第2章
第33話
突き抜けるような青空の下、北町奉行所で取り調べが行われていた。
この時の北町奉行は、名奉行と評判高い小田切土佐守直年だ。
歴代の町奉行の中でも人情家で、南町奉行の根岸肥前守鎮衛よりも町人思いだと評判だった。
彼から見れば、この日が大安吉日と言うのは、皮肉以外の何物でもなかった。
吟味方与力に取り調べられているのは、権六と言う百姓だった。
権六は年貢で不正を働いたと言われ、江戸払いとなりそうだった。
江戸払いとは、江戸の中心部から追い出される事だ。
具体的に言えば、品川・板橋・千住・四谷の四大木戸および本所と深川の外へ追い払うことになる。
場合によれば、自分の村や町にも立ち入ることができなくなる。
田畑・家屋敷・家財を没収される、闕所と言う処分にされる可能性もあった。
取り調べる与力が横柄だったこともあり、権六は自暴自棄になっていた。
ここで与力は武士にあるまじき隙を見せた。
士道不覚悟と切腹を命じられて当然の大失態だった。
事もあろうに、取り調べ中に便意を催し中座したのだ。
それだけならば、生理現象だから仕方がないと言う者がいるかもしれない。
だが最低最悪なのは、取り調べ中の罪人の前に、刀を置いて行ったことだ。
自暴自棄になっている権六に悪魔がささやいた。
震える手で与力が置いて行った刀を取った。
ソロリと抜いた刀が権六にささやく。
「斬ってしまえ」
幼い頃から厳しい百姓仕事で鍛えられている権六だ。
しかも、お伊勢参りの時の自衛のために、剣術も学んでいた。
裕福な吟味方与力が持つ名刀・来国光に魅入られてしまった。
日本刀は元々人を殺すために鍛えられている。
「一旦鞘から抜かれたら、人を斬るまで元の鞘には戻らない」
などとうそぶく者もいるが、そんなことはない。
本当にそうなら、手入れの度に人を斬らねばならない。
半年に一度は手入れをしなければいけないのが日本刀だ。
旗本八万騎だけで考え、しかも大小二振りしか持たないと考えても、半年ごとに十六万人を斬らねばならないことになる。
迷信としか言いようがない。
だが、この時の権六に関しては、きっかけになったのは確かだ。
抜き身の来国光をだらりと右手に持った権六の眼は血走っていた。
そこに担当与力が便所から戻って来た。
ここで与力が権六を取り押さえれば、後々の騒動は起こらなかった。
だがその与力は武士の風上にも置けない卑怯者だった。
本来なら脇差や十手で権六を叩きのめすべきだった。
敵わなくても戦うべきだった。
それを事もあろうに背中を見せて逃げ出したのだ!
それが呼び水となり、権六が刀を持って追いかける事態となった!
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