手紙

@kuro07rin

一通目 その御期待には添えません

 拝啓、愛しの母上。本日も家事に仕事に我々の世話にと、御勤め大変御苦労様です。



 却説、こうして私があなた様に折り入って御手紙を綴っておりますのは、日頃の感謝と謝罪を深く申し上げる為で御座います。いつ何時も私達家族の為に尽くして下さり、私や弟をここまで手厚く育てて下さり、誠に有難う御座います。然し乍らあなた様の第一子──つまり長女である私は、此の世に生まれ落ちたその時から、誠に残念ではありますが、あなた様の愛し子ではなかった様で御座いますね。もしも私があなた様にとって、嘘偽り無く掛け替えのない存在であったならば、こうして私があなた様に不躾な猜疑心を抱く様な事も無かった事でしょう。



 あなた様は主婦として大変に優秀であり、強く誇り高き女性であり、私もその事実を大変自慢にも思っておりますが、私共のメンタルケアに置きましては、失礼ながら、誰よりも力不足だと感じております。私相手には特にそれが顕著で御座いましたね。


私は二年程前から鬱を患っておりますが、あなた様がその片鱗に気付いて下さる事は過去一度も有りませんでした。情緒が常に不安定な私は気分の浮き沈みが激しく、日によって目に生気が宿っていなかったり、テンションが異様に低く、ふとした事で場も弁えず泣き出してしまう時が有りますが、あなた様は心配は愚か、「見ていて疲れるから早く泣き止みなさい」と苛立たしく私を叱咤するだけでありました。私は最初の方こそ、「理由もなく悲しい気持ちになってしまう」だとか、「注意力や集中力、思考力が著しく落ちて何も出来ず手につかない、気力が全く無い」だとか、恥も躊躇いも捨ててあなた様に、懸命な説明と相談を繰り返して来ましたが、あなた様が私の心境を理解し、労って下さるその日は、とうとうやって来ませんでした。


意を決して市外の心療内科へ一人赴き、重度の鬱と診断される頃には、私の心は随分と荒み凍てついていた様に感じます。




 嗚呼、どうか勘違いなさらないで下さいませ。私は何も、あなた様を責めている心算は一切御座いません。只、こんな私で御免なさいと、あなた様の求める強い娘に育つ事が出来なくて申し訳ありませんと、心からの謝罪を申し上げているので御座います。




 母上、我が母上、何故泣いていらっしゃるのですか。私は何かまた、あなた様の気に障る事を口走ってしまったのでしょうか。困りました──。私は謝罪の心算でこの御手紙を綴っていると言うのに、またあなた様の御気分を害してしまったのだとしたら、此れは途端に意味と存在意義を失って、後は屑籠に投げ入れられるだけの紙屑と化してしまいます。


私はこれ以上如何すれば良いのでしょうか。何をすれば良いのでしょうか。如何すればまたあなた様に愛し子だと言っていただけるのでしょうか。あなた様は私に何を求めていらっしゃるのですか。解りません、今の私にはあなた様を理解する事が出来ません。出来の悪う娘で大変申し訳御座いません。若しかして、あなた様は随分と以前から、私の死を望んでいらっしゃったのかも知れませんね。もしそうなのであれば、その御気持ちを直ぐに汲み取る事が出来ず大変申し訳ありませんでした。もう少し人の気持ちを考えろと、日頃からあなた様に厳しく言われていたのに、また過ちを繰り返してしまった様で御座いますね。本当に申し訳ありません。




 心からの謝罪と、今までの返しきれない恩への感謝と致しまして、私は今から、この包丁で、私の喉笛を掻き切ろうと思います。嗚呼、如何か御安心下さいませ。先程砥石でしっかりと刃先を研いで置きましたから、私の頼りない腕でありましても、確りと突き刺さってくれる事でしょう。…嗚呼! 然しそれでは、私が事切れた後の始末が大変で御座いますね。我が母上の御手をこれ以上煩わせる訳にはいきませんから、何か違う方法で此の命の灯火を吹き消す事に致しましょう。何が良いですかね…飛び降りや線路への飛び込みは他人にも御迷惑をお掛けしてしまいますし…。



 なんて、冗談で御座います。真逆本気になさったのですか? ふふ、我が母上は大変に愛らしいですね。冗談、冗談です。大変申し訳ありませんが今の私に、自殺願望は毛程も御座いません。私の命は、魂は、あなた様の物でも、他の誰の物でもなく、私だけの物で御座います。私の命を如何扱おうと、私の勝手と言う訳で御座います。そう言う理屈な訳で御座います。そう言う訳で、私はあなた様からの自立──即ち一人暮らしをもう一度始めるべく、準備を進めている段階で御座います。申し訳ありませんがお金がまだ足りませんので、あと一、二年は如何か辛抱なさって下さいね。そうすれば、直ぐにでも新しい部屋を借りて、私はこの家を出て行きます。お世話になりました、如何か幸せにと胸を張って巣立つ日を、私が居なくなって喜ぶあなた様の顔を、この矮小な脳裏に思い浮かべながら、その日が来るのを楽しみにしております。




 母上、我が母上、一体如何したと言うのですか。何故先程からずっと泣いておられるのですか。何が悲しいのですか、何処か痛いのですか。嗚呼、それとも、私が居なくなる事がそんなにも嬉しいのでしょうか。ふふ、それは大変喜ばしい事ですね。一刻も早く、この家から出て行ける様に尽力致しますので、如何かもう暫くお待ち合わせ下さいませ。






 母上、母上……? 如何して私などを抱きしめて………

(手紙は、水を零した様に滲んだこの一行で終わっている)






 了

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