其の漆 すれちがい
ある秋晴れの吉祥寺は井の頭公園を歩いている時だった。俺の前を行くリーンは、こちらでは電話もLINEもできない彼女のスマホではあるが、写真機能を最大限に駆使して、秋の光景の撮影を楽しんだりしていた。
(……若い、っていいな~)
この時は、そんな彼女の姿を微笑ましいと思う位で、俺も自らの液晶を雑にかざして、適当に撮ってみたりした。制服こそえらく古風な雰囲気ではあるが、パーカーを羽織り、スカートからはスラリとした足すら覗かせて公園散策に楽しむプライベートの姿は、こちらの世界にも、ごくごくいそうなハーフの少女の姿である。
俺の、大人になってからの子供相手と言えば、ライブハウスにて、テンションがちょっとやばくて、たまにメンヘラなバンギャくらいしか経験値がない、と言う事もあるが、リーンには、こちらの世界の少女にはない落ち着き、のようなものも兼ね備えているような気がしてならなかった。そして、この、そこはかとない「気品」と、俺はどこかで接した事があったと、じっと記憶を辿っていくと、それは、今や、他の家族同様、縁遠くなってしまった祖母の面影であったりしたのだ。
(…………)
親から溺愛される他の兄弟たちの板挟みの中で、俺はいつもほったらかしで、淋しさから団地を飛び出せば、近所に住んでいた祖母が、縁側からいつも暖かく出迎えてくれた姿を、俺は、ふと、思い出した。とかく共通しているのは、日常会話における落ち着いた日本語の話しぶりであったりで、やはり、本当なら、こちらの世界の日本にも戦前にはあったはずの「古き良き日本」を遺しているのが、彼女たちの世界なのかもしれない。
(…………)
やがて、思い出は連鎖されていく。夜になっても帰ってこない俺を、母親は誤魔化すように笑って迎えにくる。だだをこねるにようにしながらも、抵抗虚しく、俺は祖母の家から引っ剥がされるように帰路につく。そして、部屋に戻るなり、あの女の作り笑いだった顔が、まるで般若のようなツラとなっては、こちらに向けられるのである。
「てめぇーは! そんなに家が嫌なら、あのババアのガキになっちまえ!」
そして女の罵詈雑言は続き、夜、寝入っていれば、今度はものすごい激痛と共に、俺だけ、たたき起こされる。其処には今度、鬼のような顔をした父親が立ちはだかっていて、
「オレのオフクロの家に気安く行くんじゃねー!」
男からの圧倒的な暴力は、下手をすると朝まで続いた。その後ろでは、酒と氷の入ったグラスを傾けながら、女が、「もっとやれ!」と威勢のいい声を振り上げていて、兄弟は誰一人として、見て見ぬふりなものだった。
(………………!)
俺の心の中を、殺意にも似た、頑なものがよぎっていた時だった。
パシャ! と、した音がすぐ間近で鳴った気がして、我に返ると、いつの間にかすぐ隣に立っていたリーンが、撮影を繰り返したりしていて、画面には、終始笑顔でポーズする彼女の隣で、自分の世界に浸っていた所から、次第に自己を取り戻す俺の一部始終が映り込んでいた。
(…………?!)
「はい! ナーモ君のも貸して?!」
そして、何かを思う暇もなく、言われるままに、俺は自分のスマホを手渡してしまえば、もう一枚だけ彼女は同じふうにすると、にこやかなままに突っ返す。
(…………?)
自分の液晶に映りこんだ、二人並ぶ写真を眺め、俺が首をかしげていると、
「……ナーモ君……!」
あちらの世界では、井の頭公園自体そのものがなく、変わりに「井の頭国立研究所」なる広大な研究施設が広がっているのみであったりするのも原因だろうか。今度は俺の服の袖をクイクイ引っ張るリーンの碧眼は、既に湖に浮かぶボート乗り場の方を食い入る視線で見つめていたりしていて、
(……やっぱ、子供だ)
苦笑まじりに、俺は、そんな事を思った。
最初の方こそ、その奇想天外さ故に、俺も面白がっていた「世界越え」であったが、差異こそあれ、慣れてしまえば、そこは見慣れた街の風景になりつつあった。なにしろ、それで何をどうしたいいかも明確じゃないサイクルに、俺自身が飽きてきていたのかもしれない。ただ、俺の日常の方に、少女は未だ、興味津々であるふうに思えたので、
「どっかで誰かとバッタリ、ってのもめんどくさくなるだけだろ?」
数年ぶりとなる合鍵の手渡しが、恋人でもなんでもない子供となるとは思いもしなかったのだが、少なくとも、彼女がこちらに来る以上は、保護者的な責任が俺に伴う位の事は思っていた。至る所で光輝いては、謎の赤毛碧眼の少女が、異世界を行き来するというわけにもいくまい。
「……けど、玄関までな」
目の前で、渡された鍵をじっと見入る様にしている碧眼に、俺は、おどけるようにして続ける。
「……金は? どうする?」
「……え?」
何かをいいたげな瞳は、やがて、こちらの方を見上げた。遊ぶにしたって先立つものがなければはじまらない。けど、それさえあれば、彼女にとっても最早、勝手知ったる「日本国」だろう。後は、自由にしたらいい。と、尚、何かを話したそうにしているうちに、光の少女は、リミットを告げる予告を体中から照らしはじめていた。
「まぁいいや! この辺に封筒でもいれて置いとくから! 自由に使って! (……なかなかイタい出費だがな……)」
そうは言いながらも、思わず、白目の一つも向きたくなる中、
「…………でも!」
漸く何かは発しようとした少女は光の中に消え去っていて、
「や~……子供にまで心配されてるよ、俺」
残り香が居残る中、男一人所帯の玄関に、呻くような独り言が響いた。
リーンがこっちの世界に持ってくる風歌のおススメCDには、まだまだ、興味は尽きなかったし、少女自体が、俺の作る音楽のファンになってくれたのはモチベーションの向上にも繋がったのだが、少しずつ、俺自体の生活は元のスタイルを取り戻しつつあったのだ。ただ、スケジュール予定にはないトリッキーな動きを、リーンは頻繁にしはじめていて、仕事中にそれを感じれば、今夜も関係者専用通用口の出口の先では、制服姿の少女がジッと待っていたりするではないか。
ぶっちゃけ、悪い気はしないにしろ、流石に寒くもなりはじめた夜の街に、子供を一人、待たせておくのも悪い気がしていたのだ。ただ、封筒にしのばせておいた財産は、全く、減っている様子もなくて、
「ちょいちょいちょい! リーンさんよ! これじゃ全然遊べてないじゃん!」
「ううん……大丈夫! 楽しかったよ」
俺が、ただただ驚いていると、一言を残して、彼女は去っていくのみであった。
(……この玄関から職場までの散歩の何処が楽しいんだよ……少なくとも、俺だったら地獄でしかねーわ……)
いつもの残り香に、俺は、心の中でツッコミをいれずにはいられなかった。
「じゃあ、一度だけ、わがままを言わせてください……」
その日は、いつものティータイムだった。まあまあ門外不出のデモ音源まで誉めちぎられては、こそばゆさでしかなかった俺だったのだが、ここまで理解ある少女の事が、最早、貴重な「お客さん」のようにすら見えてきてしまった俺は、そんなに、こっちの世界に興味があるなら、もっとたくさん遊んでほしい。金の事は心配するな、みたいな事をとうとうと語っていたのだ。
(まぁ……こんな甲斐性なしがいうのもなんだけど……)
思わず自分ツッコミも忘れないでいると、秋の日差しがさしこむ紅茶の水面を、俯くようにしてじっと見つめていた眼前の少女は、やがて口を開き、
「私……ナーモ君のするライブ、が、見てみたいです…………!」
何故か、思い切ったようにこちらを真っ直ぐ見つめてきた碧眼の、その真っ白な頬を少しばかり赤くさせながらの一言に、カウントとしては自腹扱いだとしても、バンド時代ぶりに前売りがはじめて売れた事の喜びの方が、遥かに凌駕すれば、俺が快諾しない理由などなかった。
(音楽は、お金じゃない!)
この時ばかりは心底、そんな風に思えた。
リハーサルが終わり、すっかり顔なじみにすらなった対バンの連中や、スタッフ、マスターなんかと談笑していると、Openの時間はとっくに過ぎさっていたが、賑やかなBGMが店内を流れる中、今宵も相変わらず客席はガランとしていて、
(…………)
今日も見渡せば、各自、演奏は素晴らしいのに、どういうわけか集客は難しい顔ぶればかりが並んでいた。
(…………)
優越とは言わないにしろ、今日の俺には、たった一人とは言え客が既についているという事は、実は、奥底でモチベーションをメラメラと燃え上がらせるには格好の材料だったのだ。やがて、ライブはSTARTし、共演者の熱唱が繰り広げられはじまった最中、こちらの世界に彼女がやってきた「予感」がしてから、当初こそガラ―ンとした淋しい客席ではあったが、暫くして重い扉が開く音と共に、少女とは言え、赤毛碧眼のハーフの美女が店内に顔をのぞかせた時には、共に着席している演者の空気が、一瞬、どよめく気配を感じた。
リーンはカウンターで受付をすますと、はじめて目にするライブハウス特有の暗闇に、当初こそしばらく目を丸くしていたが、自分の姿を見かければ、小さく手を振るようにしてから、そっと近づいてきて、この一連の流れには、他の演者たちからは驚きの視線が集中し、正直言って、全く悪い気分はしなかった。
「……リーン、あのさ」
いよいよ、自分の出番が近づきつつある時の事だった。俺は懐からICレコーダーを取り出すと、操作の方法を教え、終わるまで手元に持っておいて欲しい事を頼みこんだのだ。こちらの囁きに、すぐさま耳をそばたててきた赤毛が鼻先にふれた瞬間、この世のものとは思えないほどの麗しい女性の香りを感じ取ってしまった事は、最早、不可抗力であった。
楽屋にて出番を待つ最中、チューニングなんて繰り返しながら、俺は、ふと、物思いにふけった。二十九年も生きていれば、そこそこの女性経験を経るものである。これまで何人の当時の彼女に、まるで専属スタッフ変わりのような事を仕向けてきた事だろう。その中でもライブ録音は、一番、大事な業務であったりしたものだ。
俺の持論には、「外音が真実」というものがあった。モニターから返ってくる声と音に、いまいちノレなかったり、思うところがあったりしたとしても、客席に届いていた音さえ良ければ、その日のライブは大成功なのである。ただし、そんな大事な仕事を、縁もゆかりもない子供にやらせる日が来ようとは、
「……人生、わっかんねーなー」
チューニングマシーンの画面を見つめつつ、ボソリと呟く他ない俺がいた。
前の演者が終わり楽屋に入ってきて、お互いに適当な挨拶をすますと、SEが鳴り響いているステージに向け、ギターを携えた俺は歩き出す。照明の只中にあるマイクの前に立ち、目の前の真っ暗闇に目を凝らすと、結局、客らしい客はリーン、一人だけであった。じっとこちらの方を向く視線に、一瞬、これまでの数多の元カノの影が重なっても見えたりしたが、それではあまりに年齢差がありすぎというものだろう。
(……ほんと、わっかんね……!)
もう一度の呟きと共に思わずもれた苦笑は、心の中のみにして、少女の瞳を感覚で感じつつ、俺は演奏を奏ではじめた。
ライブ後に客席に戻れば、すっかり上気したリーンが、流行る気持ちを抑えられないようにして、こちらでは全く連絡手段として役立たない液晶画面を取り出すと、
「すごい! 素敵だった!」
だとか、
「ライブとCDでぜんぜん迫力が違うの!」
だとか、
「やっぱ、ライブ、だね!」
云々と、こちらはいつも通りに演ったにすぎないものへの賛辞が、文字として踊りに踊り回っていたりしてたので、そこはかとなく、くすぐったかったものだったが、
「来てよかった!」
という文字を目にした時には、俺も素直に嬉しかった。
いつもの終演後ならば、親交も兼ねた単なる飲み会という名の、たまにダメ出し大会兼、一触即発の喧嘩寸前大会タイムと相成る所だが、差し迫るリーンの滞在リミットにそうも言ってられず、皆には軽い紹介だけをすると、俺はそそくさと帰る準備をはじめ、奇想天外な俺たちの内実には想像も及ばないだろうが、店の外観に反して、意外と心優しい常識人達が集まっていたりするのがライブハウスであったりする中、ただ、未成年の少女には、気を付けて帰るように優しく話しかけたりしながらも、一人の同業者が、
「とうとう、こんな年下の子に手をだしたか。このド変態(羨ましい)!」
などと俺をからかい、周囲がドッと笑えば、俺も笑いにつられながらも、
「友達の妹だよ!」
なんて返してやったのだが、
「……妹……」
笑いの渦の中、はじめて見た生演奏に未だ上気していたような顔をしていたはずのリーンの表情が、一瞬にして呆然と、無表情になっていた事には、全く気づかないでいた。
やがて、立ち尽くしているようにしているリーンを一方的に促しながら、俺は店をでようとしたのだが、
「……んな事、やってる暇あんのか~?!」
悪い人ではないのだが、偏屈を地でいっているライブハウスのマスターが、カウンター越しにからかい半分に放った一言には、そこまで笑みを浮かべていたはずの俺の表情までも、一瞬、無表情に凍りつかせたのだ。ただ、すぐ、取り繕うようにすれば、俺たちは現場を後にした。
銀杏の葉も黄色に色づいた街道を、リーンの背中がスタスタと歩いていて、その度に肩にかかる長い赤毛が揺れていた。先ほどまで、あれほど上機嫌だったはずの少女は、今は何やら不穏な空気を醸し出している有様ではないか。
「え……? なに? なんかキレてる?」
なんとか追いつくようにしながら、俺は問いかけると、
「……怒ってませんっ!」
(……いやいやいやいや。明らかにキレてるじゃねーかよ)
まるで、これでは文字通りに、女心は秋の空ではないか。否、最早、遠い日々となってしまったので良くも覚えてないが、もしかしたら、思春期特有の何か、なんだろうかなどと、なんとなく気まずいままに、あれこれ考えを巡らせながら、すぐ後ろをついてってると、突如、少女は立ち止まっては振り向いて、
「……これ!」
託していたICレコーダーを突っ返すようにしてきたりしたのだが、俯いたままの顔は髪に隠れ、全く表情はくみ取れない。
「あー。どーもー」
「…………!」
俺が間延びした返事で返せば、再び、反転した後ろ姿の赤毛のマウンテンパーカーは、理由も解らぬ、沈黙の不満と抗議で満ち満ちていた。
今や、玄関には、無言で終始俯きっぱなしの少女の物凄い迫力を前に、突然の変容に全くついていけない俺が困惑するのみであった。最早、同じ問答にすらなりそうなので、こちらも沈黙したままに時の経過を計っていると、「発光」がはじまり、こちらが、正直、胸をなでおろしていると、
「わ……私は……!」
未だ俯きながらも、漸く光の少女は口をひらき、
「……友達の、妹、じゃありませんっ!」
と、至極尤もなことを捨て台詞の様に口走った途端に、掻き消えた。
(……いやいやいやいや。火星からやってきた宇宙人だよ! とでも言えば、良かったのかよ)
声なきツッコミは、誰もいなくなった玄関の空間を見つめながら苦笑でしかなかった。
(…………)
やがて靴を脱ぎ、万年床の上にどっかと横たわり、ヘッドフォンの線をのばしてレコーダーのスイッチを入れれば、つい先ほどまでの熱気と空間が耳元にひろがっていく。
(…………)
演奏はまずまず、といった所であろうか。ただ、サービスでセットリストに組み入れた「月光」を歌いはじめた時、高感度のマイクは、リーンの、
「あ……!」
という、歓喜にも似た一声すらしっかり録っていた。
ラストの一曲を奏でる際、「……貴羽朋也でございました。今宵はどうもありがとうございました。……よいお年を!」と、お決まりのボケをかませば、「早すぎだろ!」云々のいつものツッコミと共に、リーンはクスリと笑ってさえいるではないか。やがて転換のSEが再び流れはじめると、なにやらゴソゴソとやっていたようだが、
「お疲れ様でした……素敵、だったよ……! えと……」
急にブツッと消えた録音データの最後には、上機嫌のリーンの感想すらのこされていたのだ。
(…………)
先ほどまでのあまりのギャップが改めて思い出されれば、
「何をキレてたんだ……あいつ……」
もう一度、俺は困惑してみた。だが同時に、今日の帰り際にマスターが放たれた一言をも、俺の心の中でこだますれば、ここ最近、なんだか忘れていたような焦燥感がむくむくともたげはじめると、やがてそれ以上の追求すら時間の無駄のような気がしてきて、図らずしもそんな翌日、俺は、デモ音源を提出した事すら忘れていた大手レコード会社から、突然の連絡をもらうのである。
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