異世界終末宣言

屋鳥 吾更

シュ旨

 この話をし始めるにあたって、まず閲覧者に知っておいてもらう必要のある、一つの(筆者における)疑問がある。

 それは、この10年にも満たないささいな期間に、どうして「異世界もの」と呼ばれる(主にライトノベルを媒介とする)ジャンルは勢力範囲を拡大していったのか。ということである。

 細かな考察はこの際はぶく。なぜなら筆者にはこの異世界ものというやつを当然至極に書き出すことをはじめ、なんの変哲もない日々のなかに着想することも、また世知のようにいずれ悟ることもありえないからだ。そういうふうに若干思考のたどりつきにくい側面から見れば異世界とは、筆者のように頭の固い人間の「外側」に存在しているのかもしれないが。

 さて、日ごろ世話になっているカクヨム様のサイト上にこれ以上無意味な文面を載せることもはばかられるゆえ、本題に入ろうとおもう。

 ライトノベルに限らず、世にいう文豪の書いた小説や評論であろうと、アニメやドラマや映画といった映像作品であろうと、すべてこの世の運営において価値のないものである。人がいとなむ文化とは、そういう無価値の寄せ集めを、いかにして超自然的であると謳うかに懸かっているのではないか。それこそ。筆者など三文作家の代表格(とまで言うと、ほかの三文物書きに失礼であるか、)が時間浪費の果てにえがき出しているこの文章にも、人々に読まれることでようやく、価値と意味が生まれるのである。なかでもその大部分を占めるフィクション作品については、記述するまでもないだろう。


 ここで引用するために、筆者の崇拝する『魔法の力が消えていく』の執筆中、これを書くべきか、しかしこれは私情を含み過ぎている、と悩んだすえにエタったとある文言を、自前のPCの「作品化小説まとめ」ファイルからコピペしてきたものが下である。


「人の死以上に人を感動させるものがあると思うか?」


 こんな登場のさせ方は不服だった。名前も小説も無名なのだからしょうがないのだが。


 筆者は、ありていに言うと「異世界もの」が売れた理由は、大きな社会によって、切りつめられた価値観のなかだけで生きることを迫られた現代人――つまりわたしたちにとって、異世界という存在が「主人公が何ものにおいても正義」「戦う手段としてのぶきがある」「たやすく人が死ぬ」これらの特性を見せつけてきたためだと考える。そして、本文ではそれらについて論究していきたいと思っている。





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