第8話 魔法使い「ここはどこ、俺は誰?」

 ペルシアは、人に懐かない黒猫だ。

 シーラは、番犬になれない子犬だ。


 俺たちは道を歩いていた。

 始終、無言でいるわけにもいかず、沈黙に耐えかねて喋りだしたのはシーラだった。


 勝手に話すな、と、厳しく言われるとでも思ったのか、ペルシアは身構えた。が、べつにそれは構わないことだ。ここは砂漠ではない。会話をしたからといって、激しく喉が渇いたりもしない。俺は彼女たちの好きにさせた。


 奴隷商人に捕まっているあいだ、無言を強要されていたのだろう。

 口火を切ってしまえば、言葉の濁流が止まることはなかった。


「なにを見ていらっしゃるのですか?」


 シーラの言葉は、距離が近かった。


「足跡だ。逃げ出した賊……あぁ、おまえたちの馬車を襲った賊を俺が追い払ったのだが、彼らが逃げた足跡を拾い上げている。歩いているのと走っているのとでは跡が違うんだ。これを見分けるのは簡単だ」


 簡単といわれ、シーラも地面を見つめだしたが、さすがにそれは無理だろう。

 人は、歩くときには均一な足跡を残すが、駈けるときにはつま先側に深い跡を残す。

 このことを説明されても、今日明日に実践できるわけではない。


 金色髪のシーラは、どこか、緊張感に欠けていた。違った表現をすれば、人を信じる優しい性格をしている。たしかに俺は、賊と奴隷商人から彼女たちを救い出した。そのことで、俺のことを善人だと信用しているようだった。


 あえて否定はしないが、間違いだ。

 善良な民間人は、人間の死体を辱めたりはしない。


 黒髪のペルシアは、無償の善意など存在しないという考えの持ち主のようで、それらの事実をあわせても、俺に信用を寄せることはまったくなかった。疑いのまなざしを向けている。が、暴力では敵わないことは理解していた。


「難しいです」

「半月も学べばできるようになる。どうせ歩くだけなんだ、ついでに練習しておけ」


「ペルシアはどう?」

「あたしも全然。無理だって、そんなの」


 嘘だ。

 ペルシアの残す足跡が、その言葉が嘘であることを語っている。


 足跡には、その人間性があらわれるという。血液型診断ほどの曖昧な根拠ではない。たしかにあらわれるのだ。文字や絵を上手に描けるようになってしまうと、下手だったころの絵と同じものが描けなくなることと根拠は同じになる。


 シーラの背筋はぴんと伸びている。これが普段からの姿勢なのだ。おそらくは貴族か王族か、支配層や富裕層に属する人間であることは間違いない。社交用のドレスや、それに準じた服装を日常生活に用いているのだろう。彼女の足跡は、あきらかに人生のどこかの時点で、優美な歩き方を学んだ人間のものだった。


 ペルシアの背筋もぴんと伸びてはいる。だが、少し前のめりだ。つま先側に重心が偏っている。いつでも跳ねることができるようにだ。そして、足跡をつないだ線がまっ直ぐになっている。重心の左右へのぶれが少ないのだ。これは、戦闘の訓練を受けた者の歩き方だ。


 なんでもないようなフリをして、しなる木の枝を手に取ったりしているが、鞭として扱うには十分なだけの武器を選んでいた。


「えっと、あの……」

「なんだ?」


「お名前を、教えてはいただけませんか?」

「名前? ……俺の名前か」


 考えた。

 俺に、名前は、無い。

 正確には、過去のものが存在するのだろうが、記憶に無い。


 俺が黙して考えこむと、シーラの瞳が覗き込んでくる。なにか、よくない質問をしてしまったのかと、不安げだった。


「実は、俺には記憶が無いんだ」

「記憶が?」


 嘘だろ、そんな目でペルシアが見詰めていた。


「ここは何処、俺は誰、それら一切がわからない状態だ」

「記憶が無い。……なにかの魔法や呪いの影響でしょうか?」


「そういうわけではないと思うのだが……」

「もしよろしければ――、」

「シーラ!」


 ペルシアの鋭い声が俺たちの会話を、迂闊にも遮った。

 シーラの語ろうとした何事かが、彼女たちの秘密なのだろう。


 ――つまり、守るべきはシーラだ。


 自身の思い付きに頭を振った。守るべきはシーラだ。そして、ペルシアは邪魔だ。ならば、事故に見せかけて殺してしまったほうが楽になる。だがそれは、あまりにも短絡的な思考だ。長期的に考えるなら、仲間は多いほうが良い。そうなのだ。そうなのだ。


 だが――、仲間として扱えるほどにペルシアは有能か?

 頭のなかにささやく声があった。


 奴隷商に捕まった。ビッグルに連れだされたのは大きな機会だ。だが彼女は、その機会を掴めなかった。得られなかった。結果、賊に襲われた。油断を誘えば賊のひとりやふたりは殺せただろう。だが、そこまでだ。手枷と足枷をされたペルシアが、シーラを守りながら戦うには限度がある。つまり彼女は、すでに失敗をおかしている。何度もだ。


 いけない。

 この選択はいけない。

 この選択は、選んではならないものだ。


 無能を切り捨てる。無駄を排除する。極限まで効率を追求する。その考え方の末路にあるものは一本の鋭い刃か、あるいは朽ちかけの細枝か、俺は頭を振って自身にまとわりつく考えを振り払った。


「どうかなされましたか?」

「いや、なんでもない。当座の名前を考えたのだが、あまり良い名が浮かばなかったのだ」


 シーラの顔が、ぱぁっと明るく輝いた。

 嫌な予感がした。


「では、私たちで良い名前を考えてみます! ね、ペルシア?」

「クズとか、バカとかで良いんじゃないの?」


「駄目よ。もっとちゃんとしたの。騎士様になっても大丈夫な、素敵な名前を考えなくちゃ!」


 シーラが目を輝かせるのを見て、キラキラネームという語彙が、なぜだか俺の頭に去来した。




 森に分け入った後は口数が減った。

 ペルシアは周囲を警戒しだし、シーラは転ばないように必死だ。


 俺が知る限り、賊というものが生き残る道は二通りある。

 ひとつは、闇や物陰に隠れ、権力の眼から逃れる道だ。

 もうひとつは、堂々と力を見せつけ、権力に対抗する道だ。


 巨大すぎる悪というのは、むしろ、潰されない。

 街の中心に、堂々と看板を掲げることさえできるものなのだ。


 ビッグルの馬車を襲った一団は、どうやら後者の道を選んだようだった。

 城とまではいかないが、遠方からでも見える砦を構えていた。

 賊が、いちから砦を建造したとは考えにくい。過去の戦争のために造られた、それの廃墟を根城にしたというところか。


「ねぇ、アンタ。本当にどうする気なの?」

「俺はすでに言ったはずだ。山賊どもを退治する」


「……相手はひとりやふたりじゃないのよ? 砦よ砦、見える?」

「もちろんだ、見えている。あれだけの大きさだ、住み心地のいい部屋のひとつやふたつはあるだろう」


「アンタの妄言には付き合ってられないんだけど?」

「いや、付き合ってもらう。まずは、火の用意だ。それから服を脱げ。すべてだ」


「また裸になれって言うのっ!? 嫌よ!!」


 俺は、手にした剣の先をシーラに向けた。

 こうしてしまえば、しなる木の枝しか持たないペルシアは、無力だった。

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