後編
俺は、自分の目を疑っていた。
あそこにいるじいさん、うちのじいさんそっくりだ。いや、そっくりだが、今のじいさんより少し若い気がする──。
1
鬼たちから取り返した宝の中に、見慣れないものがあった。
片手に収まるほどの大きさの小箱で、炭のように黒い。小箱の一面には、それこそ燃え残った炭のように赤く光っている部分があり、その光点が何やら意味ありげに規則正しく並んでいる。
文字だろうか? と思ったが、文字にしては単純すぎる気がする。少なくとも日本語ではない。文字のようなものは全体的に角ばっており、長方形、直線、蛇のような形、鍬のような形……と、しかも刻一刻とその形を変えているのだ。
一体なぜ鬼たちがこんなものを持っていたのか、想像もつかなかった。
小箱の上面には円形の出っ張りがあった。そうだ。思い出した。その円形の出っ張りに触れた瞬間、視界はゆがみ、平衡感覚は狂い、俺は気を失った。そして気づくとここに立っていたのだ。
俺はしばらく朦朧としていたようだったが、だんだん目が覚めてきた。そして目が覚めるにつれて周囲の状況が飲み込めてきた。
ここは裏山だ。じいさんがいつも芝刈りに行っていた裏山。中腹あたりだろうか。鬼ヶ島にいたはずだったが、一体どうやってここまで戻ってきたんだ? 記憶がなかった。イヌ、サル、キジの三匹もいないようだ。ていうか、宝もない。忘れてきたか? えっ? また鬼ヶ島取りに行かなきゃいけないの? 勘弁してよ。
……それにしても、じいさんあんなところで何してるんだ? いや、あれじいさんだよな? なぜ若返ってるんだ?
……あ、亀だ。亀がいる。亀を追い越せずにいるのか? じいさんそんなに動物を愛する感じの人だったっけ? 脇を通っていけばいいのに。まぁいいや。なんか困ってるようだし、助けてやるか。
「よう、じいさん。帰ってきたぜ」
宝を忘れてきたのは情けない話だったが、そう言うほかなかった。
「は、はぁ……」
近くで顔を見て気づいたが、やはりこいつ俺のじいさんではない。若すぎる。十から二十は若く見える。それにこの怪訝そうな反応。向こうも俺を知らないと見て間違いないだろう。人違いだった。
あれこれ弁明するのも妙に恥ずかしかったので、とりあえず亀をどけてやった。
「ああ! あああ! ありがとうございます! その亀を追い越せずに難儀しておったんです!」
「そうですか。では私はこれで」
亀を追い越せずに難儀するような奴がまともな奴であるはずがない。これ以上絡まれないうちにさっさとこの場を立ち去るに限る。
「ちょっと待っとくれ。お兄さん」
嫌な予感をひしひしと感じながら、無視するわけにもいかず振り返った。
「どうしました……?」
「あれを見てくれ」
「あれは……?」
「桃じゃよ」
それはそれは大きな桃が、そこにはあった。
2
「ずいぶん大きな桃ですね」
言いながら、俺はピンときていた。この桃から人が生まれるんじゃないのか?
言うまでもないことだが、人は桃から生まれる。俺も川で拾った桃から生まれたのだ。じいさんばあさんからはそう聞かされていたが、しかし中に人が入れるほど大きな桃を実際にこの目で見たことはなかった。そうか、これがあの……。
「この桃をワシの家まで運びたいんじゃが、なにぶん老いぼれでの。麓まで一人で運ぶのは骨が折れる。そこで、近くを流れとる川に桃を流そうと思うんじゃ。今ごろ下流ではばあさんが洗濯をしとるはずじゃ。あの元気なばあさんなら、きっと拾って家まで運んでくれる」
なるほど。「あの元気なばあさん」がどんなばあさんかは知らないが、例えばうちのばあさんでもこれぐらいの桃だったら運べそうだ。あのあたりは平地だから転がせばいけるだろう。
「こんな山道では転がして運ぶわけにもいかんでの。ワシも何日もかけて一人でここまで運んだんじゃが、川まではもう少し距離があるんじゃ。お兄さん、申し訳ないが、ちょっと川まで運ぶのを手伝ってもらえんか」
面倒なことになった。だがここで断れないところが俺の悪いところだ。お人好しすぎるのだ。俺は今年で十五になるが、この先この性格が治ることはないだろうと諦めはついていた。
「お安い御用ですよ」
十分ほど歩いたが、川はまだ遠いようだった。ここは山道だ。足場も悪い。日が暮れてしまっては危険だ。急ぎたかった。
「少し急ぎましょう」
「す、すまん、足が悪くてこれ以上急げんのじゃ……」
「そうですか……」
厄介なじいさんだな。だが仕方ない。とにかく日没に間に合えばいい。そういえば、うちのじいさんも足を悪くしていたな。かなり昔から悪かったらしいが、よくあれで毎日芝刈りに行っていたものだと今思えば感心する。
ひとつ、気になることがあった。十五年生きてきて一度も大きな桃を見なかったってことは、これ、結構珍しいものなんじゃないのか? もしかしたらこの先の人生、一度も桃を見ることなく終わってしまう可能性もあるんじゃないのか? だとしたら、こんな機会はない。
ぜひ、中を割って見てみたい。
3
衝動は抑えられなかった。それはまさに「衝動」と呼ぶに相応しいもので、後先考えずに俺はこう言ってしまったんだ。
「おじいさん、鉈を貸してもらえませんか」
とっさに言われたじいさんは片手で桃を持ったまま背中の鉈を取ろうとし、ふらつき、足を踏み外し、崖下へ落ちていった。桃と一緒に。
助からないであろうことは明白だった。この高さだ。あのじいさんは死んだ。
油断していた。一瞬だった。取り返しのつかないことをしてしまった──。
俺は、しばらく呆然と立ちすくんでいた。
それは突然だった。
体に力が入らない。立っていられない。頭がくらくらする。なんだこれは? 自分が自分でなくなるような感じがする。まるで俺が消えていくかのような──。
手を見た。透けていた。どんどん薄くなってゆく。俺が、俺の存在が消える? 一体なぜ──。
その瞬間、俺は全てを悟った。
やはり、あのじいさんは俺のじいさんだったのだ。俺は過去に戻っていた。おそらくあの黒い小箱が、時間を移動させる機械のようなものだったのだろう。
俺は川で拾った桃から生まれた。それがさっきの桃だったのだ。あの桃には俺が入っていた。
じいさんが川に流し、ばあさんが拾い、俺が生まれるはずだった桃は、今は谷底だ。
じいさんが川に流したという事実は消滅し、ばあさんが拾ったという事実も消滅し、したがって俺が生まれたという事実も──。
俺がここに存在するという事実が、下流で桃が受け取られた証拠だ。
俺が消えかけているという事実が、下流で桃が受け取られなかった証拠だ。
桃は受け取られ、かつ、受け取られない。
桃の存在自体がパラドックスだったのだ。
「桃から生まれたももたろう」……違う。俺の本当の名は、パラドックスから生まれた──
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