、楽しい時間はあっという間に過ぎ行くものだ。びっしりと可憐な手書きが踊るリーンのノートを指さしながら、俺が、更に説明を加えようとしている最中、その指先が、ほのかに光を灯し始めると、

「……もう、そんな時間……」

 ジッと見るようにして、リーンが、俺の変わりに至極残念そうに呟いた。

(…………)

 同じく、自らのタイムリミットを眺めていた俺だったが、一度、ゴクリと唾をのみこむようにすると、

「まぁ……あの、なんだ。俺、さ。今度の『最終審査』まで、実は結構、暇、なんだよね」


 こんなに名残惜しくなるなんて想像すらできなかった。ただ、今日、勉強を教えた事で改めて実感したのは、あくまでリーンは学生の女の子であるという事だ。いい年である俺には、やはり、躊躇いと戸惑いがあり、彼女に対してどこまで介入していいかなんて全くの未知数であった。そう思えば思うほど、途端に先ほどまでの饒舌が嘘のように、言葉を選ぼうとすればするほど、口調はしどろもどろとなっていく。

「そんな、どっか遊びに連れてってやったり、とかもできないんだけどさ……」

 光は徐々に進行し、今や、目の前ではジッとこちらを見るようにしている少女の顔すらもまともに見れないまま、大人であるというのに、言いたい事も言えなくなっている自分が歯がゆかったし、腹ただしい心境で、

「けど……ほら、学校の宿題くらいなら、お手のものだし……!」

 光は更にまばゆくなっていく。俺は自らの胸の鼓動が何故なのかも、意味がわからなくなっていた、と、その時だった。未だ、繋がっている目の前の景色に急激な動きを感じたと思えば、まるで、いつしかのようなフワリとした暖かい感触が、顔全体を覆ったのだ。

(……………!)

 驚いて見上げると、俺を包み込むようにしていたリーンが、

「ご飯、作りにいく、ね」

 と、頬を染めながら見おろしていた。次第に視界は真っ白な世界となっていき、最後に垣間見えた口元が、「またね」と、言った。


 クリスマスが過ぎ、いろんな意味で全てを賭けた一瞬が、刻一刻とせまろうとしていたのだが、気づけば、ついこの間まで俺の心を急き立てるようにしていた「悲壮感」や「焦燥感」のようなものは、気づけば、すっかり掻き消えてしまっていた。







 






 




























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