第4話 ハローニューワールドオーダー
「セット――、」
ドアノブに手を掛け、扉の表面に右肩と体重を預ける。
左手には魔法の杖、左肩には鞄、そして全身は戦闘用のボディースーツに包まれている。
あとは、自身の呼吸や心拍のタイミングが整うのを待つだけだ。
肺のなかから息を吐き切り、ゆっくりと吸い込みなおし、そして止める。
ドアノブをひねる、扉を押し込む、転がるようにその向こう側へと飛び込んだ。
片膝をついた体勢をキープし、左右の状況を確認する。
クリア――な、視界だった。
俺が転がった地面のうえには雑草が生えていた。
見渡す限り、植物が堂々と生い茂る自然が広がっていた。
いきなり戦場の真っただ中に放り出されることは無かったようだ、と胸を撫でおろす。
未知の世界だ、安心はできない。
だからといって、緊張すべき場面だとも思えなかった。
無意味な緊張は脳を疲れさせるだけだ。
振り返れば、突入してきた扉はすでに消え失せていた。
新世界の状況を確認してから武装を選び直せる、そんなサービスはなかったらしい。
しかし、これはこれで困ったものだ。
扉から出た先は、高台になっている山の中腹だった。
眼下には森の緑が広がり、なにかの人工物を見つけることもできない。
集落や民家でもあれば情報収集にも易いのだが、森に囲まれた現状ではどうにもならない。
まさか、小鳥やイモムシに道を尋ねるわけにもいかないだろう。
だが――、考える。
「草さん、草さん、こんにちは」
返事がない。ただの雑草のようだ。
新世界で確認できた第一のことは、この世界の草はしゃべらないということだ。
運悪く、無口な草に出会ってしまったのかもしれないが、二度と試そうとする気にはなれなかった。
次に確認すべきことは大気の組成だ。
ここは新世界なのだ。呼吸可能な酸素に満ちているとは限らない。
「EXAMS、バイザーオフ」
頭部を覆っていたヘルメットが、アコーディオン状にスーツの後部へと収納されていく。
いくら兵器として改造されていてもEXAMSは本来、宇宙服だ。
細菌兵器や化学兵器にも対応できるよう、その気密性ならば完璧だ。
だが、始終、ヘルメットをかぶった状態で生活するわけにもいくまい。
俺は止めていた息を吐きだし、ゆっくりと新世界の空気を肺に吸い上げた。
呼吸可能だ。
現時点では、毒性を感じさせるような異臭もない。
あるとすれば、木々や草々が放つ青い香りだけだった。
これで酸素は確保できた。
つぎは水、そして食料の確保が正しい順序なのだが――、これは後回しだ。
なにも俺は、森のなかで孤独に暮らしたいわけではない。
そもそも、そういった理由で新世界の地に立たされたわけでもないだろう。
神の意志に背くという意味では森での一人暮らしも面白いが、孤独な暮らし自身はけっして楽しいものにはならないだろう。人間には、文明が必要だ。少なくとも、俺には。この世界が、石器時代でないことを祈る。せめて、言語があってくれることを祈る。
自身の状況を見失ったときには、道しるべとなる人間の痕跡を探すことが肝心だ。
山で遭難したときには無暗に降りていくよりも、逆に、山を登れという。
高さのぶんだけ視界は広がり、下山ルートの選択肢が増えるからだ。
眼下に広がる森に分け入る前に、俺はこの山の頂上を目指すことにした。
山の向こう側は街だった、という冗談のようなことも無いとはかぎらない。
EXAMSの性能を試すにも良い機会だった。
設定上の性能は記憶しているが、使用できるかどうかはまた別の話だ。自動車のカタログスペックを熟知しているからといって、スポーツカーを自在に乗りこなせるというわけではない。どころか、EXAMSのスペックは、スポーツカーの比ではないのだ。
まずは自分がどれほどEXAMSを乗りこなせるのかを知っておく必要があった。
バイザーを下ろし、両足で強く地面を蹴りこむ。
柔らかすぎる土の地面が爆ぜる感覚がしたが、強引に前方への推力に変換する。
慣れない地面の感触に足を滑らせながら、頭のなかでは計算していた。
EXAMSは元の筋力の30倍の出力で稼働する。
出力が30倍だからといって、単純に速度も30倍になるわけではない。
物体の運動エネルギーは速度の二乗に比例するため、この場合は理論上5.5倍の速度になる。
100メートルを10秒で走りきれるなら2秒と掛からない計算だが、理論値と現実は異なる。スポーツ競技場のトラックとは違い、踏み固められていない土の地面はあっさりと弱音を吐いて、まるで泥の上を走っているかのような
機動力の向上は、せいぜい2から3倍といったところだろう。
最高時速に換算すると――、計算するまでもなくバイザーの内側に83km/hと時速が表示されていた。登りであることを考慮すれば、相当なスピードだ。これで地面が硬いコンクリートであれば、時速100キロメートルを超えることさえ簡単だろう。
だが、圧倒的な速度に対して地面を噛むグリップ性能は最悪だった。
接地する箇所が足の裏しかなく、地面を削り取るようにしながら木を避けるしかない。
スーツの性能を引き出すためには、相応のトレーニングが必要であることがわかった。
走る、跳ぶ、曲がる、一連の基本的動作をこなしつつ山を駆け上がる。
それほど標高のある山ではなかったのか、頂上まで5分と掛からず到達していた。
振り返り、登ってきたルートを確認する。
生身の脚力であれば小一時間は掛かっていたことだろう。
速度のほかに跳躍力も向上していたため、難所を迂回する必要がなかったのだ。
山の頂上に立つと、視界がさらに広がった。
360°の景色を見渡し、さらに人工物の存在を探し求めた。
山の裾野から森が広がっていた。
森の木に視界の多くが邪魔されていたが、途切れ途切れに土のラインが見えた。道だ。
舗装や手入れがされているわけではなく、ただ土の色がむき出しになっているだけのものだが、道の上を二頭立ての馬車が走っていた。バイザーのディスプレイがそのすがたを拡大すると、くねった細い道に反して、馬車の速度が早すぎるように思えた。
さらに細かく観察すると、二頭の馬が牽く木箱のような車の側面に、何本かの矢が突き立っている。どうやら、現在進行形で何者かの襲撃を受けているらしい。
俺は、少し安心した。
馬が存在するなら、とりあえず馬肉も存在し、飲食可能な食料に困らない。
乗り物が馬車で、襲撃者が弓矢を使うということは、EXAMSは明らかなオーバーテクノロジーになる。M1エイブラムス主力戦車でもって竹やりの農民と戦うようなものだ。これでは戦闘と呼ぶよりも一方的な虐殺になるだろう。
世界のすべてが均一のテクノロジーで満たされているとは考えられないが、この付近一帯に地域を限定するなら、戦闘において兵器の性能で劣勢に回る可能性は低いと考えられた。
そして――、考える。
馬車が走っている。襲われている。そこにたまたま居合わせている。これらのすべてを偶然のひとことで片付けるのは、あまりに無理があるだろう。明らかな作為を感じる。
俺を新世界へと導いた神、あるいは神に類似した何者かは、俺と馬車の主が接触することを望んでいる。あるいは、襲撃している
考える。
助ける義理はない。
薦めに従う責務もない。
なにもかも見なかったことにして、馬車の走ってきた道の先、どちらか一方を目指して歩いて行けば、文明社会に辿り着けることだろう。あとは、自由に暮らせば良い。EXAMSの能力を使えば、生活に困ることは無いだろう。
だがしかし――、だ。
俺はすでに鞄と、杖と、EXAMSを受け取ってしまっている。
これらの神秘と科学の結晶は必要経費であり、同時に、仕事の報酬でもあるのだろう。
紙に書いて任務内容を明示されたわけではない。だが、報酬は受け取り済みなのだ。
そしてこれは肝心なことだが――、俺という人間の性能を確認する良い機会でもある。
俺は、戦えるのか? ――殺せるのか?
こればかりは、実戦の場に立たなければわからないことだ。
訓練所ではどれだけ優秀な兵士でも、戦場では怯えて震え、タコツボに引きこもる兵士も居る。
さて、選択のときだ。
俺は、あの馬車を救助することを選択して、山の頂上から一直線に駈け下りた。
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