彩雲

 一


「娘が逃げたぞ!」

「お嬢様っ!」


 とある町はずれ、木枯こがらしが吹く季節のことだった。


 赤く燃える屋敷の前を通りかかった彼は、思わず家路いえじを急ぐ足を止めた。

 荒々しい怒号と引きるような悲鳴を聞いたのだ。


「ここも、か……」


 目の前で繰り広げられている惨劇さんげきの正体。


 それは激しいものの、無意味で無駄な闘争に過ぎない。

 見慣れてしまったその光景の真意に、当事者たちは果たして気付いているのだろうか。


 最近増えつつあるその愚かな行為を見た彼は、ひとりで小さく呟いていた。


 たび装束しょうぞくに身を包んだ彼の髪が風に踊る。


 ひるがえった背割せわ合羽がっぱの下には刀が一振り。

 これは父親から譲り受けたもので、華奢なたちばなの花が彫られている。


 本来ならば、小太刀も共に差すのが礼儀だ。

 それは否めないのだが、彼の元に小太刀はない。


 当時は何故だろうと訝ったが、父から理由が明かされることはなかった。


 単に、刀を一振り譲り受けたのだ。


 この刀を己の腰帯に差したとき、やけに重たく感じたのを覚えている。


 この刀で世を救うのだと……救わなければならないのだと、若いなりに妙な責任感に突き動かされていた。


 それがどうだ。

 世は変わらない。

 むしろ、崩壊に拍車がかっている気さえする。


 そう思って、彼はひとつ息をついた。


 権力という名の極楽を求め、私利私欲の為に相手を蹴落けおとす。

 別に珍しい事ではないが、やはり煮え切らない。


 なぜ、そうまでして私欲を求めるのだろう。

 彼には愚かな行為にしか見えなかった。


 痩せた老婆を刀で追い回しているのは、権力者に雇われた可哀かわいそうな実力者だろうか。


 大名に仕える武士である彼自身も、最後にはああなってしまうのだろうか。


 そう考えている間にも一人、また一人と地面に伏していく。


 その様子を見ていた彼の視界に飛び込んできたのは、つい数刻前まで美しかったと思われる着物を泥まみれに引きずりながらこちらに走ってくる若い娘だった。


 恐らく、この無駄な争いに敗れようとしている貴族の娘だろう。


 無我夢中で逃げ惑っている姿を見て、家で待っているはずの妻と子供が頭に浮かんだ。


 愛しい妻と幼い子供。

 どちらも失ってしまうのはとても悲しいことだ。


 本来ならば失うことなく永らえるその命、救えるのならば救ってやりたい。


 彼はまだ若いが、社会のしくみは理解しているつもりだ。

 その闘争に敗れた者の親族が、どのような扱いをうけるのか。


 それを知っていながら見捨てる、ということが彼にはできなかった。


 止めていた足を踏み出す。

 朽ちてしまいそうな申し訳程度の門をくぐり、惨状を把握する。


 唐突に現れた彼を気にする者はいなかった。


 たった一人を除いては。


 娘がこちらを向いている。


 目が合った。


 逡巡する間も無く、既にしかばねとなったからだをまたいだ彼は無言のままに、前方から悲痛な顔で逃げてくる娘を背にかばった。


「そこの男、娘を渡せっ!」

 そう叫ぶ実力者の目は血走って興奮していた。


 愚かな。

 彼は小さく、そう唇を動かした。


 我を失っているのか。

 まるで目も当てられない。


「娘、ここまでよく頑張った」


 彼の背後で息を呑む気配がした。

 可哀そうに、震えているのか。


「後は、俺に任せろ」

 小さく呟いた彼は、ゆっくりと刀の柄に手をかける。


 後ろで動けずにいる娘を庇うように仁王におうつ彼は、落ち着いていた。


 幸運なことに相手は目の前の敵だけだ。

 後ろにも何人か見えるが、大した問題ではないだろう。


 勝算、実に我にあり。


「娘を渡してほしい、か」

 鯉口こいぐちを切り、目の前の相手と距離をはかる。


「そういうのは…………」

 圧倒的な自信とその威圧的な態度に、目の前の敵は後ずさりをした。


 その一瞬の隙を彼は見逃さない。


 ざっと乾いた土の音が響く。

 ほぼ同時に彼の刀が閃いた。


「――俺を倒してから言えよ」



 刹那。


 実力者の身体は声をあげることすら叶わないまま、力無く崩れ落ちた――――。







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