主人公が何ものにおいても正義、という絶対悪

 筆者は「異世界もの」を、キャラ文芸だとは思わない。また異世界の所在と意義についても容赦しがたくハイファンタジーとも思えない。ゆえに、異世界ものとは、「異世界」というあらたなジャンル名をつけることしか処理の仕方がないものなのである。

 どのような時代においても、小説は大衆娯楽性だけではなく学問的・啓蒙的・徳目的な性質を示し、ときには作者個人の内側をさらけ出す自己表現の手段としても用いられてきた。そこに物語としての形があることを前提に、創作人たちはさまざまな手法で何ごとかを表現しようとしてきたわけだ。それは現代にあるものであっても同じ。文化としての一個をあたらしく生み出そうとする人間がいる以上、これから誕生するあらゆる作品は何かの意図や目的をもっていなければならないのだ。

 そのようなことを考えるとき、筆者はふと疑わしい気持ちになる。ではライトノベルとはなんだ? 自分がいま書いているもの(少なからず本文こいつのことではない)とは、果たしてライトノベルに類えられるものだろうか? そんなことで知人に相談したりもする。知人は同じ創作人に限定される。どいつもこいつも今は無名だから、自分のしたいようにやっている。それで、かならずしも彼らのアドバイスは的確とは言えない。すぐに雑談に逸れる。しかし、そのようなごくごく自然でありふれた日常に接する自分のなかに、日常とはあきらかにことなった考え――それは昨今のポップカルチュアルな流行を否定するものであったり、旧作アニメと新作アニメを観比べて今後のアニメ業界を心配するものであったり、色々とする――が生まれて、浮かび上がってくるのだから、「ああ。自分はやっぱり、創作をしようとする人間なのだな」という自覚にいたるしかないのだ。今時分ネットサイトのうえに掲載される作品をあまねく一つずつ渉猟しょうりょうしてその結果に、小説とライトノベルを完全差別することなど自分にはできないから、もしかして『10(テン)』とか『いつかの心地』がライトノベルに類えられるものでなかったとしても、筆者には自分の作風を変えることができない。すべてそういうことなのだ。


 話をもどそう。で、最初に「異世界もの」が売れた理由のひとつに主人公絶対主義があると書いたが、それはつまるところの俺TUEEEEを指すのではなく、「あたかもその世界が主人公を道徳の見本としているかのよう」だという意味になる。

 

 よくある展開であると、車か列車に轢かれた(もしくは轢かれかけた)男性が西洋かぶれの異世界に転生あるいは転移し、ほんのちょっとした事件をきっかけに秘められし魔法の存在に気づいたりメインヒロインのパツキンチャンネーとかと知り合ったりして、ちょっくら俺冒険してきますわぁ、俺が君を守るからさっ、うわあああ!(たぶん風呂とか覗いてる)なんやかんやあり、物語は続いていくのだ。近ごろは女主人公も増えて来た(ニーズの拡大が原因か?)。それにしても、だいぶハショった。そして、どれだけ筆者が異世界ものに辟易へきえきしているのか理解していただけただろう。気分を害されたならNo Goodのうえツバでも吐きかけてもらって結構である。そうでないのなら、まだグチは長くなるが、おつきあい願いたい。

 近年よくみられるようになった異世界(転生)作品の大半は、アニメ業界が進歩し始めた1990年代~2010年代にテレビの前で育った若者(筆者の想像では特に男性が多い)たちによって生み出される。そのため多分なパロディー描写を含むもの、いわゆるラッキースケベを全面に押し出そうとするものなど、多様ながらにどこかジャンルが閉鎖的である。書き始めのころはとくに主人公が作者自身にもどりやすい。また学問的・専門的なワードや設定を用いようとすると膨大なデータを相手に原作プロットとにらめっこするハメを食らってしまうから、世界観もおのずとなのだ。


「あたかもその世界が主人公を道徳の見本としているかのよう」


 その言葉に秘められたるものは、すなわち、思春期の少年少女のフラストレーションのはけ口である。社会という巨大な組織の工作員である親・きょうだいたちからの重圧。人格否定味をにおわすフレーズを禁じ、報道やコミュニケーションに道徳という名のスモークをかけうる社会通念の存在。あれはダメ、これはダメとばかり繰り返す没個性的な教育方針。すべて、それらとほとんどかかわりのない筆者にさえ、ストレッサーのほかにありえようがない。ましてや多感な時期の少年少女にとって、それらは(自死、なんてごまかしようのない)自殺に走る動機にもなりえてしまうのだ。

 ここまで壮大な規模の話題にひろげることもどうかとは思われるが、そういったびみょうな心情をかんたんに解消することができるのは、アニメとかラノベという娯楽に限って見ると、やはり「異世界もの」しかない。異世界は、先述したように筆者のような凝り固まった知性の「外側」にある、精神的に未熟な少年少女たちにとっての救済だ。だから本当は存続していったほうがよいジャンルなのかもしれない。

 

 いや、「異世界もの」は、なくなるべきだ。

 だいたいに、ラノベというものは絵師のちょっとした挿絵とレーベルの金看板があるというだけで、漫画の単行本がへたをすれば2冊買えてしまえるような値段で売られているし、あげくそれが10冊以上の長編であったりする。ミリオンセラーになる原因など、どうやってすれば理解できる? いま筆者の書いていることが多くに納得されるとは考え得ないが、それでも現実を見てほしい。異世界でハチャメチャをする主人公の気分を味わって、いかに爽快であろうか。いかに痛快であろうか。だがその世界観は全部作者の妄想だとか夢見がちな理想にすぎない。本当に、自分がいまから購入しようとしているラノベ1冊が、大枚をはたく価値のあるものなのか。一部の賢明な日本人ならすぐにも気づくはずだ。いや、気づかなければならない。

 こほん、ええ。

 よく謳い文句にされる「最強」や「最弱」、「異世界」という言葉そのものであったり、長ったらしく説明的な(この筆者には言われたくなかろう)タイトルだったりするファーストタッチが、まずもって異世界作品は没個性的だ。タイトルというものはかならずしも簡潔であればいいわけでないにしろ、作者にとって、自分の作品がいかに大事なものなのかを読者に知らしめる形式をとっていなければならない。他人の目に媚びへつらうようなもの、内容説明的なものではだめだ。

 そして、かならず主人公に「世界に影響をもたらす力」が付与されている。これもかえってマイナス。ハイファンタジーなら、というか、アクションや冒険ものには主人公の潜在的な能力やその場だけの機転が欠かせないのに、強すぎる力を誇張しすぎるせいで、(むだに)大勢出てくる仲間たちも事実上お払い箱ではないか。異世界もの特有の「特別に与えられた力をあえて使わない」という部分も、なんだか主人公の判断が客観的すぎていてひじょうに感情移入しづらい。読者に感情移入させる気がはなからないのなら徹底して主人公をひどいめに遭わせるかするべきだけれども、そういうわけでもなく、なんだか気の抜けたストーリ展開が続いている。結局主人公たちはどこへ向かっているんだ、原作はいつ終わるんだ、とただただ不安に駆られるだけの読者たちを思うと、他人ごとながら腹が立ってくる。

 きわめつきの「あたかもその世界が主人公を道徳の見本としているかのよう」な描かれ方である。誰でも、筆者も、文章作りにおいて巧拙うまいへたはあるものだから、せめて作者本人の境遇や体験・考え方をフィードバックした独自の手法を見つけ出してほしい。「異世界といえば……」なんて、考えているまいな。異世界ジャンルの存在価値とは、前述したみたいに現実の固定観念にしばられることのない自由度の広さだったはずなのに、異世界はもれなくレンガ造りの家が立ち並ぶ中世の街並みとか魔法があるとかいう固定観念を持ってしまっては、愚の骨頂というものだろう。世間一般の作家たちがどうか知るよしもないが。

 

 これらの理由により、異世界終末宣言第1部分は完全に成された。





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